第36話 歴史を知るということ

歴史が好きで、ちょこちょことそれ系の本を読んだり、動画を見たりしているのだが、歴史というものをあとから自分の好き勝手に解釈して、あのときああすればよかった、こうすべきではなかったと言っている人が、言えると思っている人が多いことに驚く。専門の歴史学者にしてもそうである。


たとえば、昨日、源義経についての動画を見たのだが、義経について、もっと早くに兄の頼朝との対決姿勢を打ち出していればよかったのだと言う意見があった。しかし、である。義経はそう決断しなかったわけで、決断しなかったということは、そんな選択はできなかったということを表している。


われわれは、義経がそのような決断をしなかった世界に生きているので、あたかも、そのような決断ができたかのように思ってしまう。義経が決断しなかったことによって逆に決断ができたかのような見かけが生まれるのである。このことの意味をしっかりと考えることができると、歴史の見方が変わってくる。


ここで歴史の見方と言っても、あれこれの歴史解釈について言っているわけではない。問題にしたいのは、歴史解釈ではなくて、歴史認識である。歴史とは何か。


歴史とは死児を想う母の悲しみであると言った人がいた。母親が死んだ子のことを想うとき、そこに解釈の余地などあるだろうか。子どもが死んだ。母親にとってそれは取り返しのつかない事実である。子どもについて、生きているときにこうすべきだったと思ってみても、死んだ子は帰ってこない。


子どもが死んでのち、もしも生きていたら今頃は、と考えることもあるだろう。しかし、その考えは、今生きていないという事実と表裏であることを、母親は知っている。もしも知らなければ狂気であると言うべきであり、今そうなっていないという事実をしっかりと認めずに、もしも過去にこうしていたらと考えて歴史を見る人間も狂っていると言うべきだろう。


歴史を知るということはどういうことか。死んだ子を想う母の悲しみに寄り添うことである。義経を知るということは、義経の行動の解釈や批評をすることではなく、その人生を虚心に追体験するということである。そんなことできるはずがないと思ったとしたら、しかし、それこそが本当の意味で歴史を知るスタートなのではないかと思う。

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