第14話 路地裏の蒼
「ぉぶうっ?!」
束の間の空中遊泳を楽しんだアリスに待っていたのは、背中への衝撃と全身を包む冷たい感覚だった。
歪んだ世界に飛び交う水泡と鼓膜に伝わる軽い圧迫感。口の中に流れ込んでくる無味の液体、そして空中よりも鈍い無重力の環境。
瞬時に悟る。水だ。自分は今、水の中にいるのだ。
アリスは慌てて手足を動かし、水面へその身を躍らせた。岸に手を掛け、体を引き上げようと試みるが、水を吸って重くなったエプロンドレスがそれを阻害する。渾身の力を振り絞り、右足をなんとか陸に掛けて半身を引きずり出し、後は転がるようにしてようやく地上に帰還を果たした。
「ぜー……ぜー……えほっ、えっ――っはぁ。はぁ、はぁぁ……」
大の字に横たわり、酸素の供給に努めるアリス。
やがて呼吸が整ってくると、ゆっくりと体を起こし、続けてふらつきながら立ち上がる。
「はぁ……はぁ……ここは、どこだ? 壁の、中、だよな?」
息遣いの合間に言葉を挟み、アリスは周囲を見渡す。石造りの家屋の影に沈んだここは住宅街の路地裏らしく、辺りに人の姿は無い。壁側には外周と同じく堀が設けられており、自分はここに落下したようだ。
「っぶねえな、もう少しで地面に落ちるトコだ。そう考えると、運が良かったと言えるのか……いや、この事態そのものが不運か……」
垂直に落ちるスカート部分を両手で掴み、思いっ切り捻ってみる。驚くほどの水が滝のように流れ落ち、舗装された煉瓦道に広いシミを作った。それを二、三回繰り返し、ついでにパンプスの中の水も捨てて、心なし体が軽くなった状態で夕日が差し込む路地へと歩を進める。
朱色の輝きに目を瞑り、何度かの瞬きを経てようやく視界に納めた光景は、雑多に尽きる商店街とは程遠い、清潔と清閑に浸る井然の町並みだった。
まず目を引くのは壁内の中心、盛り上がった高台に立つエルフィリアである。山の手にあるそこからなだらかな勾配でアリスが現在いる市街地まで続いている。
足元を見る。三車線ほどの路地の真ん中を水路が走っていた。それは視界の果てにあるT字路の左右から伸びる水路が合流したものであり、背後の堀まで続いている。
まるで、昔、写真で見たヴェネチアのような、透き通る水と古風の建物が織り成す美しい都。
アリスの脳内で再び、記憶の蓋が開く。花の船から見下ろす朝もやの景色は、キャベツの断面図を思わせる幾何学模様に馴染んでいたことは、ぼんやりと覚えていた。幾重にも重なる模様のうち、建物群と森林地帯までは見取れたが、その間を隔てているのが水路である。この三重奏で壁内は構築されているのだ。
「同じ国とは思えねえな……壁を一枚挟むだけでこうも違うモンかね」
呟いて、アリスは水路沿いの道を歩き始める。明るい場所に出ても依然として周囲に人気は無い。壁の向こうの方がまだ騒がしいくらいだ。
「さぁて……どうしたモンかね。外に出たいが……関所を通れるかが問題だ。通行許可書的なモンが必要だろうし、無かったら出られない……最悪、ケーサツか自警団を呼ばれて御用、ってのは避けてーしなぁ……」
前に進み、かと思えば踵を返し、そしてまた振り返り……同じ場所を行ったり来たりと、小さな体が落ち着くことはない。
そうした堂々巡りを、十回は繰り返した頃だろうか。
視界の端を、蒼の揺らぎが掠めた。
「ん?」
足を止め、首を右側に回す。
通りの途中に築かれた、一軒家と一軒家の合間を通す細い路地。その奥にある辻の真ん中に、蒼い髪の女性が立っていた。アリスの視線を感じ取ったのか、彼女はこちらを一瞥すると、意味ありげな微笑みを残して左側の通路に入っていった。
「今のは……!」
アリスは目を見開いた。忘れようが無い、あの澄ました笑顔。魔力色を確かめる行為の最中、虹色の海の水底で見たその人が、現実にそこにあった。
美しい蒼の長髪がついに辻の角に消え、その瞬間、アリスは走り出す。急いで辻まで到達し、女性が向かった方角へ振り向くが、折れ曲がる路地には人っ子一人いない。
また、どこかの路地に入ったのだろうか。
アリスはゆっくりと歩き出し、途中の交差点に差し掛かっては左右を確認する。そして三度目の交差点で、お目当ての蒼い背中を右手の路地に見た。
しかし、女性はすぐに次の角を左に曲がり、視界から姿を消してしまう。慌てて追いかけると、また彼女が二つ先の交差点で曲がる姿を目の当たりにする。走っても、走っても、優雅に歩く女性の背中に追いつけない。
まるで、どこかに誘われているようだ。
迷宮のように入り組む路地裏を疾走しながら、アリスは思う。
蒼髪の女性は路地の奥に、時には塀の上に、時には民家の屋根にと、次第に闊歩するルートを際どくしていく。路地にある様々な物を駆使して、アリスは必死にその足取りを追随した。
そうやって街中を駆け巡っているのに――すれ違う人は未だ、絶無。それどころか雨後の森林のようにぼんやりと、辺りは霧のようなモヤに濁っていく。
やがて、自身の荒い呼吸音だけが響く乳白色の世界で、左右に小さく揺れる蒼の流れを頼りに、アリスはひたすら足を動かし続けていた。
その足が、止まる。
目の前で、女性が立ち止まったから。
地面まで届きそうな長い髪を翻し、女性は振り返る。その足元には蹲っている子どもの姿があった。
両腕で膝を抱く、いわゆる体育座りで地べたに腰を下ろす少女。アリスが近づいていくと、伏せていた顔を静かに上げていく。
涙に濡れた瞳と、赤くなった鼻が、少女の切ない心境を表していた。そして、固く閉じていた唇が、小虫の羽ばたきが如く小さく揺れる。
そこから、声は生まれなかった。
――さみしいよ。
けれど、頭の中に響く、言葉。
アリスは応える。
――寂しい? 何がだ?
ちゃんと息を喉に通しているのに声は唇を空回りし、なのに質問は、浴室内のように薄いエコーを伴って乳白色の世界に広がっていった。
――わたしはひとりぼっち。ここにはわたし以外にだれもいないの。
――ひとりぼっち? どういうことだ? ここにはって……ここは、どこなんだ?
――ああ、さみしい。さみしいよ。もとのところに帰りたい……たくさんのお友達と空の歌に満ちていた、あの場所に。
――お前は、そこに帰れないのか? この世界から出られないのか?
――なのに、どうしてわかってくれないの? もうおなかはいっぱいなの。何度よびかけても聞いてくれない……もうイヤ。怒られるのは、もうイヤなの。
――怒られる? 誰にだ? なあ、会話をしてくれよ。ここはどこなんだ? なあ。
――……あなたも、わかってくれないんだね。ああ、さみしい……さみしい……。
――分かってくれないと言われたって、こっちの質問に答えてくれなきゃ理解できるモンも……って、おい。待て、コラっ!
少女はまた顔を下ろし、その途端、アリスと彼女の距離が急速に広がっていく。まるで地面がベルトコンベアーにでもなったかのように、座り込んだ体勢で後退していく少女と、その傍らに立つ蒼髪の女性。
アリスは慌てて駆け出すが、離れていくスピードが遥かに彼女の速力を上回っていた。2人の姿は瞬く間に霧に呑まれ、そのシルエットも数秒と経たずに乳白色に溶けてしまった。
「待てえ!」
叫んでも、もはや2人は虚無の彼方。それでもアリスは手を伸ばし、必死に走り続ける。
そして、その手が何かの触感を得た時――
「貴様! そこで何をしている?!」
しわがれた怒鳴り声が、アリスの背中を衝いた。
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