第42話 貧しくてよかったこと

生まれてからこの方、お金に縁がない。縁を結ばずにずーっと来てしまった。先のことは誰にも分からないけれど、これからもおそらくご縁は無いような気がする。と言うと、「可愛そうに、食うや食わずの生活をしているのか、これも何かの縁だ、さあこれでクリームパンでも食べなさい」と施しをしたくなる人もいるかもしれないが、特に拒否はしない。そこまで困窮しているわけではないのだけれど、かといって、余裕ある生活をしているわけでは全然ない。


世の中、お金があればできることがたくさんある。お金があれば人の心も買えると言った人もいたが、あれも一面では正しい。ただし、お金で買える心というのは、お金で買えるような心に限られるのだが。それはともかく、お金があれば、欲しいものを買えたり、したいことができたり、まあ、様々なことができる。しかし、それゆえにこそ、わたしは、わたし自身、お金と縁がなくてよかったと思っている。欲しいものを買ったり、したいことをしたりにかまけることで、確実に内省の機会が失われるからである。小人閑居して不善を為すという言葉がある。つまらない人間は暇があるとロクでもないことをする。わたしは小人なので、お金があるとまず確実にロクでもないことをしていたことだろう。


いやあ、お金なくてよかった。これからもお金を持たないようにしよう。清く貧しく生きていくのだ……と、しかし、そんなことは全く考えていない。もう内省の機会は十分に得られたので、今後は、お金が入って来てもらっても一向に構わない。とはいえ、食うに困ることにならなければ、入って来なくても一向に構わない。とりあえず、こうやって書いていられれば、それだけでもう満ち足りている。


お金が欲しい人は一体何のために欲しいのだろうか。欲しいものがある、したいことがある、そのために欲しいということなのだろうけれど、そもそも、欲しいものを手に入れるとか、したいことをするということは、その人の人生にとって一体どういうことを意味しているのだろう。たとえば、家が欲しいとする。お金が入って家を買うとする。その「家」というものは、その人にとってどういう意味を持つのだろう。家を持ったことで、その人の人生に何が付け加えられたのだろう。「家がどういう意味を持つかって、家は家でしょ」と言われればそれはその通りなのだが、もしも家を買う目的が住むためというなら、アパートでもいいわけで、他に家を買う必要が特別に何かあったのだろうか。


しかし、まあ、そんなことを言ったらキリが無い話であり、多かれ少なかれ、人が物や行動を欲する理由に合理的な説明などつかないのだと言われれば、またそれはその通りである。ここが面白いところで、人が物や行動を欲する理由に合理的な説明が無いとしたら、それはもしかしたら、その人にとって無くてもよいものなのかもしれない。理由が無いわけだから。家が欲しいと思っているその人は、もしかしたら、家が無くても事足りるのかもしれない。


現に欲しいと思っている対象が実は不必要なものかもしれないという認識は、現にそれを欲しいと思っている人にとっては、必要なものなのか、不必要なものなのか。「そんな認識いらない! そんなこと言ったって欲しいものは欲しいんだよ! 文句あるか!」と言われれば、何も文句は無い。文句は無いのだけれど、でも、本当にそれでいいのだろうか。あるものを手に入れることは、その人の人生にとってどういう意味があるのか。それを考えること無しに手に入れられたものというのは、価値があるとも無いとも言えないわけで、そんなものを手に入れるために、人生の時間を割き奮戦する労苦を思うと、わたしなんかは、手に入れようとする前からもうげんなりしてしまう。


もちろん、こういう考え方を人に押しつける気は無い。欲しいものがあれば、生きる張り合いにもなることだし。かく言うわたしにも実は欲しいものがあって、何かと言えばそれは、この人生に対する認識である。この不可解な人生というものの正体を知りたい。それを知ることがお前の人生にとってどういう意味があるのだと問われると、ええ、実はわたしにもそれがよく分からないのである。

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