◇10月5日(金)午後10時37分

 ◇ ◇ ◇


「よっす」


 少年が飲み物を取りにキッチンまで来ると、隣のリビングから声がかかる。

 彼の幼なじみが我が物顔でソファを占領して、テレビをぼけーっと眺めていた。


「お前なあ」


「いいじゃん別に。合鍵持ってるんだし」


「だからといってさあ」


 少年は、マグカップをテーブルに置くと、少女の横に座る。


「別にうち来なくてもいいだろ」


「暇なんだもん」


「勉強しろ」


「えー、やだー」


 テレビの画面をぷちっと切った少女は、そのままスマホをいじり出す。

 腹にはクッションを抱え込んでいて、本当にリラックスしているようだ。


「数学とか、ついてけてるか?」


「うっ」


「加法定理は?」


「さ、さいんしーた……」


「はあ……『咲いたコスモスコスモス咲いた』で覚えるんだよ」


「コスモス?」


「ちょっと待て」


 少年もスマホを取り出して、画面を何回かタップする。


「ほら、これ」


 画面には"sin(α±β)=sinαcosβ±cosαsinβ"と表示されていた。


「『咲いたsinコスモスcosコスモスcos咲いたsin』だろ?」


「無理やりすぎ……」


「しょうがないだろ語呂なんだから」


「しんここしんでいいじゃん」


「何その温故知新みたいな」


「もはやサインコスコスサインでいいよ」


「じゃあちゃんと覚えろよな!」


「覚えたよ!」


「後でテストするからな、覚えとけよ」


 ◇ ◇ ◇


「そういえば、サインといえば」


「ん?」


「あんた、昔、なんかオリジナルサインとか作ってたわよね」


 彼女の言葉を聞いた瞬間、少年が一心不乱にスマホの画面を叩き始める。


「周回するかー」


「こら。逃げるな。ね、あんたのサイン作ったよね。思い出しちゃった」


「編成どうしよっかなー」


「どこやったかな」


「は?」


 彼女の言葉を聞いた瞬間、少年の首がぐきっと横を向く。


「え?」


「あ、やっと反応した」


「なんでもない。さーて、こいつとこいつと……」


「確かお気に入りに登録してたはずだから……」


「まて」


 彼女の言葉を聞いた瞬間、少年ががちっと少女の肩を掴む。


「お前、まさか、写真で保存してんの?」


「うん!」


 彼女のスマホの画面に表示されていたのは、まぎれもなく、少年のオリジナルサインであった。

 中学の卒業式の時、はっちゃけて、シャツにマジックで書いたのだ。


「ううう……」


 少年がぷるぷるとして、しばらく頭を抱える。


「お前なあ、俺だって忘れてないぞ?」


「な、なによ?」


「お前がこの日、もう大人だーって言って足にペディキュア塗ってたこと」


「な……」


 このあと滅茶苦茶黒歴史開陳した。


 ◇ ◇ ◇


 しばらく後。

 リビングには、頭を抱えて、燃え尽きた様子のふたりがいた。


「なあ」


「なに」


「お互いに、忘れよう」


「そうね……」


 そういうことになった。


 * * *


10月5日の誕生花は「クコ」。花言葉は「お互いに忘れよう」です。

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