3 ~後輩の少女~


「灯成」



 暗闇の中で誰かが、あたしの名前を呼んでいる気がする。


灯成ともな!」


 また、呼ばれた。なぜかほほがジンジンする。


「起きて、灯成ともなってば」


 まぶたを開けてみる。すると光が差し込んできて、そのまぶしさに思わず一度閉じてもう一度まぶたを開ける。暗かったのは眼を閉じていたからだったみたいだ。


「とも―――」


 なおもあたしの名前を呼ぼうとする声は、そこで切れた。

 如何いかがしたかと声を探る耳がとらえたのは硬いものを踏みしめる音。


「中学最終年度前期の試験範囲しけんはんいを先にすべて発表してやってるというのに、えらく余裕そうだな忽滑谷ぬかりや灯成ともな。随分と夢を見ていたみたいだが、昼休みに腹はたされなかったのか?」


 一年生の頃から聞き馴染なじんだハスキーボイスが、あたしの目の前に立つ。

 机に横たわる頭をそのままに、開ききった視界を90度うえに上げる。そこには、黒いすすいたる所にこびり付いた白衣はくいを着こなす科学の担当女性教師、御陵みささぎ叶恵かなえ先生があたしを見下ろしていた。目が覚めたばかりの脳でもれしてしまう声の主はこの人だ。


「おはよう忽滑谷ぬかりや。寝起きのところ悪いんだが、私がいま説明したばかりの前期最終試験の範囲を読み上げてもらおうか」

「は、はひっ!」


 静かな口調なのになぜか張りのある声に、慌てて机のあとよだれがべったりとほっぺたに付いた顔を制服の袖でごしごしときながら立ち上がったあたしは、手に持ったタブレットの教科書と格闘すること数十秒。ちらっ、と叶恵かなえ先生の様子をのぞき見る。


「——はぁ。聞いてなかったなら聞いてなかったでかまわないから、素直に聞き直しなさい」


 あきれたようにため息をくと、叶恵かなえ先生は紙の教科書を片手に教壇きょうだんへ戻っていく。


「他にもつくえと恋人になっていたヤツが何人なんにんかいるみたいだからもう一度言うぞ。前期最終試験の出題範囲は生物せいぶつ地学ちがく。生物は中間試験の続きみたいなものだが、地学はおもに太陽や月などの天文系の内容を出すから、中間試験のさまたげにならない範囲で予習しておけ」


 先生が言い終わるのと同時に、タイミング良くチャイムが鳴る。

 それが鳴り終わるのを待ってから、叶恵かなえ先生は号令を当番にかけさせて今日最後の授業は終わった。







 教室を出て廊下を歩いていると、すでに部活にいそしんでる一番乗りな運動部員が準備運動の掛け声をグラウンドから校舎に響かせてくる。

 三年生の教室がある二階から、下駄箱のある一階へ下りる階段のおどり場に差し掛かった時、三階から部活に遅れそうな様子の一年生達が急いで駆け下りていく。


「今年の新入生達は元気な子が多いなー」


 隣を一緒に歩く、さっきの授業の時間、あたしを起こそうとしてくれていた親友の小鞠こまりちゃんが楽しそうに言う。


「そだねー……」

「何、さっきのカナちゃんの寝坊助ねぼすけのこと、まだ引きずってるの?」


 ため息はあっても、元気も精気もない返事をするあたしに、小鞠こまりちゃんは覗き込むようにあたしの頬の跡を右手でつついてくる。


「だっとぅぇ、最近はてゅおくについてにゃい事ばっかにゃんだみょん……はむっ」


 その指をお返しと言わんばかりにぱくりとくわえる。

 すると小鞠こまりちゃんは即座にあたしの唇から右手の人差し指をすっぽ抜き、すかさず左手に持った鞄であたしの頭をはえのように叩き抜いた。


「ぐはっ」

「公衆の面前でいきなり何するのよ」

「——————っ……それ……小鞠こまりちゃんが、言う? ていうか小鞠こまりちゃんからやってきたんじゃない」


 見た目以上のダメージに頭をおさえながら、被告/小鞠こまりちゃんにうったえかける。


「思春期の男子に変な性癖をえ付けかねない行為を取ったあんたが悪い。てか普通にきたない」


 敗訴。被告はあたしだったようだ。

 肩を落とし、しょんぼりと階段に足を向ける。そこで


「あ、灯成ともな。そっち上、前―――!」

「——?」

「っ!」


 突然目の前が真っ白になった。

 正確には、様々な色の表紙を開けた白い紙の雪崩なだれの中にのみ込まれたんだけど、絵的にはそう言ってもいい。


「きゃ、」

「はぶぁ――――!」


 バサバサと降りかかるノートに生き埋めにされたあたしは、小鞠こまりちゃんに適当に掘り起こされてなんとかい出る。小鞠こまりちゃん、掘り出したノートをあたしの背中に積んでも意味ないよ。

 背中に積まれたノートをけながら振り返る。

 ぶつかったのは、提出されたのであろうノートを運んで階段を降りていた一年生——二年生は何故か隣の教室棟が主な教室だからだ――の女の子だった。

 降りてきた階段に尻もちを着いて、そのお尻をさすっていた。

 小鞠こまりちゃんがその女の子に手を差し出す。


「急にごめんね。灯成ともなまえ見てなくて。立てる?」

「あ、いえ―――。私の方こそよく見て降りてなかったので……トモナ?———」


 小鞠こまりちゃんの手を取って立ち上がった女の子はその体しに、ノートを拾い集めるあたしを見て呟く。


いぬッ……」

「——へ?」

「ん? 犬がどうしたの?」


 女の子が呟いた言葉にハテナを浮かべる小鞠こまりちゃん。

 あたしはノートを拾う手を止め、どこか聞き覚えのあるその声に向き合う。


「あれ? あなた、どこかで会ったこと」

ひと違いです」

「えー、でも、今言ったイヌって———」

「聞き間違いです。膝の成長痛が突如とつじょ猛威を振るって思わず『いたっ』って言っただけです」


 女の子は若干早口でまくし立て、目をらす。

 よくよく見ると、女の子は割と可愛い顔をしてる。黒く長い髪も綺麗でよく似合っている。将来大きくなったら美人さんになるような、そういった感じの可愛かわいさだ。

 そんな美人ちゃんのセリフを聞いた小鞠こまりちゃんが、あたしゆび差して言う。


「そ、そうなの? そんなに痛いんだったらこのノート、灯成ともなが代わりに持ってくけど」


 うんう——いや待って。持っていってあげるのはいいとして、何故あたしだけ? 小鞠こまりちゃんは? わっといずへるぷゆーみーゆー?


「紙のノートってことは、一年生の社会の担当の吉野先生のとこだろうけど。あんたクラスと名前は?」

「え? あ、は、はい。一年二組の東京とうきょう深輝みきです」


 小鞠こまりちゃんの申し出に、一瞬だけ狼狽うろたえて自己紹介をする美人ちゃん。

 ん?


東京とうきょう? 確かにここは東京だけど、なんで急に今?」

灯成ともな、この子の言う“東京とうきょう”は多分苗字だよ。私どっかで聞いたことある」

「ウっソだ! そんな変な苗字聞いたこともない! 都道府県の名前なんておかしいでしょウッ」


 両手大振りの鞄が、言い終わるコンマ数秒の発音と同時にあたしあたまを体ごと吹き飛ばした。


「よし灯成ともな。いったん黙れ。そしてその前に全国の山口さんと石川さんと宮崎さんと千葉さんと福島さんと福井さんと宮城さんと長野さんと福岡さんと秋田さんと奈良さんと香川さんと長崎さんと山形さんと富山さんと岡山さんと熊本さんと佐賀さんと広島さんと山梨さんと島根さんと栃木さんと徳島さんと兵庫さんと鳥取さんと大阪さんと鹿児島さんと愛知さんと青森さんと三重さんと岩手さんと新潟さんと茨城さんと高知さんと和歌山さんと静岡さんと神奈川さんと滋賀さんと京都さんと埼玉さんと群馬さんと大分さんと岐阜さんと東京さんと深輝みきさんに謝れ」

北海道ほっかいどうは?」


 若干へこんだ防火扉に身をゆだね、頭の左側をかばいながら涙目で問いかける。


北海きたみさんとかはいるけど、北海道は名称がネット等で色々と物議ぶつぎをかまされるから今回はパス」

「じゃあ愛媛えひめさんと沖縄おきなわさんは?」

「今のちゃんと聞いてたのか……。何気に凄いなアンタ。そこはいない……ハズ」

「そっか……。なんかごめんね。深輝みきちゃん。変な苗字だなんて言って」

「い、いえ。希少性の高い苗字だというのは、自覚、してるので……」


 中学に上がったばかりの新一年生にはあたし達の大人なやり取りは刺激が強過ぎたみたいで、ちょっと驚いているように見える。

 ああ、せっかく集めたノートをまた拾わなきゃだ。

 いそいそとさっきよりも散らばったノートを集めていると、教室側の廊下の方から男子達の声が聞こえてくる。


「あっれ~? 誰かと思えば、さっきの授業で涎らして爆睡してた忽滑谷ぬかりやさんじゃねえか。今度は階段前につくばって何してんだ?」

「お、大塚おおつかくん」


 拾う手を止めて見上げた先には、両隣に連れう男子達と一緒に笑う同じクラスの男子、大塚おおつか君の姿があった。


「私たちがぶつかってばらいたノートを拾ってるのよ。そう言うあんただって、さっきの時間じゃない」


 特に言い返せることもなく、ただ固まるしかなかったあたしの代わりに、小鞠こまりちゃんはそう言って大塚おおつか君達との間に入るように残りのノートを拾っていく。


「う、うるせぇ! あれは、えと、あれだ。テストの事を考えてたんだよ。寝てはねぇよ!」

「別に私寝てたとか言ってないでしょ」

「う………。と、とにかくだ。忽滑谷ぬかりや、今年はあんまりクラスとかに迷惑かけんじゃねえぞ。見てて鬱陶うっとうしい」


 それだけ言って、大塚おおつか君達は小鞠こまりちゃんをすり抜けるようにしてそそくさと階段を降りていく。

 残りのノートを拾いきった小鞠こまりちゃんは、あたしの集めたノートの山にそれを乗せて、ふん、といったように大塚おおつか君達の行く先を一にらみして深輝みきちゃんに向き会う。


ちなみにあれ、大塚おおつか君は別に好きな女子にイタズラする思春期男子だとか、灯成ともなに対してのいじめだとか、そういう甘いのとか重いのじゃなくて、ただあいつが陰湿いんしつな性格なだけよ。トラブルメイカーな灯成ともなが目を付けられてるのは確かだけど」

「そ、そうなんですか」

「あ、はは。まあ仕方ないよ。あたし、ドジが多いし……皆に迷惑かけてるのはホントのことだから」


 やり場のない恥ずかしさと申し訳なさを、照れ隠しみたいに、自分の頭を撫でるような動作で誤魔化しながら、ノートを抱えて立ち上がる。

 実際、今日もお昼休みの後、五時限目の授業には結局遅れちゃったし、そのせいで先生に少ししかられて授業を止めてしまった。


「あんたがドジなのは今に始まったことじゃないし、みんな愛嬌あいきょうのあるモノばっかだから皆そんなに気にしてないよ。もう少し周りを見た方が良いのは事実だけど」

「う、うん」


 どうとでもない。というように小鞠こまりちゃんはあたしの頭をぺしっ、と叩く。

 小鞠こまりちゃんはそうフォローしてくれるけど、あたしの失敗が多いのは変わらない。

 さっきから、新しい後輩ちゃんの前でみっともないところばかりを見せてしまってもいるし。


「(みっともない)」

「ん? 深輝みきさんどうかした?」

「い、いえ別に何も……」


 小鞠こまりちゃんは何か感じたのか、深輝みきちゃんに声を掛けるが、深輝みきちゃんはその目線から顔を少しらす。けれどあたしの方を一瞬だけ見てすぐに顔を上げた。


「えっと、すみません。やっぱり用があるので―――あ、えっと、あと足も痛いのでノート、お願いしてもいいですか。職員室前の提出ていしゅつばこに入れればいいみたいなので」

「え、うん分かった。それはいいけど、大丈夫?」

「はい。それでは失礼します」


 深輝みきちゃんはそれだけ言って、小鞠こまりちゃんにぺこりと頭を下げてどこかぎこちなく足をかばうように階段へ向かう。

 気のせいか。さっき深輝みきちゃんがあたしを見たとき、睨まれたように見えた気がする。

 手すりを持ちながら階段を降りていく深輝みきちゃんを見送りつつ、頭の中に芽生めばえた疑問はそれ以上座ることはなかった。

 

 校内のスピーカーがザザッ、と音を漏らし、一気に音量を上げるようなマイクのノイズが響いたかと思うと、動揺を取りつくろう気配が微塵みじんもない男の先生の声が学校中に響き渡る。


『きっ、緊急警報。きんきー警報! 東京湾内に漁港にて超大型のディザイアーが出現!! 全校生徒はすぐにさま体育館に移動して避難指示をあおげ! 繰り返す。東京湾内のに大型―――』


 直後、地震のような短く強い揺れと目では見えないほど遠いと分かるような雄叫びが、学校をふくむ東京全域を襲った。


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