(二)精神病者ハ語ル
ある時から、私の中には常に二人の自分が併存しているように思われるのです。もっと正確に言おうとするならば、私の「中」という表現は間違っているのかもしれません。なぜならこれは私の現実世界と精神世界に関わることであるからです。仮に前者を外、後者を中(これは個人的なイメージに過ぎないのですが、なんとなく、精神は心ですから内側を向いており、現実は心、或いは体を飛び出した先に広がる外側の世界であると私は認識しています)とするならば、私という物理的現象を起点として、外にある現実世界と、中にある精神世界のそれぞれに一人ずつ「自分」が存在しているということになります。故に、「併存する」という言葉にも誤りが認められるように思われます。そもそも同じ時間軸を共有しているかどうかも判らない二つの世界に、同時に存在しているかのような表現をするのはあまりにも性急でしょう。また、現実世界と精神世界は常に並行しているため、それら二つの自分がひとところに会することもまず不可能なのです。
こうしてくどくどと説明をしている際にもまた、注釈を施さなければならぬ箇所が浮き彫りになってきます。このように、私の内側と外側に一人ずつ自分が存在しているわけですが、それではその中間地点にある「私」とは一体何者なのでしょうか。これを考える上では私自身もかなり悩みました。自分という現象を、現実と精神という二つの世界に二分してしまっている以上、その間には境目がなければなりません。ですがその境目というのがどうも曖昧なのです。
多分、この「私」とは、大方現実側に所属しているものと思われます。現実は現実です。なので、私という人称を現実に置かないでは私という存在は消えて無くなってしまいます。その前提がある上で精神側の自分が後から付いてくる。そういう具合でしょうか。よって二つの世界を一本の直線上に示すのであれば、間に在る「私」は必ずしも中間地点で境界線を引く役割を担っているわけではないということになります。直線上の大方を現実が占めており、残りが精神の世界、そしてその境界部分は先述の通り、至極曖昧であるということであります。
よってここで主張したいのは、精神世界における別の自分を認識しているという、その特異性です。現実世界に自分の存在を認めるのは当然のことで、その世界で起こる現象により重きをおくのは人類の、ひいては全生物の性であり、それは、水が上から下へ流れていく、という常識と同じくらい明白な事実であるのです。
たとえ精神世界に自分が存在しているということを意識する人がいたとしても、(確かに、考え事をしている時などは精神世界の自己が活動していると言えなくはないのかもしれません)それは現実における営みには何らの悪影響も及ぼさないのでしょう。しかし、私の場合は些か特殊であるような気がします。精神世界での自分が、まるで我こそが現実の存在なのだと主張するが如く、確かな現実みを以て行動していることがしばしばあるのです。この心の自分の存在が明瞭であることこそ、私が「二人の自分」を主張する所以なのです。
より詳細に説明しますと、このようになります。精神世界における自分は、現実世界にいる自分とまるで同じように行動します。ふと気がつくと、精神での自分が朝目覚めて朝食をとっていたり、読書をしていたり、時には知人と会話をしたりしています。このように語ると、まるで私が客観的に精神世界の自分を眺めているように感じられてくるかもしれませんが、そうではないのです。大方、精神の自分が行動を起している間は、精神の自分を主観として私がそこでのあらゆる出来事を経験することになります。つまり、私が精神世界の自分を主観としている時、現実の自分は全く意識を持っていないのです。事実、精神世界で幾らか時間を過ごした後、ふと意識が現実世界の主観に戻ってくると、その時間の分だけ(全く同じ量の時間が現実世界でも消費されているのかは不明ですが)そこで自分が何をしていたかわからない空白の時間が出来上っています。(時折、精神に於いても、自分が何をしていたか、例えば、誰と会話していたのかなどを忘れていることがあります。それはまるで、記憶の片鱗を手中にしながらも、それをうまく組み立てて全体像をつかむことができぬという夢から覚めた時のもどかしさのようです)それほど、精神における私の自己主張は強いと言えます。
これの何が恐ろしいかといえば、私が精神世界の住人である間、現実に所属する私の物理的な体は、一体どのような表情をして、どのような格好で立っている(あるいは座っている)のかが全くわからないというところです。最悪な場合を考えるならば、意識せぬうちに現実世界で別の行動をとっているかもしれないのです。そうした夢中遊行を繰り返して、他人に悪影響を及ぼすような大罪なんかを起こしているのではないか、などと考えるだけで、背筋が小刻みに波打つような思いになります。
そんな私の思いとは裏腹に、精神的主観はどんどん私の脳髄を侵食しているように思われます。事もあろうに最近では、精神世界の自分が、五感のすべてを操るまでになってしまっているのです。歩いている時足裏に感じる地面の硬さ、声を出す際の声帯の震え、人々の声、食物の匂いや味……。すべてがまるで現実であるかのように、ありありと私に迫ってくるのです。
こうなるともはや、精神の世界こそが現実なのではないかと、妙な錯覚を覚えてきてならないのです。精神世界に持ち込まれた物質的な感覚のおかげで、私の体ごと、実は精神世界に属してしまったのではないかと感じるようになりました。この頃は、精神世界で活動する時間の方がめっぽう多くなる次第で、今や現実世界と精神世界の曖昧模糊とした境界線が、まるで霧が町全体にかかるように、モヤモヤと現実世界に迫って覆い隠してしまうようです。現実世界に立ち返ったとて、時折そこが果たして精神世界なのか現実世界なのかわからなくなるほどで、胡蝶の夢も甚だしいのであります。
こうなると、今更ながらですが、「現実世界」という言葉は、「物質世界」とでも改めた方がいいように思えてきます。所謂現実の世界が、時に精神の世界と区別がつかなくなるような状況に陥ってしまっている以上、そこに存在するのは物質的現象のみであり、とてもではないですが私にはこれ以上それを現実などと呼ぶのは忍びありません。もともと、精神の対義語とは物質なのですから。そうして精神の事象こそが現実だと主張する神秘的な声めいたものを、私は不本意ながら認めつつあります。
私は現在、**市内にある**大学付属病院に入院しています。この病院の第二病棟三階にある病室に連れられる時、私は嫌だなと思ったんです。なぜならば、当時私は、この第二病棟の三階が精神科であることを知っていたからです。もしかしたら、精神科に連れてこられたのは、精神世界の自己と関係があるのではないか、よもや私が精神世界でうつつを抜かしている間に、物質世界の私がついに、無意識的に何か重大な過失を犯してしまったのではないかと、最初の数日は気が気ではありませんでした。
ところが、どうやらそういうわけではないということが徐々にわかってきました。というのは、病室に閉じ込められてからしばらくしたのちに気づいたのですが、入院開始以前の記憶がなくなっているのです。すべてが消え失せてしまったというわけではなく、自分自信の素性についてははっきりと覚えているのです。それを基として今まで生活を営んできた感覚だけはあるのですが、その詳細がさっぱりわからないという、なんとも不思議な感じです。ですが、ただ一つ、今に至るまでどうしても脳の外壁にこびりついて離れない記憶が残っているのです。それとて、脳内に申し訳程度に自分の寝床をこしらえてひっそりと居候しているような、そんな小さくて貧素な記憶にすぎないのですが─。
それは、私がこの病院を、患者としてではなく見舞いの客としてある女を訪れる記憶です。その女は第二病棟の最上階─八階に入院していました。一度だけでなく、何度も何度も訪ねていたことを憶えています。ですが、その記憶もそれまでで、その女が一体誰だったのか、彼女はどんな病気にかかっていたのかなどは全くわからずじまいです。言えることといえば、そうしてこの病院に足繁く通っていたが故に、三階が精神科であることを知っていた、ということくらいです。
入院開始直後は精神世界と物質世界への懸念ばかりに気をとられていましたが、記憶がないことに気がついてからというもの、それが精神科に連れてこられたことに最も関連のあることだと思うようになりました。事実、私が気づかぬうちに夢中遊行をとったなどということはそれ以降聞かされていません。
そうとはいえ、私の何らかの疾患に精神世界が現実に取って代わるということが全く無関係であるとも言い切れません。よって今は、精神科に入れられたという事実にただただ戦慄するばかりです。
ところで、私の病室にはしばしば見舞客が訪れるのですが、無論、私は彼らのことなぞ思い出すことができません。それでも彼らは必死に、かつ雛鳥でも扱うように私を介護し、記憶の回復を手伝うのでした。
最初にやってきたのは、多江という女性でした。私の入院生活が始まってから五日目のことでした。彼女は初めて私を訪れた時、俯き加減で病室に入ってきたかと思うと、そのまま寝台の横の丸椅子に腰掛け、何かを決心したかのように顔を上げて、そこで初めて私の顔を覗き込むようにして見たのです。
色白で細身で、全体的に貧素な出で立ちではあるものの、黒目は大きく、鼻筋もくっきりとしていて、目尻のホクロが印象的な美しい女性でした。そんな彼女の姿に見とれていると間もなく、彼女は口を細々と開き、ほとんどかすれたような声で、
「……信二郎さん……」
と、私の名前を小さく呼ぶのでした。
私の名前を知っている─。しかしこの人は一体誰であったか。
悲しそうな目でした。いえ、彼女の目から悲しみが窺えるわけではないのです。どちらかといえば、この私からにじみ出る悲しみを、その大きな黒い瞳に映し取って、吸収しようとするような、そんな視線のように感じました。私自身は、悲しい思いなど生憎持ち合わせていなかったのですが─。
そうして今にも崩れてしまいそうな、そんな弱々しい瞳は、私に対する明らかな哀れみの表情を作り出す一助となっている気さえしました。ただ、その眼差しの奥に、マッチの炎のような暖かさが、細々しくも灯っているのを、私は見逃しませんでした。
それは、私をよく見知っているが故に私を哀れむという、親密さを感じさせる暖かさです。
それほど彼女は自分にとって特別な存在なのか。また、彼女が私の悲しみを汲み取って哀れんだ上でさらに感じているのは同情か、はたまた罪の意識か。今は何もかもわかりません。
私の記憶はどこへ行ってしまったのでしょうか。私は記憶を喪失していると気づく前、一体何をしていたのでしょうか。後者の問題のみに関しては、わかる気がします。私は記憶を失くしてから、それが発覚するまでの時間の大半を、自分の過去の記憶への関心などおくびにも出さずに、何の危機感も持たぬ間抜けな人間として、再び精神の世界でのうのうとしていたのだと思います。
そうして、その表情のみで、しかも、こんなにも物憂げな表情で以って私に対する親密度を表現しうる彼女の思いとは裏腹に、何も思い出すことができないでいる自分が情けなく、また、もどかしくもありました。
記憶を喪失してしまった衝撃と、何より、心配そうに私を見つめる彼女のその表情の美しさに、私はただただ声を失って、狼狽するばかりであったのですが、ややあってようやく、
「……、あ、あの……」
と、弱々しい声が口の両端から漏れ出ました。そして、続いて記憶がない旨を伝えようとしたところで、
「私です……。多江です……」
と、なお一層の物憂さをその表情ににじませながら、彼女は私に、まるで腫れ物にでも触れるように語りかけるのでした。
「……記憶を、失くされたのですね……」
どうやら、私の記憶がないことについては既に知っているようでした。医師にでも聞いたのでしょうか。わかりません。ただ、この客観的な指摘によって私は自分の記憶が消え去ったということがまぎれもない事実であることを確認したのです。とにかく、私はそこでようやく、少しは冷静さを取り戻すことができたように思います。
「……、え、ええ。どうやらそうみたいで……」
「すぐに来られなくてすみません。私、どうしたらいいのかわからなくて」
彼女の言葉の意味を完全に汲み取ることはできませんでした。というよりは、そんな言葉の意味に気を配る余裕まではなかった、と言った方が適当かもしれません。
「あの……、多江さん……でしたか。多江さんは、僕の知り合いか何かで?」
「ええ、そう思ってくだされば結構です。私は記憶を失くされる前から信二郎さんのことをよく知る人間の一人です……」
明らかに何かを隠しているような様子の彼女でしたが、そう言うなりすくっと立ち上がって病室の出入り口の方へ向き直りました。私の、どこへ行くのかを尋ねるような表情を一瞥した彼女は、「また来ます」と言い残して、軽く一礼だけしてそそくさと帰って行ってしまいました。
彼女は何をしにやってきたのか。彼女と私の関係性はいかなるものだったのか。様々な謎を残しつつ突然立ち去ってしまったので、私はあっけにとられてしまいました。
するとしばらくして、隅田というよく肥えた中年の看護婦が食事を運んできたので、先ほど訪ねて来た女性の素性について何か知らないかと聞こうとしたところで、
「藤村さん、さっきの方、お知り合い?それとも奥様かしら?」
と、向こうも怪訝な顔つきでこちらに問いかけるので、看護婦にも一切を明かさぬままやって来たのだな、などと思いつつ、
「ええ、知り合い、みたいですね……」
と、なんとも他人事めいた妙な返事をしてしまったので、私は慌てて、適当にとり繕いつつ食事を運んできてくれたことへの礼を述べました。
あくる日、多江は本当に再び私の病室にやって来ました。しかし、その日の彼女は、前日に初めて見た時とは全くの別人であるかのように見えました。病室に入って来るなり私に見せた表情は笑顔でした。そこに憂いの色などありませんでした。
「信二郎さん、ご容態の方はいかがです?」
「あぁ、ええ……、僕は、体の方はなんとも……」
「良かった。今日は私、お見舞いのお花を持ってきたんです。プリザーブドフラワーってご存知?水分を抜いて加工してあって、とっても綺麗なのよ。こちらに飾っておいてもいいかしら?」
「あぁ、これは……、わざわざ、どうもすみません」
多江は淡いピンク色のカゴいっぱいに敷き詰められた花を寝台の横の棚の上に置いてから丸椅子に腰掛けました。入院患者とはいえ、精神を患ったものが入れられる病室ですので、そんなところに斯様な可愛らしい花が飾られていることが、なんとも場違いな気がして可笑しいと思いつつ、私は多江の顔をちらと覗いてみました。
今日の彼女は、昨日出会ったときのどこか神秘めいた美しさとはまた違う、どちらかといえば可愛らしいと形容したほうが正しいような表情をしていました。それは、柔らかく口元をわずかに緩めて微笑みながらも、それでいてどこか少女のような無邪気ささえ感じさせる表情です。その無邪気さ故に、この人は今日私を尋ねる前、他でもないこの私のことだけを考えながら、見舞いの品はどれが良いかなぞと苦心した挙句にこのような可憐な花籠を選んできたのだろう、そしてそれを選ぶときの彼女の表情もまた可愛らしい笑顔であったのだろう……云々と、あらぬ想像を一刹那のうちに膨らませていると、ふっと彼女と目が合ってしまったので私の耳がじんわりと熱くなってしまいました。
照れ臭さと、昨日とは別人のような彼女の可愛らしさへの戸惑いから、私はすっかり気不味さを感じてしまいました。そこですぐに目を逸らして今さっき多江が飾ったばかりの花に目を向けました。
「素敵な花でしょう。アイリスっていうんですのよ。いろんな種類があるんですけど、私はこれが一番好きなの」
アイリス─。金魚の尾鰭のようにヒラヒラとした花弁に、鮮やかな青紫色がかかっていて中心に向かって真っ白くなっていき、その隙間からは、黄色い蕊が顔を出していました。本当に可愛らしい花でした。
「はぁ、これはまた随分と洒落たお花を頂いて……。本当に素敵だ」
そういったところで、多江は突然、顔を手で覆いながらクスクスと静かに笑い出しました。私は最初、彼女が泣いているのかと思ったので一瞬慌てたものですから、ひどく拍子抜けさせられてしまいました。
「どうかされました?」
「フフフ……。いえ、しゃべり方から何まで、前までの信二郎さんとはまるで別人みたいで、可笑しくって」
私は以前の自分というものを知らないので、「ああ、そうですか」なぞと言いつつ愛想笑いするばかりなのでしたが、逆に多江のこの一言が、私の過去、ひいては私とこの女性の以前の関係性についての好奇心を駆り立てる引き金となりました。
「あの……ところで多江さん。昨日あなたは私とは知人だと仰ったんですが、どういった種類の知人だったのか、教えていただけますか。いえ、なにぶん、記憶の全部が全部吹っ飛んでしまってるものですから。その……、何か情報を頂けたら、少しは思い出すきっかけになるかと思いましてね」
愛想笑いの余韻をその表情に残したまま、私はさも呑気に聞く様を装いながら思い切って尋ねてみました。ここまで気を遣ってまでこのようなことを聞いたのは、昨日多江が自分のことを私の知人であると申告した時の物憂げな表情から、何やらこのような質問自体がある種の禁句めいた、忌々しい答えを導く恐ろしいものなのではないかと、大袈裟にも感じ取ったからでした。
すると案の定、さっきまで可憐な明かりを宿していた彼女の笑顔が、引き潮さながらにスゥッと消えて、湿った砂浜のような冷たくて悲しげな表情に変わったのです。
「……私のことは……、本当にただの知人だと思ってくださればいいです。別段血の繋がりなどがあるわけでもないですし。ですが、私は以前、信二郎さんにとても良くしていただいたものですから、何か恩返しがしたいだけなのです。ですからどうか、私の素性などお気になさらないで、ただ傍に置いてやってください……」
「はぁ、ですがそうは言われましても……」
「記憶を回復するための手助けは出来るだけさせていただくつもりです。怪しくて不可解な女とお思いになるかもしれませんけれど、そんなことなどどうでもよくなるほど、私は信二郎さんの中では小さくて果てしなく無意味に近い存在ですから……」
「私にはあなたのことをもっとよく知る義務があるのではないですか?だってそうでしょう。いくら記憶をなくした身とはいえ、何も知らぬあなたに助けて頂くことなど忍びありません。それに僕には、何だかあなたのことを、とてもあなたが言うようなちっぽけな存在とは思えない。むしろもっと大きい存在だったのではという気がしてならないんです。多江さん……、ひょっとしたら……」
私はそこでほんの一瞬、言葉に詰まってしまいました。次に言おうとしたことが、私が一番尋ねたかったこと、そしてまた、一番尋ねるべきではないことであったからです。それでも私は、勢いに任せ、思い切って言葉に舌を走らせるのでした。
「……ひょっとしたら……、僕等の間には……、何か特別な感情が─」
「私は……、私は本当に、信二郎さんにとっては小さな名前も知らない虫のような存在です。あなたの周囲をウロウロ飛び回っては片手で撥ね除けられるような存在……。フフ。もしかしたら、全部の記憶が戻られても、私のことだけは本当に思い出せないかもしれませんわ」
勇気を出して放った私の言葉は、こわばったわざとらしい笑いを含んだ多江の声によってあえなく遮られてしまいました。その笑いは自分自身を蔑む嘲笑でした。
すると突然、先程まで伏し目がちだった多江が、私の顔をその両目で掴みかかるように一心に捉えました。
「私のことを知ったら信二郎さんは不幸になられるかもしれません。ですから私のどうでも良いことにわざわざ気をもまれる必要など御座いません。昨日出会ったばかりの新しい私を、どうか認識してください……」
昨日出会ったばかりの新しい私を、どうか認識してください─。
その言葉の真意を汲み取ることはできませんでした。ただ、彼女の表情から窺える意志の強さと、頑なな態度に私はすっかり圧倒されてしまいました。そうしてただただ、黙ってため息まじりに何度も頷くばかりなのでした。
「また来ます」
昨日と同じ言葉を残して彼女は立ち去ってしまいました。私はそれ以上、彼女について尋ねるのは止そうと思いました。その時すでに私は、たった二日のうちに様々な表情を見せた多江の薄幸な美しさに、以前の私達の関係などどうでもよくなる程、魅了されてしまっていたのです。また来ます。そう呟いた時の彼女の声色は、私に甘い期待と焦ったさを持たせたまま、その日の良き安眠剤となりました。
次に彼女がやって来たのはそれから三日後のことです。それ以降も、詳細の知れぬ女性による奇妙な訪問が幾度か続きました。多江はその度に、まるで重篤患者を相手にするように丁寧に私を介抱するのでした。用を足しに立ち上がる時でさえ、その白くて細長い手が、私の体を非力に支えようとしました。私が悪いのは体の方ではなく、いわば心です。私が、「体は大丈夫ですから」などと遠慮すると彼女は、「いけません。しっかりお体の方も労ってあげないと、精神も安定しませんから」と言いつつ微笑むのでした。
自分の素性こそ明かさぬままですが、多江は以前の私については熱心に語って聞かせました。とはいえ、自分の素性ははっきりとしているので、彼女は私がどのような性格か、などといった内面的なことに焦点を当てながら話してくれました。
「信二郎さんはとても真面目な方でした。でした、なんて言うとおかしいかもしれませんね。本当にあなたは何事にも真剣過ぎるくらいに取り組む人なんですよ。もちろんお仕事の方も。部下の方からも上司の方からも信頼がお厚かったんですって」
「そうでしたか。なんだか安心しました。ことさら、だらしのない人間でもなさそうで……、アハハ」
私は食器事業に携わるある企業に勤めていました。ですが記憶をなくした今となっては、その企業の一社員という肩書きを首から吊り下げたまま、会社の場所はどこなのか、上司や部下は一体誰なのか、分からずに記憶のない真っ暗な脳の中をフラフラと彷徨う浮浪者と成り下がってしまっています。
しかしながら、そうして多江の口から情報を吸収するたび、自身の素性だけにはしっかりとした明かりを灯したまま、記憶が覆い隠された真っ暗闇を歩んでいた自分の足元に少しずつ光が射していくような気がしてくるのです。
未だ何の記憶も戻らぬままですが、もともとの記憶である「会社員としての自分」から、「上司、部下に慕われる真面目な社員」というところにまで情報を広げることができたのです。
記憶の回復はさておき、この自分自身に関する情報の拡大だけでも、私はずいぶん救われました。なぜなら、記憶をなくした方にはよくあることなのかもしれませんが、喪失以前の自分の素行が気になって気になって仕方がないのです。自分の身の上のことですから、よもや過去に大きな十字架でも背負っているのでは、などという不安が自ずと出てくるのです。
多江がひたむきに語った私の過去についての話は、十分信用に値するでしょう。そのような不安を解消し、私の中の暗い記憶中枢にわずかでも光を注いでくれた彼女はいわば私にとっての太陽のような存在でした。大袈裟なのかもしれませんけれど。
その光の心地良さに、私はつい自分から質問してみたくなりました。
「ところで、僕には兄弟姉妹などはいたんですか?」
手元にあるわずかな記憶は、本当に自分自身のみに関することなので、血の繋がり、家族のこともすっかり忘却の彼方なのでした。
「…………」
「多江さん?」
「……、兄弟……あ、ええ、いますよ。信二郎さんには信太郎さんというお兄様がいらっしゃいます。近くで会社勤めをしておられます。信太郎さんも信二郎さんに似て真面目な方なんですよ」
私には兄がいる………。記憶をなくした今となってはもはや血の繋がりにすら奇妙な新鮮味を覚えるものです。しかしそれよりも前に私は、そう答える多江の顔に一瞬だけ影が差したのを見逃しませんでした。ですが出会って以来、悲しみや憂いなどの否定的な感情で覆われた顔をする多江に不躾にもそれを問いただそうとするようなことは、なんとなくご法度のような気がしていました。今まで涙こそ一粒も見せてはいない彼女ですが、時折わっと泣き出すのではないかしらんと思うほど悲しい顔をする時があるのです。そんな彼女の曇天みたくどんよりとした顔に雨を降らせてはならぬと、そう常々思いつつ知らぬ顔をしては、またその謎めいた神秘的な美しさにますます虜になっていく私なのでした。
多江はしばらく私の兄、信太郎について淡々と語った後、いつものように「また来ます」と言って病室を出て行きました。
多江が去った後の病室は静寂そのものでした。四人一部屋のその病室には当初、私の他にもう一人だけ患者がいたのですが、私が来てすぐに特別室へ移ってしまったため、割合大きな病室に私だけが入院しているといった状態です。廊下で食事を運ぶ台車が床を滑る音、看護婦同士で何やら会話している声、それらがこの病室の静けさを一層増しているようにも思われました。
知らないままでもいい。このままずっとあのミステリアスな雰囲気に深く深く浸り続けていたい。静かになった病室で、私はそんなことを考えていました。いつか記憶が戻れば、私は彼女のあらゆることを思い出してしまうでしょうか。はたまた、彼女が言うように、彼女のことは本当に覚えていないままなのでしょうか。この記憶が戻るのならば、私が望むのは後者です。彼女は、多江の魅力は、むしろ多くを知らぬがこそ色濃くなるものなのです。それは蒼い炎のように、静かに冷たく燃えたぎる魅力です。
橙色の染み込んだ雲間から、開け放たれた病室の窓にほんのりとした温もりを運んだ風が一拭きしてカーテンをふわりと膨らませました。夕暮れ時に一人歩く多江を想像しながら、彼女のつやつやとした黒髪の香りが風と共に舞い込んでくるような気がして、窓から入り込んでくる空気を思わず胸いっぱいに吸い込みました。
それからしばらく、多江は病室に姿を現しませんでした。間が空いても三、四日に一度は必ず訪れていたのですが、最後にやってきてからすでに十日が経ちました。
多江が病室に来ない間にすることといえば、もっぱら精神の世界に自分を埋没させることでした。心の中で彼女と語り合い、心の中で彼女の美しさに触れ、その度に私の胸を打つ心臓の鼓動は、その世界全体をも揺るがすほどでした。
多江が来ない日数が増すにつれ、私が精神の世界に閉じこもる機会はますます増えていくばかりです。そこへ行けば彼女に会えるから。そこで彼女はいつでも待っていてくれるから。精神の世界では、いかなる物質的な距離も無いに等しいのです。なぜならそれは、私自身の心が自己中心的に創り出す世界であるからです。
こうして精神の世界に滞在する時間が長くなればなるほど、どちらが現実の世界かが曖昧となってくるのです。そうして、多江という人物はもともと、私の精神が作り出した人物なのではないか、多江と出会い、多江と語り、多江の美しさに惹かれていったのも、皆精神世界での物語なのではないか、そして多江は、本当は(物質世界に「現実」を置くとすれば)現実には存在しないのではないか、などと考えて慌てて物質世界に立ち返るのです。そうして物質世界で多江に関する記憶を手繰り寄せ、そこでの多江の存在を認めて安堵しては、彼女がなかなか病室に現れないことを嘆き再び精神への旅を始めるのです。その循環を、もういくら繰り返したことでしょうか。
それからさらに数日が経過したある時、病室に一つの足音がしました。寝台と寝台を仕切るカーテンの向こう側で、それはしっかりとした足取りで窓側にある私の寝台に近づいてきます。それは多江のものでもなく、看護婦の隅田のものでもありませんでした。
現れたのは紺のスーツを着た四十代くらいの男性でした。
「信二郎……」
その容姿と、私の名を呼んだことで、彼が誰なのか大方察しがつきました。
「信太郎さん……僕のお兄さんですよね!」
我ながら、身内としては奇妙な確認の仕方だと思いました。ただこの時の私にはこう尋ねるより他に方法などなかったのです。記憶がないままでは、私にとっては自分の前に現れる人全てが初めて会うも同然の感覚なのですから。
「おい……どうしたんだよ信二郎、お前おかしいぞ。正気に戻らないか」
明らかに多江の時とは反応がまるきり違いました。あまりにも余所余所しい態度の私に、彼は多江のように憐れむでもなく、嘆くでもなく、何か気味の悪いものでも見ているかのような表情を見せて私を一喝したのです。
「すみません、本当に何も思い出せないんです。私のお兄さんであるのは分かっているんですけど、記憶がないとなるとどうも初対面のような気がしてしまって。ちょっとおかしいとは思いますけど、しばらくこの調子で話させてください。この方が今の私にはしっくりくるというか……、ハハ、本当に変ですけど」
私の声が届いているのか届いていないのか、信太郎は顔を窓の外に向けて諦めに似たような表情を浮かべました。そうして一つ大きな溜息を吐いてうなだれるように丸椅子に腰掛けました。
「すまない、こんなに時間が空いてしまって。だけどすぐに顔を見せるのはどうかと思ったんだ。……本当にすまない」
最後の謝罪の言葉は、見舞うのが遅れたことではなく、何か別のことに対して向けられているような気がしましたが、その時の私はそれに別段大きな関心を向けることはありませんでした。
「いえ、とんでもない。ところで、多江さんの方からお兄さんのことは聞いてます」
「そんな呼び方止してくれ信二郎。いい加減異常者ごっこは終わりにしてお前とちゃんと話させてくれ。お前は本来こんなところにいるべきではないんだ、自分でも分かってるんだろ、ナァ」
兄は再び強い口調に戻りました。しかし私は彼の言っていることがさっぱりわかりませんでした。異常者ごっこをしているつもりなどありませんでしたし、彼と何を話さなければならないのかも皆目見当がつきません。なにぶん記憶がないものですから、手がかりのかけらすらも見出せないのです。それを知ってか知らずか、突然現れた兄に初めて自分の症状を非難されたような気がして、私は急に恐ろしくなってきました。
「いや……、その、僕はホントに……」
弁解しようとする意思もむなしく、私はすっかり言葉に詰まってしまいました。
精神科に入れられた者は、言わずもがな精神に異常をきたした者として扱いを受けます。目の前の正常者の冷ややかな眼差しに貫かれて、私にもその時になってようやく異常者としての自覚というものがふつふつと沸き起こってきたのです。そうして、そんな自覚を持つに至ったことに急激な劣等感を感じ始めました。
私は異常者……。
私はどうして記憶をなくしてしまったのでしょうか。どうしてこの精神科で生活しなければならなくなったのでしょうか。それは私が常々抱いていながらも、なぜか気づかぬふりをしていた最も重要な疑問でした。
「おい、信二郎!」
再び兄が大きな声を上げたところで、病室に看護婦の隅田がやってきました。
「あのぉ、すいませんね、他にも患者さんいらっしゃるもんで、もう少しお静かに、ネ」
至極にこやかに、それでいて煩わしさをにじませたような表情で彼女は言いました。
この隅田という看護婦もまた、朝になると体の調子を尋ねにやってきて、朝昼晩と毎日食事を運んでくるなかで、私のことをどこか不審げに、見下したような態度で接するのでした。表面上はいつもにこやかな初老の女ですが、私にはなぜだかわかるのです。何か不気味なものでも扱うような冷たさを彼女に感じずにはおれないのです。私はその度、たかが記憶を一時的に失くした者のことがそんなに珍しいか、そんなに気持ちが悪いか、と激昂したくなるような気持ちに駆られるのでした。
「ああ、これは……、どうもすみません」
兄が決まり悪そうにそう言うと、隅田は満足げに、一層その笑顔を引き立てて病室を出て行こうとしましたが、どこか思い切ったように兄の方に向き直って、
「あの、藤村さんのお兄さん、ちょっといいかしら」
と言いながら兄に廊下へ出るよう促したのです。
明らかに、私が拝聴すべきでないことを、二人は話しているようでした。いうまでもなく、しばらくして兄が戻ってくるまでの間に私の中に蓄積する不安とか恐怖というものは尋常ではありませんでした。
それにしてもなぜ隅田は、信太郎が私の兄であると一目で分かったのでしょうか。今の私には分からないことだらけです。
兄は戻ってくるなり「また来る」とだけ言ってそそくさと立ち去ってしまいました。立ち去り方に限っては多江が初めて来た時と同じなのだなと、そんな状況でも皮肉のこもった思いを巡らせているうちに、彼を引き止めるなり、別れの挨拶をするなりといった機会を逃してしまいました。
嵐のようにやって来て、嵐のように去っていった兄に取り残されたようにベッドの上で固まったその時の私は、雨風にうち吹かれて置き去りにされたボロボロのビニール傘のような虚しい気分になりながら、大きなため息を吐くばかりでした。
それからしばらくして、多江が久方ぶりに病室を訪れました。
しばらく顔を見せなかったことへの後ろめたさからか、あるいはそれに対して平生を装ってか、彼女は眉を歪めたまま薄幸に微笑む微妙な顔つきで現れて私に会釈してから無言で私の隣に座りました。
「多江さん……、随分とお久しぶりですね、ハハ」
「……、しばらくお伺いすることができなくてすみません……」
「いやいや、そんな……、謝らないでください。でもまた来ていただいて、嬉しい限りですよ」
気まずさから、自分の感情が見え隠れするような言葉を思わず口に出してしまったことに気づいて、自分で赤面している私でしたが、多江も今度ははっきりとそれとわかるような笑顔を見せたので、私もすっかり気を緩めてアハアハと照れたような笑いを漏らしました。
「あ、この間、僕のお兄さん、信太郎さんがお見舞いに来てくれました。ハハ……、なんだか弟の僕がこんな状態なのがひどくみっともないみたいで、だいぶきつく言われてしまいました」
「そうでしたか。でも、気をもまれることはないと思います。信太郎さんも、きっとお仕事でお疲れの上に心配事が重なってしまってそんな風なんだと思います」
多江の訪問の喜びもつかの間、私は兄から受けた言葉によって抱き始めた不安や新たなる疑問に再び心を囚われてしまっているようでした。
多江は開け放たれた窓に顔を向けて、控えめに塗った口紅に日光を反射させながら眩しそうに目を細めて外の景色を眺めていました。
そのわずかな笑みに、自分の全てを吸収してほしいような気持ちに、突然駆られたのです。
「多江さん、僕は、その……精神病者です。それで、急に疑問に思ったんです。とんでもなく根本的なものなんですけど、その、僕はどうしてここへ連れてこられたのか、記憶を失うに至った経緯は一体なんだったのか、そういった問いが最近頭の中でグルグルと駆け 巡っては不安にさせられてしまうんです。今まで疑問に思っていなかったことがおかしいんですけど、ここのところずっと気になってしまって……」
多江は目線こそ外に向けたままですが、私の話に一心に耳を傾けている様子でした。その表情が徐々に暗くなっていくのを確認しながらも、私はさらに続けました。
「最近はもっぱら、精神科に入れられている自分が情けないような、自分で自分が惨めでならないような、そんな気持ちにばかりなってしまっていて……。ようやく自分が置かれている状況を客観的に捉えられるようになってきたんです。精神病者としての僕を……」
多江はようやく視線を窓から逸らして、今度は伏し目になりました。私の話に相槌を打つことも、頷くこともしません。それは私の訴えを頭の中で必死に咀嚼しながら、一生懸命に聞き入っていたからだと思います。
「一度そう思ってしまうと、今度は周りからの目線が急に恐ろしく感じられてくるんです。精神病者として見られていると気がついてからというもの、もう怖くて、怖くて……」
その時の私は、他人から異常者として見られていることよりも、寧ろそうなってしまった原因がわからないということに恐怖していました。だからこそ、目の前にいる多江に、全てを問いただしてみたくなったのです。彼女になら、何を聞いても、どんな弱音を吐いても、受け入れてくれると信じたからでした。
「……。多江さん、教えていただけませんか。僕が精神科に入れられた訳を、僕が記憶をなくした訳を」
その時の多江の表情には明らかな躊躇いが感じられました。口を開き、何かを言いかけたところで再び口をつぐんでしまいました。
「どうしても、言えないことなのですか?」
「…………」
二人を徐々に包んでいく静寂の靄のようなものに、私の言葉の力さえ薄れていくように感じた時、多江の非力な声がそれをわずかにも晴らしました。
「……今は……、知らぬままでいた方がよろしいかと思います」
「どうしてです。僕はそんな根本的なことすら教えてもらえないのですか」
「知らない方が幸福なこともあるのです。いずれ信二郎さん自身で、記憶を取り戻される時が来ると思います。その方がずっと幸せだわ。少なくとも私は」
その一瞬の間で私はすでに心得ていました。多江はその弱々しい雰囲気の中にも、どこか頑なな部分を持ち合わせているということを。そして私は自分の愚かしさを実感するのです。こんな状況でさえ、彼女の魅力を再発見してしまうのですから。
私はそれ以上、彼女に問いただすことを止しました。こうして一人の病人は、彼女の強い意志によって、またもその心に謎を置き去りにしたまま、その女の待つ楽園へ裸足のまま駆け出していくのでした。
愚かであることは分かっていました。ですが、今は自然の成り行きに任せて記憶が戻ってくるのを待つより他はないようです。数分前まで抱いていた疑問や恐怖といったものに対して、私の心を盲目にさせてしまうほど、多江の中に確固とした強い意志があるのです。だからと言って、誰か他の人にその恐怖を打ち明けたり、疑問を投げかけたりしようとは思いませんでした。それは、記憶を失くしてしまった自分にとっては、多江のみが唯一、自らの胸の内を打ち明けることのできる人物であると信じていたからでした。
とはいえ、多江が帰っていった後も、私は自分が置かれている状況について考えずにはいられないのでした。そうして考えを巡らせているうちに、おかしな点が次々と思い浮かぶのです。自分のことだけを記憶しているという奇妙な記憶喪失、私の疾患について、誰一人、医師でさえも何も明かさないこと、そしてそれらへの言及を、多江がなにより拒んでいること、昔、この病棟の八階に入院するある女を足繁く訪れていたという不確かな記憶、等々……。
人間にとって、一番の恐怖とは知るべきことを知らないことであるように思います。心の虚無感は、物理的感覚にも鮮明さを欠かせます。自分の足がまるで綿ぼこりのように感じられて、至極不安定な、それが自分のものでないような気になってくるのです。
自分は自分でなく、かといって他の何物でもない。そんな除外された感じが心臓をぎゅっとつかんで、何やらこの独りきりの病室が、この世に現れた異空間みたく感じられるのです。
それほど、私の無知は厄介なものでした。私は一体何者なのだろう。この疑問による苦しみが、徐々に私を苛むようになっていきました。
数日後、兄、信太郎による二度目の訪問がありました。
「前回看護婦から聞いた。これからはお前の症状を考えてお前を見舞う。でもこれだけは言っておくぞ、信二郎。現実から目を背けることだけはやめてくれよ。来るべき時が来たらちゃんと話し合おう」
看護婦から聞いた、というのは、前回隅田と廊下で話した時のことでしょう。
現実から目を背けることだけはやめてくれ。この言葉は私に、自らの精神世界への、あの旅のことを思い出させるのでした。(無論、私自身はこれを、現実から目を背けた結果の行為だとは思っていないのですが)
この営みのことを、兄は知る由もないのですから、結局私はその言葉の意味が分からず仕舞いなのでした。
そして、その次の日にまた多江がやってきた時、彼女はとてもにこやかな表情をしていました。後手に何かを隠し持っているような様子でした。
「信二郎さん、今日は私、お土産を持ってきたんですよ。はい、これ」
そう言って彼女が差し出したのは縦長の厚紙のようなものでした。それには、四葉のクローバーと白詰草の花が一つずつ貼られているようでした。
「白詰草の押し花です。この間外を歩いてる時に偶然見つけたんです。ほら、四葉のクローバーを見つけると幸運が訪れるって言うでしょう。私、普段はそんなの絶対に信じないんですけど、たまたま見つけてつい嬉しくなってしまって。すぐに押し花にして入院中の信二郎さんに差し上げようって思ったのよ」
「ああ、そうでしたか。ハハハ、これは嬉しいな。おかげですぐに退院できるかもしれませんね、アハハ」
クローバーを見つけた時の彼女の少女のように明るい表情や、私を想ってそれを摘み取る時の幼気な様子が容易に想像できて、私はこの女性をますます愛おしく思いました。
そうして、その次は信太郎、またその次は多江、と、不定期ではあるもののその二人による見舞いが交互に続けられました。不思議なことに、二人が同時に訪れることは決してないのです。まるで二人が、あえてそれを避けているかのようでした。
多江は、記憶のない私を気遣いながら丁寧に私に接するのでしたが、兄の信太郎はそんなことに構うことなく私がすっかり全てを記憶しているかのように私に語りかけるのでした。ですが、そういう時に、私は一々記憶がないので分からないなどとは言いませんでした。また冷ややかな目をされても困るので、その度に微妙な反応をするしかありませんでした。私は記憶をなくす前も、こんなに気を使う人間だったのでしょうか、わかりません。
精神科の患者は、基本的には閉鎖された空間で静かに入院生活を送ることになるのですが、自由な時間も与えられないわけではないのです。
私はその日、少しのお金と自由な時間を与えられたので、特に用はなかったのですが、病棟の一階にある売店へ赴きました。
こぢんまりとした店、そしてその前には休憩用の椅子とテーブルがあります。私は店内で、興味のない書物や食べ物を眺めて回ったのですが、これといって目ぼしいものはなかったので、何も買わずに店を出ようとしました。
その時、ある品に、なぜか視線を奪われたのです。
それは便箋でした。
普通の便箋であれば気にもとめなかったのでしょう。その便箋には、花の模様が印刷されていたのです。ヒラヒラとした花びらを持つ、青紫色の花でした。
それはいつか見舞いに来た多江が持ってきたあのアイリスの花にそっくりだったのです。私はその瞬間、心臓の律動がその速さを急激に増していくのを感じました。今では病室に飾ってあるそれにすっかり見慣れてしまっていたのですが、こうして違う場所で偶然にその花(本当にアイリスかどうかはわかりません)を見かけたことに、何か運命的なものを感じたのです。
私は、たかが便箋一つに、いつまでも目を奪われていました。他の患者や見舞客が、私の背後を迷惑そうに通っていきます。
どれくらいの間眺めていたでしょうか、私は結局、それを買う特別な理由も見当たらず、そのまま店を出ました。
三階の精神病棟に戻る前、私は店の横にあった長椅子で休憩していこうと思いました。座りかけたところで、壁にある病院案内に目がいきました。
「3F─精神科」
全部で八階ある第二病棟の案内図に平然と書かれた精神科の三文字に、一種のおどろおどろしい感じさえ覚えました。
そして最上階の八階─。
そこには「血液内科」とありました。私が自分のこと以外で、唯一、確かな実感を持って記憶していること。記憶を失くす前、ある女を見舞いに何度もこの八階を訪れていた記憶が再び脳裏に映し出されました。顔も思い出せないその女は、血液の病気を患っていたのでしょうか。自然と多江の顔が頭に浮かんできます。
そんなことに思いを廻らせつつ長椅子に腰を下ろして、しばらく虚空を見つめていました。
「あ痛たたたた」
不意に横から、枯れ葉がコンクリートの地面を滑っていくような、しゃがれた声が聞こえてきました。
その方を見遣ると、人二人分程の間隔を空けて、少し肥えた老年の女性が腰掛けていました。私の視線に気づいたようで、「こんだけ痛いとやっとれんわァ」と、半分は見ず知らずの私に向けられているであろう大きな独り言を漏らしました。
腰も曲がり、こぢんまりとしたその老婆の体は、さながら浜辺に打ち上げられ、乾燥して縮こまった海藻のようでした。そしてその顔もまた、浜辺に打ち上げられた流木のような、皺の深く刻まれた浅黒い顔でした。
痛々しい表情で自分の足元をさする彼女の様子を、私は憐れみつつ盗み見ていたのですが、それは所詮他人事に過ぎません。
やがて、老婆が鉛のように重そうな腰をゆっくりと上げました。そのときもやはり、「あ痛たたたた」と顔を歪めていました。別段興味がないのは言うまでもないのですが、私はそれを、まだ煮えぬ鍋でも見つめるように意味もなく眺めていました。
そうして、私の前を通り過ぎて行く時、彼女はポケットの中からあるものを取り出しました。それは潰れかけた煙草の箱とライターでした。それを握りしめて、老婆は病院の出入り口の方へ向かってく様子でした。
言わずもがな、病院内はおろか、敷地内での喫煙は禁じられています。彼女はわざわざ敷地外へ出て吸うつもりなのか、あるいはどこかで隠れて吸うつもりなのか。どちらにせよ、あれだけ露骨に痛がって見せるほどの症状で喫煙など大丈夫なのか、そしてあの煙草はどこで手に入れたのか、などと心配になってしまいました。
と、そこまで考えたところで、今の自分の状況には何らの関係もない一老婆のことでいらぬ思いを巡らせていた自分が何となく可笑しくて、私はつい微笑してしまいました。
病室に戻ってから、私はずっとアイリスの花を眺めていました。 同時に、あの時この花を持ってきた多江の笑顔が頭に浮かんできます。私は改めて、多江が私のためだけを思ってこれを選んできてくれたという、その事実をかみしめました。暗闇の中で綱渡りをしているような、そんなとてつもなく不安定な今の私にとって、その事実は心に多大な安息を与えてくれるものでした。
こうしているうちに、先程下の売店で発見したあの便箋を、すぐにでも手に入れたいと思うようになってきたのです。もちろん、今便箋など必要はないので、あっても仕方がないのですが、多江を連想させるものであれば、何となくそばに置いておきたいのです。そうすることで多江と私に何かが起こりうることなど微塵も期待はしていませんが、一度それに特別な何かを感じ取ってしまうと、心は最早それに囚われてばかりなのです。それは、宗教を信仰しない人々が、それでもお守りや御籤を通して心の平安を得ようとする習慣に似ているのかもしれません。
私はあの便箋のことを考えながら、なぜあの時に買っておかなかったのかと、その時の自分の頭をひっ叩いてやりたくなる程後悔しました。
便箋が誰かの手によって持ち去られていく様子が自然と頭に思い浮かんで、その焦燥感から、気づけば私は人差し指の爪で親指のささくれを、血が出るほど引っ掻いていました。
次の日、私は無理を承知で、看護婦の隅田にもう一度売店へ行かせてくれと頼み込みました。隅田は一度怪訝な顔つきを見せましたが、渋々ながらに承諾してくれました。付き添いは必要かと彼女が尋ねたので、私は大丈夫だと断って再び売店へ赴きました。
便箋はまだ残っていました。考えてみれば病院内で便箋を求める人々などごく稀にしかいないのでしょう。それでも私は胸をなでおろさずにはいられませんでした。
棚から便箋を抜き取り、会計を済ませた私は、昨日と同じ長椅子に座って、今買ったばかりのその便箋をじっと眺めていました。
その時、右側から昨日の老婆が腰を曲げて歩いてくるのが見えました。その手には、昨日と同じ煙草の箱とライターが握られていたので、また一服してきたのだなと思っていると、また私の二つ隣へ腰を下ろしたのです。果たして彼女は、「あ痛たたたた」と、辛そうにしていました。
私と一瞬だけ目が合った彼女は、足を痛そうにさすりながらも「こんにちは」と笑顔で挨拶をしてきました。私も同じ挨拶を返すと、
「こうやって座って休憩せんと足が痛くってね」
などと他人である私に対してとりとめのない一言を添えるのでした。
私はその時、便箋を手に入れたという高揚感から、すっかり上機嫌になってしまって、ついその老婆にどうでも良いことをなぜか尋ねてみたくなるのでした。
「お婆さん、足が悪いんですか?」
「そうそう、もうずっと痛くてねぇ。嫌になるわ。寝る時も痛いもんだから全然眠れんの。痛み止めの薬も飲んどるけど、あんま効かんでよォ」
「それは、何かの病気の症状で?」
「そうなの。あたしはずっとリウマチに罹っとるんだわ」
「そうですか、でも、煙草なんか吸って大丈夫なんですか?」
「ああ、これか、エッヘッヘ」
老婆は少し決まりが悪そうな、おどけた笑顔を見せながら、一度ポケットにしまった煙草を取り出してみせました。
「大丈夫、ちゃんと敷地の外まで行って吸っとるもんで」
「でも、ご病気が悪化したりするでしょう」
「まぁでもね、あたしゃこれ無しでは生きとれんのだわ、カッカッカ。それになァ、あたしももう長くないらしいの。ただのリウマチやったらまだええんだけど、あたしの場合は悪いやつらしいわ。そのせいで内臓がやられとるんだと。だからもう開き直って、こうやってこっそり煙草吸いに出かけとるわ、カッカッカ。しっかし、昔からようこの病院には世話になっとるわなァ、うん。若いときにもここに入院しとったんだよ、あたし。そん時からずっと薬もいろいろ飲み続けとるけどなァ。まさかまたここで暮らすことになるたァ思わなんだ。そんで死に場所も多分ここだわな、カッカッカ。でもね、お前ぁさん、これだけは言っとくよ、今のうちからちゃんとした生活送っとかなかん。そうでないとあたしみたくなるもんでね、エッヘッヘ」
「はぁ、そうですか」
「あとね、やっぱり趣味なんかは大事らしいわな。あたしのこと良くしてくれるお医者さんも言っとったわ。なんか打ち込めるもんがあるといいですからって。それにあたしくらいの歳になってくると、だんだんボケてくるもんでよォ、ボケ防止にもなるげなわな。だからあんたも今から趣味とか色々やってかなかんよ。あたしなんかは煙草ばっか吸っとってこのざまだからね。まぁあたしの友達なんかもみんなボケて施設入ったり病気で死んだりしとるわァ。だで若いのが羨ましいとも思うけど、まぁあたしもいつ死んでも構わんわ。ボケて周りに迷惑かけるよりはもうここでさっさと死んじまった方がみっともなくもないしええわ、カッカッカ」
私はこの老婆に話しかけたことを、少し後悔していました。どうやら話好きの老人のようでした。話しかけたのは自分なのですが、彼女の話の途中から、早く話し終わらぬものかと考えていました。そうして、老婆の長話とその乾いた笑い声にすっかり飽き飽きしてしまい、半ば上の空で彼女に相槌だけを打ちながら、頭の中では少しの気晴らしにと、病室に飾ってあるアイリスの花や多江の顔などを思い浮かべていました。しかしその時、なぜか私の無意識が、老婆の言葉をすくい上げたのでした。
「あたしはこれでも、少し前まで生け花の先生やっとってな。家でもよく花なんか育てとって、それが趣味だ趣味だなんて言っとったけどな。生け花と言えばね、お前ぁさんはよく知らんと思うけど、ただ花飾るだけやないんだよ。よく花生けた後にはそれで詩なんか詠みよったなァ。そのために花言葉とかもよう勉強しよったわ。だからね、あたし花にはちょっと詳しいんだよ。まぁ花を生けとったのはもう昔の話だけどな。今じゃぁ手元が狂いよって生け花なんかようやらん。今やったら死に花だわ死に花、カッカッカ」
私は老婆の方へ身を乗り出して思わず尋ねてみました。
「お婆さん、花には詳しいと仰いましたけど、アイリス、という花の花言葉なんか、ご存知じゃないですかね」
「なんだいお前ぁさん、聞いとらんと思っとったら案外聞いとったんだね、エッヘッヘ。アイリスかァ、まぁアイリス言うてもアヤメとかの総称だでな、一概にこれ一個が花言葉だ、とは言えんけどなァ……」
「僕の病室に、ある女性がお見舞いに花籠を持ってきてくれたんです。その花がアイリスでして」
「ほぉん、随分と見舞いに持参するには珍しい花を選んだもんだねェ。その女の人が持ってきたっちゅうのはどんなだった?」
「青紫色の、ヒラヒラした花びらで、真ん中にある蕊が黄色で」
「ああ、それならジャーマンアイリスで間違い無いわ。ドイツアヤメとも言うわな。生け花にもよう使われるやつで、和室の床の間とかによう生けて飾ってあるわな。その花言葉で代表的なのと言ったらズバリ情熱的な想い、だわな。惚れとる相手に贈るにゃ最適の花だわ。その女の人、あんたによっぽどお熱くなっとるっちゅうことやな、カッカッカ」
情熱的な想い─。
老婆からその言葉を聞いた瞬間、私は恍惚の境地に達したような気分になりました。
多江は、私が彼女に対して抱いていたものと同じ種類の情熱を、私に対しても持っていたに違いありません。そして、あのアイリスの花籠は、彼女から私への、メッセージであったのです。
私はどこか上の空で、
「お婆さん、ありがとう」
と言いました。
「あ、おばあちゃん!またそんなとこにいる」
前方の少し離れたところで、中学生くらいの少女がこちらへ向かって叫びました。
「あぁ、イカンイカン。あれ、うちの孫。勝手にうろついとるとああやって叱られるでな。あたしゃそろそろ行くわ。お前ぁさんもお大事にしやーよ。じゃあまた」
老婆はまた例によって「あ痛たたたた」と言いながら立ち上がって、孫娘の方へ去っていくのでしたが、私はまだうっとりとした気持ちの余韻から、軽く会釈をすることしかできませんでした。
老婆と少女の背中が廊下の隅へ消えてゆくのを見届けた私は、立ち上がって再び売店へ戻りました。そこで、安いペンを一本購入し、一目散に店を出て自分の病室へ急ぎました。第二病棟へ続く廊下を小走りで駆け抜け、エレベータのボタンを押しました。待つ時間すらもどかしく、階段で上がろうとも考えましたが、生憎三階の踊り場から精神科へは、患者の徘徊を防ぐために鉄格子で仕切られていて入れなくなっているのを思い出しました。
エレベータが私を上へ運んでいく時も、頭に浮かぶのは多江のことばかりでした。やはり、私がかつてこの病棟の八階で見舞った女というのは、多江に違いないのです。多江の想いを知った今、私は確信せずにはいられません。多江と私とは、夫婦の関係、或いはそうでなくとも、特別な愛情で結びついた男女であることは、もはや疑い無き事実であると言っても過言ではないでしょう。多江はきっと、花言葉に自らのメッセージを委託して、己の愛を私に伝えようとしていたのです。
病室に戻った私は、便箋を袋から取り出し、寝台に備え付けられた机の上にそれを広げました。その後購入したペンを片手に、私は考えるのです。多江が見舞いにアイリスという可愛らしい花を持ってきたということ、その花言葉が、「情熱的な想い」であったこと、そして、それと同じ花が印刷された便箋を発見したこと。これらすべての事実の結びつきは、単なる偶然ではなく、何か超自然的な力で引き合わされた運命なのです。
私は背後に、愛の女神が優しく自分を見守っているように感じました。そうして今にも、多江の燃え盛らんばかりの熱い気持ちに応えてやりなさいと語りかけてくるようです。
私は目の前にある便箋が、私のためだけに存在する幻であるような錯覚にさえ陥っていました。そう幻想するのも、自分ながら最もなことだと思うのです。それほど、その便箋に、愛の使命たるものを感じたのでした。
私は、応えなければなりません。愛の女神が思し召す通りに、同じ量の愛で以って応えなければなりません。しかしそれは、運命が導く使命でありながら、同時に私自身の強い意志の表れでもあるのです。
私は目を閉じて、ふうっと息を吐き出しました。そうして、出会ってから多江に抱き続けてきた想いを、その便箋にそっと綴り始めました─。
多江さん
突然斯様なお手紙をお渡ししては変に思われるかもしれません。その無礼をどうかお赦しください。
ですが、僕はこれを書かずには居れないのです。愛という名の使命に突き動かされるままに、最早僕のこの右手が僕の意思そのものであるかのように感じられるほど、あなたへの想いをほとばしらせつつこのお手紙を書いている次第です。
記憶を失くし、過去には寄る辺のない不安定な僕なのでしたが、多江さんの度重なる訪問により、僕は心の平安を保ち続けられているように思います。あの日、あなたがアイリスの花籠を持って僕の病室を訪れた日、僕は、あなたがあんなにも可憐な表情をするものとは思ってもいませんでした。その前日に初めてお会いした時のどこか物憂げな様子は、僕に、神秘的で美しい印象を与えていたのですが、花を持ってきた時のあなたは、それこそ蕾が開花する時のような可愛らしい笑顔を僕に見せてくれたのです。そんなあなたの、女神のように冷静な美しさと、天使のような愛らしさは、どちらも、精神科に入れられて訳も分からず不安で、雪原の真ん中で佇むかのごとくブルブルと戦慄く僕の心を優しく溶かしていったのでした。それはまるで、深い森の奥の蒼く冷たい湖が、やがて清らかな川のせせらぎとなって大地に沁み込み、潤していくような心地でした。湖のような神秘的な表情、そして、せせらぎのような優しい表情。そんな二つの印象をどちらとも持ち合わせたあなたに、僕はいつしか、魅了されてしまったのです。
僕はあなたに、恋をしています─。
嗚呼、この胸の高鳴りを、あなたにどう表したら良いでしょう。このやり場のない情熱を、こうして手紙にしか書きおこすことのできぬもどかしさを、あなたにどう分かってもらうことができましょう。
この病室で、僕は無を経験したのです。時には真っ白に、そして時には、真っ暗に、その無は僕を果てしなく包み込んで、やがて僕自身を無そのものとしてしまっていたのでした。そんな時、多江さん、あなたが僕の救世主となってくれました。何も存在しなかった僕の世界で、あなたは道となり、花となり、木となり、海となり、そうして僕の周りに輝かしい世界を創造するに至ったのです。
いえ、自分の周りに世界が出来上がったというより、むしろ僕はあなたが創り出した世界に新しい自分が産み落とされたような、そんな気分です。
僕を僕として、生かしてくれたのは多江さん、あなたに他なりません。僕のような頼りのない、宇宙の塵のような存在にとって、あなたはひとつの銀河です。あなたがいて初めて、僕に意味が与えられるのです。あなたなしでは、ただのゴミ屑と言っても相違ないのですから。
もうお分りでしょう、僕はあなたなしでは生きる意味を失ってしまうのです。これからの僕には、あなたが必要不可欠なのです。
多江さん、あなたがくれたあのアイリスの花、その花言葉をご存知ですね。それは情熱的な想い─。そう、それは、あなたから僕への、メッセージだったのではないですか。僕たちはやはり、何か特別な感情で結びついた関係であったのではないですか。
そうです。きっとそうです。僕は確信しています。僕たちは以前、夫婦、あるいは恋人同士であったのでしょう。その当時の気持ちを、あなたは未だに、持ち続けてくれているのでしょう。
僕にはただ一つ、自分のこと以外で記憶していることがあるのです。それは、かつて、この病棟の八階に入院していたある女性を何度も見舞った記憶です。その女性が誰であったのか、それは悲しいかな覚えていないのですが、それはやはり、多江さん、あなただったに違いありません。僕は、特別な愛で結びついた女性のことを、すなわちあなたのことを、心のどこかで記憶していたのです。
ただ、そういったところで、あなたは何も答えてはくれないのでしょうね。あなたは今まで頑なに、自身に関わることをひた隠しにしています。僕たちがどういった関係であったのかさえ。
ですから結局のところ、本当のことは分からずじまいです。あなたがそうである以上、僕が記憶を取り戻さない限りは、この確信も、風のひと吹きで崩れ去る砂の牙城のように脆いものに過ぎません。
でも僕は、それで良いと思っています。あなたのおかげで、僕は新たに生まれることができたのです。いっそ過去の記憶などかなぐり捨てて、新しい自分として生きてゆこうと思うのです。
新しい僕は、この病室で、初めてあなたと出会い、恋に落ちました。こうしてあなたとのみずみずしい恋愛ができるのなら、僕はもう、記憶がこのまま戻らなくても構いません。いやむしろ、記憶が戻らなければ良いと願ってすらいるのです。その方が、あなたの謎めいたどこかミステリアスな雰囲気がより引き立つのではないですか。それに、過去のことは知らずとも、僕たちはもう十分に、親密な関係を築くことができる、そういった状況にあるではないですか。
僕の過去も、あなたの過去も、もうどうだって構わない。新しいあなたを、認識したいのです。
多くを知らぬがこそ、美しいと思えるもの。奇っ怪な生物が蠢く深い海の底も、高台から眺めれば一つの藍色の宝石なのです。多江さん、僕は、広大な宇宙の最果てに何があるのか知らないように、あなたのことも、よくは知らない。だからこそ、あなたを愛おしいと思うようになりました。これからは少しずつでも、あなたという名の宇宙を解き明かしていきたいと思うのです。
どうか、この僕の気持ちを分かって頂きたい。あなたへのこみ上げる愛を伝えたく、このお手紙を書きました。ここまで読んでいただいて有難う御座いました。
○月×日
藤村 信二郎
手紙を書き終えた私は、同じくアイリスの花が印刷された白地の封筒の表に「多江さんへ」と書き添え、それを三つ折りにして入れました。思えば、彼女の苗字さえ、知らぬままでした。
書き終えた安心感から、私はそのまま横になって目を閉じました。その時でした。なにやら自分の意識が、突然がくりと落下するような感覚に見舞われたのです。それはまるで、夢から突然目を覚ましたかのようでした。しかし、夢を見るにはあまりにも刹那の出来事でした。
私はすぐに目を開けました。ただ、別段そのことに対して驚くことはなかったのです。なぜならそれは、私が今まで散々経験してきたものであったからです。
それはまさしく、私が例によって精神世界に入り浸るあの悪習から、突然ふと物質世界に立ち返る、その瞬間の感覚であったのです。つまり私は、その意識が落下するような感覚によって、今まさに精神世界での旅を終えて戻って来たところだったということです。それは、つい先刻まで私が気づかぬうちに精神世界の方に意識が飛んでいたということを意味します。
手紙─。
私はハッと気がついて、すぐに机の上に目を向けました。
果たしてそこには、手紙はおろか、それを書いていたペンすら、転がっていなかったのです。
今しがた、多江への想いを綴り、封筒に入れたばかりの手紙が、忽然と姿を消していたのです。私は気が狂ったように、他の場所を探し始めました。机の下、掛け布団の下、果ては寝台の下まで、必死に見回したのですが、手紙はとうとう見つかりませんでした。
私はそこで文字どおり、頭を抱えてしまいました。そして私はすっかりうなだれて、
「そうか、そういうことか……」
と独りごちました。
そうです、私が情熱に任せ、多江へ宛てて手紙を書いていたのは、精神世界での出来事だったのです。こうして物質世界に立ち返った今、手紙がそこにないのは至極当然のことです。今頃、私が想いを書き連ねたあのアイリスの便箋は、新月のようにその輪郭もはっきりせぬまま、我が心という名の夜空に人知れず浮遊しているのでしょう。すなわち、アイリスの便箋など、ここには最初から存在しておらず、それは私の精神が見せた一つの幻にすぎなかったのです。
なんと愚かな幻想でしょう。精神世界の私は売店であの便箋を見つけた時の喜びを、まるで本物の感覚であるが如く錯覚して味わっていたのでした。
私は自分が情けないのか、その幻想自体に腹が立ったのか、兎に角自分の手を強く握って寝台に思い切りぶつけました。マットに拳が吸収され、鈍く頼りない音がしました。
その時に、私はふと疑問に思ったのです。一体私はいつから、精神世界にいたのであろう、と。いつも精神の世界からこうして物質世界に戻ってくる時はさして気にも留めなかった疑問に、なぜこの時に限ってぶち当たったかといえば、それは多江の存在が気になったからでした。
よもや私は、長い長い精神世界の旅を続けていて、多江という存在でさえ、その世界が創り出した虚像なのではないか、などと思ってしまったのです。もしそうであれば、それはただの妄想と言っていいほど愚の骨頂ではありませんか。多江という女性など、初めから存在しない……そんな可能性を考えると、私は急に恐ろしくなってきました。
そうして私は突然ハッとなって、横にある台に目を向けました。
─そこに、アイリスの花籠はありませんでした。
私は驚愕と絶望感から、すぐにそこから目をそらすことができませんでした。
毎日多江のことを想いながら眺めていたはずのそれが消えている。そのことは私に、それを持ってきた多江の存在も初めからなかったのだという事実を突きつけるのでした。
私は寝台から立ち上がり、恐る恐るもう一度アイリスがあったはずの台の上を見ました。
そこで私は、寝台からは見えなかった位置に、あるものを発見したのです。
それは白詰草の押し花でした。ある時多江が嬉しそうに私にくれたその押し花だけは、しっかりとそこにあったのです。私はそこで少しだけ安堵することができました。
しかし、これで私はいよいよ分からなくなってきたのです。なぜアイリスの花籠はなくなっていて、白詰草の押し花だけが残っているのでしょうか。多江がアイリスを持ってきたのは精神世界での出来事であり、白詰草の押し花を持ってきたのは物質世界での出来事であったという可能性もあります。私はこの説を強く肯定したいと思いました。なぜなら、その考えは少なくとも多江の存在を裏付けることになるからです。
ただ、もし多江が物質世界には存在せず、この押し花も私自身が無意識下に作った、単なる夢中遊行によるものだったとしたら─。私はそう考えれば考えるほど、益々負の思考が連鎖する螺旋階段を、暗闇に向かって下っていくような感覚に襲われていきました。
「分からない、訳が分からない……」
気付けば、私は額にじっとりと汗をかいていました。汗の滴がこめかみを伝い、顎の先から床にポトリと落ちました。
私は寝台に倒れ込むようにして再び横になりました。外はすっかり日が落ちて、夕明りと夜の闇が空でせめぎ合っていました。
私は、このままずっと、精神と物質の世界を彷徨い続けなければならないのでしょうか。これではまるで、実験台のマウスが狭い箱に入れられて、これから自分に何が起こるのかも分からずにその中を狂ったように走り回るような、そんな気分だ。病室の天井と、蛍光灯の人工的な明かりを眺めながら、私はそんなことを考えていました。
外の夕闇も、蛍光灯の明かりも、どこかから聞こえる音も、自分の手の感覚も、今この目で見ている世界も何もかも、すべてが偽りのものであったら─。私はそう考えると恐ろしくなって、いっそ全ての感覚を絶ってしまいたいとすら思いました。
多江に手紙を必死になって書いていた私は、精神世界の中でも自分の精神世界への懸念を抱いていた、という可能性は最早否定できないのかもしれません。それはつまり、精神世界の自分の中に再び精神世界があり、その中の自分にもまた精神世界があり……といった具合に、いくつもの精神世界が重なり合って層を成している、ということになり得ます。そうして、精神世界にいる私は、皮肉にも今自分がいる場所が物質世界であると信じて疑わないのです。
精神世界から目覚めると再びそこは精神世界、そしてそこから目覚めると、今度もまた精神世界、そしてまた……。
嗚呼、そう考えているここもまた、精神世界なのか。本物の自分は一体どこにいるのか─。
「怖い……」
私は自分の呼吸が次第に荒くなっていくのを感じました。
怖い、怖い、怖い、怖い、怖い─。
私は本当に気が狂いそうになってきました。やがていくつもの精神世界の層を彷徨い歩く私の体が、足元から崩れ去っていくような幻夢さえ見るようになったのです。
自分が自分でなくなってしまう、自分の居場所さえかりそめで、曖昧模糊としている、自らを含め何もかもが偽りと化す─。そんな恐怖は、何物にも代えがたく、私を苦しめました。
「ああぁ……」
荒い呼吸は、徐々に畏怖の念を伴って、私の声帯を震わせるのでした。
「……誰か……、助けてくれ……」
そんな時に思い浮かぶのはやはり多江の姿でした。しかしその姿も、我が精神という幻魔境の世界においては一個の泥人形に過ぎません。やがてそれもドロドロと溶け崩れてなくなっていってしまうようでした。
「ああぁ……、多江さん……、行かないでくれ……」
そうして多江の泥人形が完全にただの泥の塊と成り果ててしまったのを見たとき、私の中で、私を繋ぎ止めていた糸のような何かがプツリと切れて、そうしてそのまま谷底の真っ暗闇へと真っ逆さまに落下していくような気分になったのです。
僕は誰なのだ。
多江とは誰だったのだ。
そしてこの世界は、一体─。
「ああああああああああああああああ!」
私の叫びは、蛍光灯のガラスを割らんばかりに、辺り一帯に響き渡りました。
それを偶然近くで聞きつけた若い看護婦が一人、何事かといった表情で病室を覗きに来ました。寝台から立ち上がった私と目があって、その狂気の顔に一瞬戦慄した様子でしたが、すぐにどこかへ駆けて行きました。誰かを呼びに行ったようです。
私は病室の窓を開け放ちました。冷んやりとした外気を身に纏いながら、窓の桟に手をかけました。
このまま、この異常な精神状態で生きていくのはもう耐えられない─。
私は死にたくなったわけではないのです。私はただ、自分の心を
殺してやりたかったのです。この病室から飛び降りて、精神世界に終焉をもたらすのだと、そう思いました。
ここから飛び降りてやる。そう思いつつ私は真下を見やりました。
「…………!」
その時私が真下で見たもの、それは紛れもなく多江の姿でした。夕闇の中、一階の明かりに顔をわずかに照らされて、彼女はじっと私のことを見上げていたのです。
「多江……さん?」
しかし私はそこで、明らかにいつもの多江とは違う様子を目の当たりにしました。
彼女の目は、まるで蟲の死骸でも見つめているかのような、冷酷な目そのものでした。そこに人間の心など微塵も宿していないような、冷たく虚ろなその視線が、私の両眼をまっすぐに貫いていました。
彼女の頬は幾分か痩せこけてしまったように思われ、着ている服も、いつもより見すぼらしい感じがします。そしてなにより私の目を引いたのは、彼女の左目の周りを覆う、青紫色の大きなあざでした。
その姿はまるで亡霊のようでした。彼女に何があったのでしょう。左目のそのあざは、誰かに殴られてできたように見受けられました。一体、誰が─。
「……、ああ……ああぁ……!」
その時私は、自分の右手が何やらじんわりと熱くなっていく感覚とともに、脳髄の奥の奥から、頭蓋骨までもが焼き尽くされてしまうような白々しく眩い閃光を感じたのです。それはさながら、宇宙誕生時の大爆発を彷彿とさせる衝撃でした。或いはこの瞬間、本当に私の中で一つの宇宙が生まれたのかもしれません。
「……そうか……、思い出した……!」
そうです。私は思い出したのです。多江の顔のそのあざを見た時、それが私の過去を映し出すように、瞬間的に記憶の全てが私の頭に蘇ってきたのです。
その時の衝撃的な出来事は、私をほとんど卒倒させるほどでした。本当に失明してしまったのではと思うくらいに、私の眼の前は真っ暗になってしまいました。そうして、暗黒の夜空に映し出される星座のように、過去の記憶が次々と眼前に現れ出てくるのでした。
彼女がいつ、どこで顔にあざを負ったのか、それだけは未だに分かりません。なので、なぜ私がそのあざをきっかけに記憶を取り戻したのかは謎のままです。ともかく、私は全てを思い出したのです。あの、地獄のような忌々しい記憶さえも─。
やはり私と多江は、夫婦の関係にあったのでした。
しかし私はあの時、見てしまったのです。真っ暗な部屋の中の、あの悪夢のような光景を!
私の記憶は、その瞬間から一度途切れて、それからはこの病室で過ごした記憶へと切り替わっています。つまりは、あの時のショックが、私を精神病者たらしめたということになるのでしょう。
あの瞬間の出来事を思い出したことによって、この病室で体験した数々の疑問が解決したような気がしました。多江が余所余所しい態度をとっていたことも、彼女が自分のことを頑なに語りたがらなかったことも、多江と兄、信太郎が交互に私を見舞ったことも─。
こんなことなら、思い出さなければよかった─。
過去に起こった事実を突きつけられた、その絶望感は徐々に涙へと変わり、私はそのまま、声をあげて泣きました。窓の外を、涙の雫が落ちていくその先に、多江の姿はもう、ありませんでした。
「あれも僕の精神が見せた幻影だったか……」
記憶を失くす前までは、精神世界と物質世界を行き来するようなことは全くありませんでした。やはりこれは、あの忌々しい出来事によって私の中に作られた症状だったのでしょう。
「多江……、兄さん……、どうして……」
或いは私は、初めから分かっていたのかもしれません。記憶を失くしたのではなく、記憶を失くしたふりをしていたのかもしれません。
全てはあの悪夢を忘れるための、現実から逃亡するための、異常者ごっこだったのでしょうか。私自身でもよくは分かりませんが、そう考えるとあらゆることに納得せざるをえなくなってくるのです。
記憶を失くし、過去の苦しみを忘れ、そうして精神世界に逃げ込む。それを私は無意識のうちに実行していたのです。その無意識による力があまりに強かったために、私は私自身を欺くという結果を招いたのでした。
記憶を失くしたという錯覚をさせたのも、精神世界を創らせたのも、全てはあの、衝撃的な出来事でした。それから逃げ出すために、そして全てをやり直すために、精神世界の私は多江と二度目の恋愛をしようと試みたのでしょうか。
この病室で体験した出来事のうち、一体どれが本当のものでどれが精神世界の幻だったのか、もはや私自身にも見当がつきません。ただ、これだけは言えるのです。私は苦しみから遠ざかろうとして、精神という都合の良い世界に自分の居場所を無意識的に見出していたのだ、と。
精神世界と物質世界。一見並行して見える二つの世界ですが、それらが作り出す層は針のようなものでひとつきすることで一つに交わることができるのでしょう。その針のようなものは何か。それは勇気でしょう。肉体が感得するあらゆる事象を現実として受け入れる勇気。或いは、それは勇気と呼ぶには大袈裟過ぎる程、当たり前の存在なのかもしれません。言わばそれは、針のように刺さるものではなく、また針のように柔なものではなく、一本の柱のように初めから二つの世界を強固に貫いているものなのでしょう。精神世界と物質世界を融合して、一つの現実を構築する上での大黒柱であるその勇気を、あろうことか私が自分自身で引っこ抜いてしまっていたのです。こんなグラグラとした不安定な欠陥住宅には誰も住まいませんし、寄り付くはずもありません。現実逃避。現実から逃れ、新たな現実を創り出して都合の良い隠れ場所に潜んでいただけだったのです。私は、常人が持ち合わせるべき勇気を持たぬ臆病者であったのです。
私は記憶喪失なんかではなく、苦しみからの逃避のため現実にはないものを見たり聞いたり口にしたりする、その精神の異常から、この病室に連れてこられたのでした。
自分はやはり、異常者だったのだ─。
こうしている今も、私は精神の世界に閉じ込められているのかもしれないのです。もはや自分でも制御することができなくなって、このままいくつもの精神世界を彷徨っていかなければならないのかもしれません。
「藤村さん、何をしているの!」
隅田の声でした。後ろには他の看護婦たちもいます。後から駆け付けた医師も何人かいるようでした。
「来るな!僕はもうここから飛び降りてやるんだ」
そう言って私は窓の桟に片足をかけました。看護婦たちはあっけにとられて、言葉も出ないような様子でした。
私がもう片方の足をかけた時、ようやく隅田が我に返ったようでした。
「藤村さん落ち着いて、ネ。早まった真似はよして、何があったのか話してちょうだい」
「ハハハ、大丈夫。僕は死んだりなんかしませんよ」
それを聞いた彼女は益々訳が分からないといった表情をしていました。
そうです。きっと私は、ここから飛び降りたとて死ぬことはないのです。ここも所詮、精神世界の中なのです。それは全てが幻の世界。私の死もまた幻となって、代わりにまた夢から覚めたように精神世界から立ち返るのです。
私がここから飛び降りて、その体が地面に打ち付けられる瞬間に目を覚ましたその先もまた精神の世界に違いないのです。その時の私は探そうとするでしょう。飛び降りてできたはずの体の傷を、痛みを、そして周りの血だまりを。しかしそんなものはあるはずがありません。なぜなら飛び降りたのは別の精神世界での出来事であったからです。それでも私は必死になって自身の体を弄るのです、信じられないといったような顔をしながら。そう、それは先刻手紙がないことに気がついて血眼になってそれを探し回っていた時の私と同じように。
そんな自分の姿を想像して、私はだんだんと可笑しくなってきました。
「アハ……アハハ、アッハッハ」
突然に笑い出した私に、看護婦たちは唖然としている様子でした。
それでも私は、間抜けな自分をまるで他人事のように思い浮かべて益々、こみ上げてくる笑いに耐えられなくなるのでした。
「アハハハハハハ」
一体私の精神世界はいくつあるのでしょうか。もはやたった一つの物質世界に立ち返ることなど、砂漠の中からある特定の砂つぶを見つけ出すようなものなのかもしれません。それほど私の精神世界は無数に層を成しているのです。
物質世界にいる私は今頃何をしているのでしょうか。その間抜けな顔を想像して私はさらに笑い出しました。
笑い過ぎて体のバランスを崩したために、私はほとんど上半身を窓の外に投げ出してしまったのですが、反射的に両手で窓枠をつかんで姿勢を正しました。それを見て、一同がアッと声をあげました。私はその様子さえもなんだか滑稽に見えて、可笑しくて可笑しくてたまらないのでした。
「藤村さん……」
隅田がほとんど掠れたような声で私の名を呼び、一歩前へ出てきました。
「アハハハハ、君も笑いたまえ。僕は気が狂っているぞ!ハハハハハ」
隅田を始め、私を見つめる者は皆、奇怪でおぞましい魑魅魍魎でも発見したかのような表情でただただ立ちすくんでいるばかりです。
「アハ……アハハ、ハァ、オカシイ……アハハハハハハハハハハハ」
そうして私はそのうち、自分が何が可笑しくて笑っているのか、すっかり忘れてしまいました─。
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