第52話 悟りに達した普通の人たち

悟りについて書いてみようと思う。と言っても、抹香臭いことではない。


悟りとは何か。悟りとは、あらゆるものへの執着を手放すことであるとよく言われる。しかし、「手放そう」と頑張ると、それは、「手放すこと」自体への執着となってうまくない。とはいえ、あんまり手放そうとしないようにしようとすれば、その定義から外れてしまうことになる。


「わたしは悟った」と語る人は、悟っていない。それは、「わたし」への執着となっている。悟るために出家する人も悟っていない。その行為は、「悟ること」への執着をあらわしている。「人生は無意味で無価値だ」と主張する人も悟っていない。人生を定義づけることにおいて、「人生」に対して執着していることになる。


こうなると、執着を手放すということは、言ってみれば簡単だけれど、言ったことを行動に移すことはなかなか難しい。だから、禅坊主は語らないのである。語れば負け。


悟ることは困難。


しかし、わたしは、悟りに達している人は、実はそのあたりにゴロゴロいるのではなかろうかと思っている。人生にさしたる目的を持たず、毎日をただ生きている人、その人は悟りの境地にいると言っていいのではないか。自分の人生を変えようと思わず、変えまいとも頑張らず、人生とはただそういうものだと深く思いなして、しかも、思いなしているという意識さえなく、ただただ何となく生きている普通の人たち。人生をふと生きている人たちは、すでにして悟りの境地にいると言っていいのではないか。


しかし、だとすると、お釈迦様が到達しようとした境地が、普通の人が初めから達している境地だということになって、お釈迦様は一体何をしたのかということになってしまう。あるいは、現在、修行している人たちは? 壮大にムダなことを頑張っているということになるのだろうか。なるのかもしれない。そもそも、悟りたいという気持ちがあること自体が、悟りへの最大の障害になっているのだろうから、そうなるのは当然である。


「悟り」というのがあらゆるものへの執着を断つことであるとすると、以上のような話になるのだが、「悟り」がそもそもそのようなものであるのかどうか、悟っていないわたしは知るよしもない。

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