第118話 再び、無知の知について

何度か書いたかもしれないが、再び、無知の知である。無知の知とは、自分が知らないということを知っている、という意味である。知らないことを知っている。しかし、この言葉の本当の意味を知っている人は、かなり少ないのではないか。というのも、基本的に、人間とは、知りたいと思う生き物であって、知りたいと思う気持ちが強くなれば、本来は知ることができないことであっても、どうにかして知ることができるのではないかと思うようになり、その結果、自分が知りたいように知る、ということになるからである。知らない、そもそも知ることができない、ということが分からない。


時節柄というわけでもないが、特攻隊員について書かれた物語を読んだ。物語の中で、戦時の状況が、まるで見てきたかのように語られていた。著者はその通り、資料なりインタビューなりを通して、まるで自分が見てきたかのように、自分が経験したかのように理解したと思ったことだろう。そうして、物語を通じて、読者も、戦時の状況をまるで自らが経験してきたかのように感じることができることだろう。


さて。


そのようにしてなされる理解というものが、本当の理解なのだろうかと、わたしにはどうにも違和感が残った。物語としては、非常に良くできていて大変面白く読めたけれど、テーマがテーマだけに、面白ければいいというわけではないだろう。それは、本当に戦時の真実を明らかにしているのだろうか。そもそもが、戦時の真実などというものが、平時のわたしたちに分かるのか。まずは、それが大事なところである。そこをすっとばして、戦時の真実などと言っても意味が無い。


わたしたちは、何でも理解できるようなつもりでいる。しかし、それは本当なのだろうか。そもそも、何かを理解する、何かを知るというのは、どういうことなのだろうか。


何も話を戦時に持っていく必要も無い。たとえば、差別されている黒人の気持ちを、差別している側の白人が理解することができるのか。女性の気持ちを男性が理解することができるのか。兄の気持ちを弟が理解することができるのか。


死んだ人の気持ちを、生きている人が理解することはできるのか。


立場を交換する可能性があれば、話は別であるかもしれないが、決して、立場を交換することがない者が、相手を理解するとはどういうことだろうか。そんなことが果たしてありうるのだろうか。理解できたと思ったそれが正しいということは、誰が保証してくれるのだろうか。


こう考えてくると、「知る」ということが本当に難しいということに気がつくだろう。しかし、これを意識している人はどのくらいいるだろうか。知ることができるという前提を、みな無邪気に受け入れているようであるが、そんなに簡単な話ではない。無知の知。知らないことを知っている、というのは、この世には知ることができない事態があるのだということを知っている、ということに他ならない。それを知れば、いい加減な発言はできなくなるし、しっかりと物事を考えるようにもなる。「無知の知」を知れば、人はいよいよ沈黙するようになるはずであって、昨今、様々な主張でかまびすしいのは、SNSの隆盛もあるかもしれないけれど、この「無知の知」を知る人が、ますます少なくなっていることの証左であるとも言えるだろう。

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