第63話 考えることと生きること
題してみたものの、何を書くか、はっきりと決まっていないということに気がついた。いや、決まっていると言えば、決まっている。それは、一言で言ってしまえば、考えたとおりに生きることは難しいという、ただそれだけのことである。しかし、それでは、エッセイになりはしない。なりはしないけれど、わたしは別にエッセイを書きたいわけではないので、それはそれでいいのかもしれない。
ところで、初めから話がそれるが、エッセイストは、エッセイを書こうと思って書くものだろうか。同じように、小説家は小説を書こうと思って書くのか、ロックシンガーはロックを歌おうと思って歌うのか、哲学者は哲学を考えようと思って考えるのか。おそらくは、そうではないと思う。それぞれに名付けがたい対象があって、それを形にしようとしたときに、あるものは、エッセイになり、あるものは小説になり、あるものはロックになり、あるものは哲学になる。その帰するものは一である。……と言えば、それらしいことを言ったことになるが、和歌などは、どうしたってあの五七五七七の形式に合わせなければいけないのだから、詠もうと思わなければ詠めないものであって、あるいは、エッセイにしろ、小説にしろ、そういうものなのかもしれない。
話を戻そう。考えた通りに生きるのは難しいというこのことである。人生とはかくかくしかじかである、と考えて、そのように生きようとする。しかし、どうも、考えた通りに生きることができない。たとえば、人生は無意味であると考えたとして、そう考えたにもかかわらず、どうしても人生の意味を考えずにはいられない気持ちになったとする。考えたこととそれを生きることが一致しないわけである。なぜ、このようなことが起こるのだろうか。考えたことが間違っていたからだ、と言ってしまえば、それまでのことだけれど、考えたときには、考えたことが正しいという実感があったはずである。でなければ、そもそも「考えた」とは言えない。そのような実感があったにも関わらず、考えた通りに生きることができないとき、さて、人は何を生きているということになるのだろうか。
もちろん、人生を生きているわけだけれど、その人生とはどの人生だろう。現実の人生である。その通りである。考えた通りに生きることができないとき、人は現実の人生を生きている。頭の中だけで考えられた観念の人生ではなくて、現に目の前に存在する人生を生きている。しかし、一口に現実の人生と言ってみても、それは現実であるととらえられた観念と何が違うのか。わたしたちは普通、現実というものが先にあって、それをあとから認識するという風に考えがちだが、本当にそうだろうか。頭の中に存在しない現実というものが、どこか他の所に存在するというのだろうか。このあたりのことを、ヘーゲルという哲学者は、「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」と端的に表現した。だとすれば、現実の人生も観念の人生もない。どちらも同じ人生であることになる。仮にそうだとすると、考えることとそれを生きることが別々であるということが、どうして起こるのか。
どうもこの人生というものはおかしな造りになっている。わたしは、人生とはかくかくしかじかである、と言い切って疑問を覚えないような人を決して信用しない。それに真摯に向かい合えば向かい合うほどに、いよいよバカバカしく思われてくるような不思議さが、人生にはある。そう書いてみた今、途端に、人生とはかくかくしかじかである、と明瞭に断言したくなってきった。あるいは、これは人生の話ではなく、言語の話であるのかもしれないが、それは、今回の、エッセイだか何だか知れぬものの中で語られるべきことではない。
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