最終話
丸一日寝ていたという総真の経過は良好で、次の日には退院することができた。両親に付き添われて自宅へと戻った総真は、二日ぶりの我が家に懐かしさを覚える。
午前中でまだ日も高く、妹たちはまだ学校からは帰ってこない。
総真と両親は居間のテーブルに向かい合ったままで、その間には沈黙が下りたままだ。三人の前に置かれた湯呑に誰も口をつけることはない。
誰が口火を切るか、タイミングを計りかねていたが、とうとう父が口を開く。
「お前の父親は」
言葉を選んでいるのか、父の話す速度は常よりゆっくりだ。先日総真にみせた二つの猪口を机上に差し出す。
「喧嘩の仲裁しようとして刺されたらしい。これを受け取りに行った帰りのことだと。なのに、現場のどこを探しても見つからなかった」
そんな謂れのあるものだったのか。彼が一緒に「持っていった」のだろうが、総真に託す理由とは何なのだろうか。 「それ、もらったんだ。父さんに渡してくれって」
「誰から?」
不審げな父と母に、どう説明したものか迷う。総真の体験をどこまで信じてもらえるのか。
しばし逡巡し、結局洗いざらい話すことにした。両親が信じてくれるか否かは、もはや二人に任せるしかない。総真は順を追って話す。
「それで、いざ帰るってなった時にその人から包みを渡されて」
二人は一切口を挟むことなく総真の話に耳を傾けている。ただ、次第に動揺していくのが目に見えて分かる。
「母さんに謝っておいてほしいって言ってた。大事な時に死んで悪かったって」
その言葉で両親はかの人物が誰であるか確信に至ったらしい。瞠目し、やがて目を伏せる。母は悲鳴を押し殺すように口元を抑えている。父はその背を労わるように撫でる。
「そう、あの人が自分で持ってたのね。見つからなかったのも当然ね」
母はそれを言うのが精いっぱいのようで、堪えきれなくなった嗚咽を唇から零す。
「この猪口はな、一真がお前が二十歳になったら一緒に酒を飲むために、手に入れたものだ」
「俺と、酒を?」
「そうだ。俺もあいつから写真で見せてもらっただけで、実物を見たことはなかったが」
そんな想いのこめられたものだったなんて、彼は総真にそんな素振りなど一切見せなかった。
「何も言わなかったんだ。自分が何者かも、その盃がどんな意味を持つのかも何も」
結局、総真は彼のことを何も知らないままだった。何を思っていたのかすら、悟らせてはくれなかったのだ。
「あいつもたいがいへそ曲がりだったから、今さら、と思ったのかもしれない」
そう言いながら、父は卓上に一枚の写真を差し出した。今よりも若い両親ともう一人の人物が笑顔で写っている。そのもう一人の姿は先日見た彼に酷似していた。
おそらく高校生くらいだろう彼の顔は自分のそれに瓜二つに見えた。一緒にいた時は気づかなかったが、こんなところに共通点があったのか。
「何か思ったよりそっくりだったんだな」
総真はぽつりと言葉を漏らす。湯呑に写りこんだ自分の顔に写真の彼の姿が重なる。
「幼かったお前が年々一真に似てくるにつれて、成長を嬉しく思う反面、その姿を見たかっただろう一真を思うと、何度も遣りきれない気持ちになった」
昔を思い出してか、ここではないどこか遠くに想いを馳せる父に、総真は慎重に口を開く。
「親友、だったんだろ?」
恐る恐る問う総真に対し父は小さくうなずく。
「それに瑞帆もな。小さなころからの幼馴染で、よく三人で遊んでいた」
父はそのまま続ける。
「一真は両親を早くに亡くして祖父母の家で暮らしてた。おじいさんと折り合いが悪かったらしくて、そのせいか学生時代は大分荒れてた。よく悪さをしては俺と瑞帆でとっ捕まえて説教してたな」
初めて知らされることばかりだ。朗らかな印象だった彼と真逆な事実に総真は驚く。
「いつからか瑞帆と一真が付き合い始めた後も、二人とは変わらず親しくしていた。やがて二人は結婚し、瑞帆が妊娠した。一真の喜びようは大変なものだったよ。この猪口の写真を見せてくれたのもその時だった」
父の昔を懐かしむ柔らかい笑みから一変して辛そうに歪んだ後、再度口を開く。
「そして、ある日その猪口を受け取りに行くといって、……帰ってこなかった」
父は沈痛な表情を浮かべ、喪失の痛みをやり過ごそうとしている。
「お前はまだ瑞帆の腹の中にいた。幸いにして母子ともに健康に生まれたが、当時、瑞帆の親には頼れない状況だった」
幾分か落ち着いた母が父の後を引き継ぐ。
「あなたのおばあちゃんはずっと体調が思わしくなくて、だから、おじいちゃんにこれ以上負担はかけられなくて」
確かに、母方の祖母は総真が生まれる前から長く患っていたと聞く。乳飲み子の世話までは手が回らないはずだった。そんな中で突然夫を奪われた母の心境はいかばかりだろう。
「誰にも頼れなくて途方に暮れていたとき、手を差し伸べてくれたのがこの人だった」
母は隣を振り向く。
「あの時の私にとって大切だったのは、あなたが不自由なく暮らせることだった。それは私一人の力では不可能だったけど、この人とならあなたを幸せにしてあげられると思ったの」
「生まれて間もないお前の顔を見たとき、決めたんだ。瑞帆を幸せにすること、父親になること、あいつができなくなったことを俺がしようと」
そうして父は母を支え、その結果二人が寄り添い生きることになったのは自然なことだ。これに関しては総真が口を出すべきことではない。
すべての経緯を聞き終えて、総真は知らぬ間に強張っていた肩の力を抜いて息を吐く。
長い告解を聴きながら、だから、自分は何も知らなかったのかと納得できた。物心がつくずっと前に始まり終わっていたのだ。
両親は真実を隠さずに自分たちの心の内を晒してくれた。
今度は自分が応える番だ。握ったこぶしに力を籠め、言うと決めていた言葉を口にする。こんな不満を言うべきか迷ったが、彼と勇気を奮って言う。誰かが背中を押してくれた気がした。
「俺、できればあんな不意打ちじゃなくて、父さんと母さんから教えてほしかったとは思ってるけど」
こんな言いざまは二人の苦悩を強めるだけかもしれない。しかし、今言うべきことだと、思った。
「父さんと血の繋がりがなかったことは、もうそんなにショックじゃないんだ。大事なことはもっと別にあるって分かったから」
嘘偽りのない愛情。彼が示してくれた両親の想いを知っているから、総真はもう血の繋がりを絶望しない。
「誰が本当の父親だとかじゃないんだ。俺には父親が一人増えたってだけで」
本舘総真には父親が二人いる。遠回りをしたが、これが総真のたどり着いた結論だ。
「本当のことを教えてくれて、ありがとう」
これが今の総真の本心だった。全部を伝えきれた達成感が体を巡る。
「お前にはいつか真実を伝えなければと、ずっと思っていた。でもお前がどう受け止めるかを考えると、先延ばしにしてしまった」
「そのせいで、あなたが傷つくことになって。本当にごめんなさい」
両親の謝罪を望んでいたわけではない総真は慌てたが、それを受け入れることが、皆が新しい一歩を踏み出すために必要なことなのだと気づいた。
「言いたいことも全部言えたしモヤモヤが晴れてすっきりした」
吹っ切れた総真の物言いに両親も同意するようにうなずく。誰ともなく笑い合って、やっと出口の見えない迷路から抜け出せたように思う。
あと少しで妹たちも帰ってくる。いつものように家族そろって食卓を囲んで、テレビの内容にあれやこれやと語り合ったり、そんな当たり前のことをしよう。
ようやく総真は失われた日常をこの手に取り戻したのだ。
数日後、総真は家族たちと生みの父である一真の墓の前に来ていた。
まだ小学生である妹たちに関してはさすがに事実を知らせるには早すぎる、と両親と総真の意見は一致した。妹たちは単純に知り合いの墓参りに来たと思っている。
若干古びた様子の墓石は苔むすことはなく、想像よりも綺麗だった。後聞いたところによると、父と母は二人で時々来て掃除をしていたらしい。
墓前に花を供え、線香を手向けて手を合わせる。
無事に帰れたこと、両親ときちんと話し合えたことへの感謝、長い間知らずにいたことへの謝罪と両方をこめた。
ふいにそんな堅苦しく考えなくてもいいのに、と苦笑する声が聞こえた、気がする。
かすかな風に紛れて、総真にだけそっとささやくその声は、今は遠くにいるもう一人の父によく似ていた。
end.
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