詩想に溺れ、物語ることを忘れる
どうも人間というものは良くも悪くも大抵のことには『慣れる』ようだ。
そしてこれもまた人間らしいが当てはまるのだが『良くも悪くも』という言葉。
題名が随分と大げさというか気取ったように書いているように思う人もいるだろうが、な~に、もっと簡潔に答えるのならば詩ばっか書いてたら小説の書き方忘れちゃってた! ってだけなのだ。
ところが元来、生まれつきに頭のよろしくない私だけれども人並みに自己顕示欲というものはある。
いや人間ならば誰だってそうだろう。 いやいや詩を書いたり小説を書いたりなどと創作をしているものならば人並みどころではないだろう。
けれども実力以上に背伸びして『難解な言葉を飾り立てて』記すのは恥ずかしいし、かといって『無学でございます~』とへりくだるように書くこともまた恥ずかしい。
要するにこの題名自体が私という人間の自意識がギリギリの鍔迫り合いした結果ということだ。
付け加えるならばせっかくだから今までに書いたことの無い文体で記述してみようという初々しさも含まれている。
ここまで断りを入れておけばこんな自意識がプンプンと臭う文章に読者もきっと『良くも悪くも』『慣れてくれる』だろうと期待する。
いやはやなぜこんな回りくどいことを最初から書いたか?
それは自分の作品を解説することが私にとって一番、羞恥心を刺激されるからだ。
……いやだって自分で自分のことを書かないといけないんですよ?
顔が熱くなりますよ、っていうか実際、顔めっちゃ赤くなってますよ。
思わず文章が素になっちゃってますよ!
しかしながらおぼろげではあるが自分の好みの詩というものがわかってきたし、またそれが自身の小説にどう影響を与えているかについても考えてみた。
そして詩ばっか書いていて小説らしい小説をここ半年くらい書いていないことを反省すると同時になぜそうなったのか? をつきつめていくうちにふと気づいたこともある。
自分のことだからこそ聞こえの良い言葉で誤魔化すことも卑下して隠すこともしたくない、ただただ外聞も羞恥も越えて誠実に書くのだ。
時には利害を超えて馬鹿になってみないとわからないこともある。
でなければわざわざ好き好んで創作なんてやれるわけがないではないか。
というわけで本題に入るのだが、私の好きな詩とは リズム感のある文で簡潔にもしくはメリハリをつけた詩だ。
だからこそ私が韻を踏むような表現が好きなのはまさにこの文のリズム感を求めるがゆえにである。
つい先だって書いた詩の一節で好きな部分を引用するのなら
『白紙の譜面、流転の軌跡を記し、託し、苦戦の付箋を挟んで信じる奇跡』
単語の読みをほぼ三文字にすることで読んだ際に歯切れよくリズムが心地よい。
と自画自賛してみる。
私にとって基本的に詩はこのように文章のテンポが心地よく、文章全体の雰囲気が一致していてかつ長すぎないモノが理想だ。
とはいえそれが出来れば苦労はしないのだけれども。
つまり文章のテンポをよくしようとすれば簡潔に書くしかない。
しかし簡潔にテンポ良く書くのなら単語を厳選し、その配列も考えなければならず全体として相手に意味を想像してもらわなければならない余地が広がり、言いたいことがぼやけてしまう。
長すぎないという部分もテンポを簡潔にするのは歯切れが良いが、それも長すぎれば単調に思えてしまうからだ。
まあ、余地を読者に委ねるというのはそれはそれで良いところもあるのだけれども。
最近はだいたい前に挙げた三点を意識しつつもそのどれか一つ、あるいは二つを取捨選択しつつ詩を書き上げている。
だがこれはあくまで詩の書き方であって小説の書き方ではないということに最近気づいてきた。
詩と小説。 似ているようでそのあり方が違うと言うことを。
詩は広い平面の上で自由に言葉のボールを弾ませつつもその世界から取りこぼさないように形を創っていくもの。
小説は平面上に言葉を張り巡らしつつ、それらを幾重にも折りたたんでいきながら、それぞれの階層の言葉の隙間を埋めて多重構造に創り上げながら形にしていくもの。
だから詩の感覚で小説を書こうとすると、折り重ねるたびにあちらこちらへと跳ねた言葉は各階層で繋がりは無くスカスカで、あるいは階層同士で潰しあってそれ自体を歪にしていく。
例えるなら華麗な所作を数秒ごとに切り貼りした静止画のようなモノで、単体で見ればそれらは美しくみえるかもしれないが、各場面の繋がりのないぶつ切りされた画像でしかない。
蛇足だが、では小説の感覚で詩を書くとどうなるだろうか?
たとえそれ自体で成立はしていても、やはり言葉同士はどこかキッチリと繋がっていてその間に遊びは無く、ただ固定されているだけのようで退屈に思えてしまうのだ。
先の例えなら所作の動きを一つ一つ理屈っぽく説明されているような無粋な感覚になってしまう。
ただこれはあくまで私の私見であり、今の実力での考えに過ぎない。
そして私が小説を書けなかった理由がまさにこの詩の書き方に影響されていたということだ。
つまりは言葉をいかにして跳ねさせていくか?
という楽しみにハマっていて、いざ小説を書こうとしたときに先述したような事態になってしまい、書いては消してまた書いては消してを繰り返していた。
そうしていれば楽しくないのは当然で、詩の方にさらに関心が向いていく。
また小説の方が字数の問題や多重構造なので必然的に完成させるのに時間がかかるが、詩の方はそうでもないので完成させた時の達成感が余計にそれを助長させていく。
こうして気づけば半年間もまともに小説を書いていなかった。
ちなみに『カクヨムの運営さんに聞いてみようシリーズ』とかはどちらかといえばエッセイとかに感覚が近いのであれは小説とはまた違う。
確かに詩は書くが、あくまで自分は『小説書き』であることを自負しているのでこうして気づいてしまった以上はやはり小説を書かないといけないだろうとあらためて決意したのでこれを書いてみた。
まあ『そんなのてめえの好きにしろや』とか『んなことわざわざ書くことはねえだろう』とは思われるだろうが、ともすればこの『こっ恥ずかしいだけの自意識過剰な文』を書くことで自分自身への戒めにするためにわざわざ書いている。
誰も今日死ぬとわかって目覚める人間はいない。
どうせ人間はいつかは死ぬ。
今日か明日かそれとも一年後か。
だから後悔しないためにも喜びも怒りも悲しみも恥であろうとも何でもタブーなく書くべきなのだ。
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