第二章 紅い瞳に唇寄せて

第五話 平助、メイドと遭遇する

 朝が来て、鳥が鳴く。カーテン越しの朝日を受けて、僕は薄い布団から身を起こした。


「もしかして、昨日のことは全て夢とか」

 子どもじみた、僅かな期待を胸に秘め。恐る恐る、古臭い日めくりカレンダーに目をやる。しかしカレンダーは。やっぱり今日を示していた。


「ですよね」

 僕はうなだれた。やっぱり昨日の出来事は夢じゃなかった。当たり前なのは事実だけども、叶うなら夢であって欲しかった。


「うう、寒い寒い」

 ならばもう仕方ない。僕は現実を見ることにした。今日はきちんと服を着ていた。本当に良かった。万一、二日連続で朝イチ全裸だったら。多分僕は、首を吊っていた。


 急ぎ足でトイレとシャワーを済ませると、再び最低限の食事を作る。

「いただきます」

「ごちそうさま」

 母も誰もいないのに、どうしても抜けない習慣。呆れるけど、仕方がない。

 僕は、通学カバンの整理に取り掛かった。なるべく荷物は減らしたいのだけど。

 お、今日は体育がある。助かった。少しだけ、普通にしていられそうだ。


 とにかく昨日は大変だった。ならば、今日は反動がくるはずだ。さらば厄日。こんにちは、ラッキーデー。今日こそ、平穏な一日を……。


「お嬢様!  せめてお車に!  ここから学校は遠いのですよ!」

「いくらかがりの言葉でも、それはできません。ここはお屋敷ではないし、行先も普通の学校です。歩いて参ります」


 ……送れなさそうな予感がした。口論は右側の窓から聞こえる。アパート内ではなく、隣の一軒家のものだった。結構ハッキリとしていた。

 おまけに、片方は聞き覚えのある声だった。塀越しにも関わらず、よく通る声。これではアパートの住人が、いつかは怒鳴り込むだろう。


 僕は少しだけ考えた。結局困るのは、一番近い部屋に住む僕である。

「聞き覚えはあるけど、まさかなあ」

 僕は急ぎ足で学生服に着替えると、駆け足で隣の住宅へと向かい。そして三分で後悔した。


「なんで本当に本人なんですかね」

「昨日、手続きを済ませたもので。この度越して参りました、佐久場と申します。よろしくお願いします」

 隣家の玄関先。うなだれる僕。昨日と同じ制服におさげを添えて、「隣人」としての挨拶をする佐久場さん。えーと、この場合どうすればいいの? 笑えばいいの? でも事は進まないよね?


「隣のアパートの松本です。よろしくお願いします」

 進まないではどうしようもない。隣人としての礼を返し、僕は声を潜めて聞いた。


「と、ところで誰かと口ケンカしてたようですけど。一体なにが……って、うわあああぁ!?」

 佐久場さんと、彼女が立つ玄関。その僅かな隙間をぬって飛んで来た手裏剣が、僕の足元に刺さる! なんたる腕前! いや、ちょっと待って。なぜ手裏剣? 慌てて飛び退きつつ、疑問が頭をよぎっていく。


「これは威嚇です。即刻お嬢様から離れて下さい」

 答えは、佐久場さんの奥から響く声にあった。鈍感な僕でも分かる、殺気ムンムンの濁ったオーラ。佐久場さんがそっと体をどけて、僕にも見えるようにしてくれて。


 そこにはロングスカートを翻すメイドがいた、黒を基調とした服に、白のエプロン。背は高い。髪にはヘッドドレス。ただし、その手には手裏剣。ミスマッチだ。メイドに、手裏剣? 忍者? アイエエエ?


「かがり! お客様になにをするのです!」

「お嬢様に近付き、あわよくば口説こうとする不逞の輩。仮に天が許そうとも、このかがりが許しませぬ。否、即刻殺します。お嬢様はかがりが守ります。トイレの中であろうが、風呂場であろうが。火の中であろうが、草の中であろうが。仮にお嬢様のスカートの中であっても。必ずお守りいたします」


 ヤバいよこれ。従者の愛で僕が死ぬ。これ僕殺されるよ。ていうかこの後死ぬよ。

 ああ、せめて母さんにもう少し優しくしておけばよかった。さよなら母さん。最後はケンカ別れだったけど、愛してるよ……。


 目をつぶって脳内に遺書を残し、恐る恐る目を開ける。だが、僕は生きていた。むしろ僕をほっぽらかして、主人とメイドが口論していた。

 あ、僕。まだツイてるっぽい。よし。佐久場さんには悪いけど、今の内に帰ってしまおう。ごめんなさい。



「ま、そんな話が朝イチであったんですよ雅紀さん」

 そんな散々な朝のできごとを、僕は愚痴を混ぜながらボヤく。だが雅紀の反応は。予想通りに「おこ」で。


「やっぱり昨日何かあっただろ、お前。いや。それ以前の問題だ。佐久場さんが隣の家とか羨ましいぞ。ハゲちまえ」

 軽くヘッドロックさせられ、少しバタつく。だけど、後ろからそれを止めようとする女性の声。

「マサキはまず落ち着け。後、ハゲろとかそういう事言わない」

 そうだ。雅紀と合流するのはいつもの話だけど、今日はもう一人いるんだった。


 黒のボブカット。

 メイクをしていないように見えるのに、輝く肌。

 大きな瞳に、ピンクの唇。

 雅紀と同程度の身長は、女性にしては高い方で。

 スレンダーな体つき。

 そして誰にでも優しい性格。ああ、今でもこの人は変わっていない。

 栄村由美さかえむらゆみ。中学からの友人で、かつて好きだった人。今は悔しいけど、雅紀の彼女だ。確か去年の年末。クリスマスの後から付き合い始めたはずだ。


「なんだよー。コイツの隣に、容姿バツグンの転校生だぜ? そりゃ羨ましいですよ」

「私がいるのに。なに言ってるの、よっ!」

「いだっ! そ、それはやめてくれ、って言っただろ? 平助、止めてくれ!」


 諌められてもなお減らず口を叩く雅紀の腕に、見事なアームロックがかかった。栄村さんは、優しい性格に似合わず武道一家の出身である。必要と判断すれば、実力行使もためらわない。今回の場合は、彼氏による自分への否定行為が理由である。


「気にはしてないけどさ。さっきの言葉を謝罪してくれると、嬉しいな。その方が、僕も止めやすいし」

 なので、僕も少しだけ栄村さんの肩を持つ。僕のために怒ってくれたんだ。ちょっと意地悪、してもいいよね。


「あああああ! 分かった! 俺が悪かった! 平助、ごめん! 許して下さい! 腕が、腕が折れる!」

 それでもめげずに懇願する雅紀。イケメンが台無しになる、すごい顔だ。流石にこれ以上は、マズい気がする。


「栄村さん。そろそろ解放してあげて」

「いいの? まあ、本人が言うならそうするけど」

 僕がとりなしに入ると、栄村さんはあっさり雅紀への技を解いた。雅紀は腕を押さえ、涙目になっている。関節技って、怖い。


 そして、栄村さんの矛先はこちらに向いた。身体を翻して僕の方を向き、笑みさえ浮かべて問いかけて来る。

「で、平助はどうするの? いや、こっちの方がいいわね。どうしたいの?」

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