第16話「前田 利家」15(全192回)

『戦国時代の群像』「前田 利家」15(全192回)

「前田 利家」(1538~1599)戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。加賀藩主前田氏の祖。豊臣政権の五大老の一人。尾張国海東郡荒子村の荒子城主前田利春の四男。はじめ小姓として織田信長に仕え、青年時代は赤母衣衆として従軍し、槍の名手であったため「槍の又左」の異名を持った。

その後柴田勝家の与力として、北陸方面部隊の一員として各地を転戦し、能登一国23万石を拝領し大名となる。信長が本能寺の変により明智光秀に討たれると、はじめ柴田勝家に付くが、後に羽柴秀吉に臣従した。以後、豊臣家の宿老として秀吉の天下平定事業に従軍し、加賀国・越中国を与えられ加賀藩百万石の礎を築く。

また、豊臣政権五大老に列せられ、豊臣秀頼の傅役(後見人)を任じられる。秀吉の死後、対立が顕在化する武断派と文治派の争いに仲裁役として働き、覇権奪取のため横行する徳川家康の牽制に尽力するが、秀吉の死の8ヶ月後に病死した。

天文7年(1538)、尾張国海東郡荒子村において、その地を支配していた土豪・荒子前田家の当主である前田利春(利昌とも)の四男として生まれる。幼名は犬千代。荒子前田家は利仁流藤原氏の一族とも菅原氏の一族ともいわれるが確かなものではない。当時の領地は2,000貫だった(利家記)。はじめ前田氏は、織田家筆頭家老の林秀貞の与力であったが(『信長公記』『加賀藩史稿』)、天文20年(1551)頃に織田信長に小姓として仕える。

若い頃の利家は、短気で喧嘩早く、派手な格好をしたかぶき者であった[3]。翌天文21年(1552)に尾張下四郡を支配する織田大和守家(清洲織田氏)の清洲城主・織田信友と信長の間に起こった萱津の戦いで初陣し、首級ひとつを挙げる功を立てる(村井重頼覚書)。その後、元服して前田又左衞門利家と名乗った(又四郎、孫四郎とも)。

青年時代の利家は血気盛んで槍の又左衞門、槍の又左などの異名をもって呼ばれていた。だが、その血気が仇となり苦難の日々を送ったのも、この頃であった。弘治2年(1556)、信長と、その弟の織田信勝による織田家の家督争いである稲生の戦いでは、宮井勘兵衛なる小姓頭に右目下を矢で射抜かれながらも討ち取るという功績を上げる。

永禄元年(1558年)、尾張上四郡を支配していた守護代岩倉城主・織田信安(岩倉織田氏)の息子・織田信賢との争いである浮野の戦いにも従軍し功積を挙げた。前述の異名で呼ばれ始めたのも、この戦いの頃からという。

その後、永禄3年(1560)、出仕停止を受けていたのにも関わらず、信長に無断で桶狭間の戦いに参加して朝の合戦で首一つ、本戦で二つの計三つの首を挙げる功を立てるも、帰参は許されなかった。翌永禄4年(1561年)、森部の戦いでも無断参戦する。ここで斎藤家重臣・日比野下野守の家来で、「頸取足立」の異名を持つ足立六兵衛なる怪力の豪傑を討ち取る功績を挙げた。

この時、足立以外にも首級1つを挙げている。2つの首級を持参して信長の面前に出ると、今回は戦功が認められ、信長から300貫が加増されて450貫文となり、ようやく帰参を許された(『信長公記』)。利家の浪人中に父・利春は死去し、前田家の家督は長兄・利久が継いでいたが、永禄12年(1569)に信長から突如、兄に代わって前田家の家督を継ぐように命じられる。

理由は利久に実子がなく、病弱のため「武者道少御無沙汰」の状態にあったからだという(『村井重頼覚書』)。天正2年(1574)には柴田勝家の与力となり、越前一向一揆の鎮圧に従事した。この際の苛烈な一向一揆の弾圧については、小丸城から出土した瓦に刻まれた「前田又左衛門どのが捕らえた一向宗千人ばかりをはりつけ、釜茹でに処した」などの記録 などによって伺うことができる。

一揆から生き残り、まもなく行われた小丸城の普請に参加した人夫によるものと考えられており、1932年味小丸城二の丸から出土したものである(現在は武生越前の里郷土資料館所蔵)。翌年には越前一向一揆は平定されたが、この際に佐々成政・不破光治とともに府中10万石を与えられ(三人相知で、3万3千石が個別に与えられたわけではない、「府中三人衆」と呼ばれるようになる。越前国平定後は、勝家与力として成政らと共に上杉軍と戦うなど北陸地方の平定に従事するが、信長の命により摂津有岡城攻め(有岡城の戦い)、播磨三木城攻め(三木合戦)にも参加しており、信長の直参的役割は続いていたものと思われる。

天正9年(1581年)、織田信長より能登一国を与えられ、七尾城主となり23万石を領有する大名となった。旧加賀藩領(石川県・富山県)では、この時点で「加賀藩」が成立したと解釈され、利家は初代藩主とされている(しかし、近年では徳川氏へ従属した利長を「初代加賀藩主」とする解釈もなされている)。

翌年、難攻不落ながら港湾部の町から離れた七尾城を廃城、港を臨む小山を縄張りして小丸山城を築城した[7]。天正10年(1582年)6月の本能寺の変で信長が家臣の明智光秀により討たれた時、利家は柴田勝家に従い、上杉景勝軍の籠る越中魚津城を攻略中であり、山崎の戦いに加わることができなかった。

光秀の死亡後まもない6月27日に織田家の後継人事等を決定する清洲会議において羽柴秀吉(豊臣秀吉)と柴田勝家が対立すると、利家は勝家の与力であったことから(若き頃よりの親交、地理的な問題ともされるが真偽は不明)そのまま勝家に与することになるが、かねてから旧交があった秀吉との関係にも苦しんだ。

同年11月には勝家の命を受け、金森長近・不破勝光とともに山城宝積寺城(現京都府大山崎町)にあった秀吉を相手に一時的な和議の交渉を行った(ただしこれは雪に閉ざされた北陸を本拠地としていた勝家の方便である。この際に秀吉に逆に懐柔されたといわれる。そして天正11年(1583)4月の賤ヶ岳の戦いでは、利家は5,000ほどを率いて柴田軍として布陣したが、合戦のたけなわで突然撤退し、羽柴軍の勝利を決定づけた。

利家は越前府中城(現福井県武生市)に籠るが、敗北して北ノ庄城へ逃れる途中の柴田勝家が立ち寄ってこれまでの労をねぎらい、湯漬けを所望したという逸話が残る(『賤岳合戦記』)。その後、府中城に使者として入った堀秀政の勧告に従って利家は降伏し、北ノ庄城攻めの先鋒となった。戦後本領を安堵されるとともに佐久間盛政の旧領・加賀国のうち二郡を秀吉から加増され、本拠地を能登の小丸山城から加賀の尾山城(のちの金沢城)に移した。天正12年(1584)の秀吉と徳川家康・織田信雄が衝突した小牧・長久手の戦いでは、佐々成政が家康らに呼応して加賀・能登国に侵攻したが、末森城で成政を撃破した(末森城の戦い)。

4月9日の長久手の戦いでは秀吉方は敗北を喫したが、その後も両軍の対陣が続いて戦線は膠着状態となった。この間、丹羽長秀と共に、北陸方面の守備を委ねられていた利家は北陸を動かなかった。天正12年8月、利家が先導役を果たし秀吉が10万の大軍を率いて越中国に攻め込むと佐々成政は降伏(富山の役)し、利家の嫡子・前田利長が越中国の4郡のうち砺波・射水・婦負の3郡を加増された。同年4月に、越前国の国主である丹羽長秀が没し丹羽家は国替えとなり、それに伴い利家は豊臣政権下における北陸道の惣職ともいうべき地位に上った。

秀吉から諸大名の窓口としての機能を求められたのである、とりわけ蒲生騒動の件では徳川家康に代わって奔走し、秀吉から処分の取り消しを引き出した。九州征伐では8,000の兵で畿内を守備(息子の利長が九州まで従軍)。同年7月に秀吉は関白に任官し、9月に秀吉が豊臣姓を賜ると天正14年(1585年)に利家に羽柴氏(名字)を名乗らせ筑前守・左近衛権少将に任官させている(前田家譜)。天正16年(1588年)には秀吉から豊臣姓(本姓)をも下賜された。 天正18年(1590)1月21日には参議に任じられる(前田家譜)。

また、秀吉が主催した北野大茶湯や後陽成天皇の聚楽第行幸にも陪席する。その後は奥州の伊達政宗などに対して上洛を求める交渉役となる。北条氏制圧のための小田原征伐では北国勢の総指揮として上杉景勝・真田昌幸と共に上野国に入り、北条氏の北端要所の松井田城を攻略、他の諸城も次々と攻略した。

続いて武蔵国に入り、鉢形城・八王子城を陥す(上杉家文書・前田家譜)。7月5日、北条氏は降伏。陸奥国の伊達政宗もこの時すでに小田原に出向いて降参していたが、彼に対する尋問は利家らが行ったという。先に上洛を促していることや、秀吉への奏者を務めていることなど、利家は伊達政宗や南部信直との外交についても取次をしており、南部信直との交渉は天正14年8月頃から確認される[14]。小田原落城後、秀吉は奥羽へ軍を進める。

秀吉自身は8月に帰陣の途についたが、利家らは残って奥羽の鎮圧に努めた。国内を統一した後の秀吉は唐入り(高麗御陣)、すなわち朝鮮出兵を始める。天正19年(1591)8月、秀吉より出兵の命が出され、名護屋城の築城が始められた。翌文禄元年(1592)3月16日に利家は諸将に先んじて京を出陣、名護屋に向かった(言経卿記)。

従う兵は8,000というが、嫡子の利長は京に停められている。初め秀吉は自ら渡海する意思を持っていたが、利家は徳川家康と共にその非なるを説き、思い止まらせた。7月22日、秀吉は母・大政所危篤の報を得て、急ぎ帰坂する。葬儀を終えて、再び名護屋へ向け大坂を発ったのが10月1日(多聞院日記)。

約3ヶ月間名護屋を留守にしていたが、その問、秀吉に代わって諸将を指揮し、政務を行っていたのは、家康と利家であり、のちの五大老の原型がみてとれる。文禄2年(1593)1月、渡海の命を受けて準備し、陣立てまで定まったが、間もなく明との講和の動きが進み、結局は渡海に及ばなかった。5月15日、明使が名護屋に着くと、家康・利家の邸宅がその宿舎とされた。8月、豊臣秀頼誕生の報に、秀吉は大坂に戻る。利家も続いて東上し、11月に金沢に帰城した。このときにまつの侍女である千代の方との間に生まれた子供が猿千代、のちの第三代加賀藩主・前田利常である。

慶長3年(1598年)になると秀吉と共に利家も健康の衰えを見せ始めるようになる。3月15日に醍醐の花見に妻のまつと陪席すると、4月20日に嫡子・利長に家督を譲り隠居、湯治のため草津に赴いた。この時、隠居料として加賀石川郡・河北郡、越中氷見郡、能登鹿島郡にて計1万5千石を与えられている(加賀藩歴譜)。しかし、実質的には隠居は許されず、草津より戻った利家は、五大老・五奉行の制度を定めた秀吉より大老の一人に命じられる。

 しかも家康と並ぶ大老の上首の地位であった。なおこの政治体制を「秀吉遺言覚書体制」と言う。そして8月18日、秀吉は、利家らに嫡子である豊臣秀頼の将来を繰り返し頼み没する。慶長4年元旦(1599)、諸大名は伏見に出頭し、新主秀頼に年賀の礼を行った。利家は病中ながらも傳役として無理をおし出席、秀頼を抱いて着席した。

 そして10日、秀吉の遺言通り、家康が伏見城に利家が秀頼に扈従し大坂城に入る。以後、秀頼の傅役として大坂城の実質的主となる(言経・利家夜話)。しかし、間もなく家康は亡き秀吉の法度を破り、伊達政宗・蜂須賀家政・福島正則と無断で婚姻政策を進めた。利家はこれに反発し、諸大名が家康・利家の両屋敷に集結する騒ぎとなった。

 利家には、上杉景勝・毛利輝元・宇喜多秀家の三大老や五奉行の石田三成、また後に関ヶ原の戦いで家康方につくこととなる武断派の細川忠興・浅野幸長・加藤清正・加藤嘉明らが味方したが、2月2日に利家を含む四大老・五奉行の9人と家康とが誓紙を交換、さらに利家が家康のもとを訪問し、家康も利家と対立することは不利と悟り向島へ退去すること等で和解した。この直後、利家の病状が悪化し、家康が病気見舞いのため利家邸を訪問した。この時、利家は抜き身の太刀を布団の下に忍ばせていたというエピソードが残っている。その後大坂の自邸で病死。享年62。


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