フェンリルさんちの末っ子は人間でした

空色蜻蛉

真白山脈のフェンリル一家

01 人間辞めました

 蒼天をつらぬく白銀の峰には、神が棲んでいる。

 慈悲深いが恐ろしい、獣の姿をした神が。


 俺たちの世界では、神は人の姿を模さない。

 神とは何か。

 浅学の俺には到底、そんな難問について解説できないが、唄うことならできる。子供の頃に母に聞いた唄を。


 "神の吐息は空を晴らし、神の足跡は地を潤す"


 土地に恵みをもたらすのが、神獣という存在だ。


「……ずいぶん遠くに来ちまったな」


 俺は吹雪の中を立ち往生していた。

 目を凝らしても白い雪の向こうは見通せず、積雪に足は埋もれている。

 いったいどうしてこんなことになってしまったのか。



 俺は戦場で「赤眼の飢狼」と恐れられていた。珍しい赤い瞳と黒髪だけが由来じゃない。血に飢えた狼のように剣を振り回す姿が、戦場に立つ悪鬼のように敵には見えたらしい。

 勝利に貢献した実績から、自国民には救国の英雄と祭り上げられた。

 調子に乗ってトントン拍子に出世した俺だが、栄光は長く続かなかった。

 平和になった国には戦士は不要。


 戦後、沢山の人を殺した殺人犯として、俺は処刑されそうになったのだ。


 国の重鎮も民衆もあっさり手のひらを返した

 パレードに投げられる祝福の花は、一転、罪人に投げる憎悪の石に変わる。

 あまりの激変にただただ唖然とする他ない。

 俺は、殺される前に知人の手引きでこっそり国を脱出した。

 けれど実際のところ行くあてが無かった。

 他の国、例えば敵国へ行って自国に復讐するという道はあった。自慢じゃないけど、俺はそこそこ有名だったから、王や貴族に自分のところに来て剣を振るって欲しいと何度も誘いを受けていた。

 だが他国でまた同じ目にあわないという保証はない。

 そもそも戦って戦って、それで何になるというのだろう……。



「疲れたな……雪の中で眠れば、俺も真っ白に還れるんだろうか」


 血に濡れた人生を雪で浄化したいと思った。

 始まりはただ、幼馴染みの少女を守りたいという純粋な気持ちだったように思う。大切な誰かを守りたい一心で、まだ幼かった俺は剣を取った。

 だがその結果はどうだ。幼馴染みの少女は別の男に嫁いだ。彼女は他の沢山の人々と同様に、手のひらを返したのだ。

 残ったのは罪に汚れ、真っ赤な血に染まった手だけ。


 身体にまとわりつく雪片は、最初は冷たく凍えるようだったが、今は心地よい布団のように感じた。


「温かいや……」


 実際は凍傷で感覚がにぶくなっているだけだと、理性は言っている。だが俺は無視して雪を抱きしめた。

 眠気にさからわずに目を閉じようとする。


「……人間……」


 その時、くぐもった声が聞こえた。

 雪嵐の中で、こちらを見下ろす巨大な影がある。


 それは雪よりも眩しい白銀の毛皮を持った、美しい獣だった。

 滑らかな毛並みに覆われた四肢、一対のとがった三角の耳が生えた頭部。長いふさふさの尻尾。知性と勇猛を同居させたアイスブルーの瞳が、俺を見下ろしている。

 他のものが雪にかすむ中、獣の輪郭だけは鮮やかで、そこだけ浮き上がって光っているようだった。

 それだけで普通の獣ではないと俺は直感する。


「まさか、フェンリルか……?」


 伝説の神獣の登場に、俺は驚愕する。

 ここに住んでいるという噂は聞いていたが、実際に目にするのは初めてだった。


「人間よ、何ゆえ我が聖域を血で汚すのです……?」

「そうか。俺は血なまぐさいよな、やっぱり。すまない、別の場所で死ぬことにするよ」


 聖域に立ち入ったことを素直に詫び、俺は引き返そうとした。

 必死に眠気を振り払い、動かない身体を動かそうとする。

 どこにも行き場のない自分に絶望しながら。

 しかしフェンリルは雪の上を、すいと歩いて俺に近寄ってくる。


「器は血と腐臭に汚れているが、魂は氷のように澄みきっている。悲しみと孤独……まるで夜空に浮かぶ月のよう」

「何を言ってるんだ?」

「人間よ、行くあてが無いなら、ここで死になさい。そして、その魂を私に差し出すのです。悪いようにしません」


 フェンリルの申し出の意味はよく分からない。

 だが「ここで死ね」というのは願ったり叶ったりだ。

 動かずにぼんやりとする俺を、フェンリルは覗きこんだ。


「受諾したとみなします」

「……」


 フェンリルがパカッと大きな口を開ける。

 鋭い牙がずらりと並んでいた。

 ちょっと待て。

 近い。口が近すぎるぞ。

 俺は遅すぎる疑問を抱いたが、逃げる気力もない。


 そうして俺はフェンリルに喰われた。


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