第135話 あちら側へ飛ぶための想像力

昨日、会社の健康診断に行ってきた。どうもこの健康診断というのが億劫で、2週間くらい前からカレンダーを見ては、「もうい~くつ、寝~ると、健康診断~、ヘイヘイ♪」と一人で歌っては、なんとかこの面倒な気持ちを紛らわせようとしては失敗していた。なんかの数値が基準値より上回っていたら面倒くさいからとちょっとは節制しようと思いつつも、特に何をするでもなく普段通りで昨日を迎えた。


診断のそれぞれの項目である、「体重測定」とか「採血」とか、それ自体には時間はかからなかったが、その間に、そこそこ待ち時間があった。何にもすることがないので、ぼーっと周囲の人を眺めていると、ちょっと妙な思いが湧いてきた。


というのも、診断のために、みなそれ用の診断衣に着替えているのだが、これを着ていると、見事にその人の個性というものが無くなるのである。みんな同じように見える。男も女も老いも若きも。普通の服を着ていれば、カッコいい、可愛い人も、診断衣を着ればあら不思議、そのウツクシサがいっぺんに消えて、誰しもが、ただ診断を受けに来た人という具合になり、さらには人というよりも、単なる検査対象のように見えてくる。


同じように診断を受けに来たわたしからでさえ、彼らのことが、そう見えるということは、診断をする側の医療従事者は、ましてそうなんじゃないかなと思う。診断を受けに来た人を、人間ではなく、検査対象として見る。こちら側は人間、あちら側はただの検査対象。


この、「こちら」と「あちら」という立場の違いは、乗り越えるのがかなり難しいものなのではないだろうか。医者と患者、教師と生徒、親と子ども、為政者と一般市民、男と女などなど。「相手の立場に立って物事を見ましょう」とはよく言われることだが、これは気楽に言われるほど簡単なことではないような気がする。医者が患者の立場に立つ……こんなこと本当に可能なのだろうか。医者というのは、治療行為を施す側で、患者というのは、治療行為を受ける側である。施す側が受ける側の立場に立つというのはどういうことか。


「こちら」と「あちら」の境を越えて、こちら側からあちら側に行くためには、巨大な飛躍が必要なのではなかろうか。そうして、この「こちら」と「あちら」は、実はそこかしこに存在するのではないか。「しょせん人と人は分かり合えないんだ……」というのはよく慨嘆されることだけれど、実はそれが本来であって、仮に分かり合うことがあれば、その方が稀な事態なのではなかろうか。


そんなことを改めて思うことができたわけで、まあ、診断も悪いことばかりでもないようである。診断結果が良かったかどうかは知らない。

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