愛しのコーデリア
冷門 風之助
第1話
《ルビを入力…》『・・・・探偵料は一日6万円、他に必要経費。拳銃のいる仕事なら危険手当てとして4万円の割り増しを頂きます。後はこの契約書をお読みください』
俺はアタッシュケースから契約書を取り出し、彼女の前に置いた。
ここは彼女が住んでいる、都郊外の介護付きケアハウスだ。
造りとしては普通のマンションだが、何かの時には常駐の介護職員が来てくれるし、また、付属の病院の医師による定期健康診断も受けられる。
彼女・・・・今年77歳になるその女性は、椅子に腰かけたまま、背筋をピンと伸ばし、片手で老眼鏡を押し上げて、契約書を端から端まで読み、テーブの上に置き、傍らの万年筆の
俺はそれを手に取り、署名を確認すると、黙ってケースにしまった。
『私は篠原育枝と言います。』と、そこで言葉を区切り、俺の顔を見た。つまりは『知っているか』と問うているのだ。
俺が興味を示さないのを見ると、テーブルの端に載せてあった、一冊の本を俺の前に示した。
随分前に出た本らしい。表紙が少しばかり色あせている。表題に『息子を東大に入学させる方法』とある。
『お読みになったことは?』
もうかなり昔、評判になったのを思い出した。
三人の息子を現役で東大に入学させたというので、一時メディアで盛んに取り上げられていた。
『噂には聞いたことがありますが、読んだことはありません』俺は答えた。
『
『出て居ません。高校までです』
なんだ。とでもいうような表情が浮かんですぐに消えた。
『私は息子3人を、東大に入れたんです。しかも現役でね。長男と次男は法学部。三男は医学部ですわ』
後は自分の学歴やら、亡夫の学歴、職業。そして如何に子供を勉強させるために心を砕き、息子たちがそれに従ってどれほどエリートコースを辿り、どれほど出世したか等を、こっちが聞きもしないのに、延々としゃべり続けた。
『ご依頼の内容は?』
『え?』
自慢話の腰を折られたのが不快だったのだろう。ちょっといらついたような表情を見せた。
(俺自身、自慢話はするのもされるのも、あまり好きではない)
『もう主人が亡くなって十年は経つでしょう?私も年ですから、息子たちの誰かと同居出来たら、と、そう思っているんですの』
あれだけ自分が手塩にかけて育てたのだ。息子たちが断る筈はない。そう確信しているようだ。
『四人ですね?』
『え?』
俺は彼女の話を遮って言った。
『何のことですの?』
『お子さんの数です。』
ちょうど真後ろにベッドとサイドテーブルがあり、そこに写真立てに入れた、一枚の写真があった。
表情に影がさした。明らかに触れられたくない話題に触れられた。そんな顔だった。
杖を支えに椅子から立ち上がると、その写真を持って戻り、また座りなおした。
まだ子供たちが小さい頃に撮ったと思われる家族写真である。
篠原夫婦と、そして男の子三人、それに女の子が一人写っていた。
夫婦と兄弟三人はにこやかに笑っているというのに、女の子はどことなく寂しそうな表情に感じられる。
『確かに、私には子供が四人おります。でも娘は、いなかったのと同じですの』
その女の子・・・・名前は晴美という。篠原家にとっては末っ子である。
兄達三人が皆小学校の頃から成績がよかったのに、彼女だけはどういうものか、勉強が出来なかった。
いや、正確には、成績にあまりにもムラがありすぎたのだ。
どんなに塾に通わせても、家庭教師をつけても、成績が一向に上がらなかった。
中学の頃、担任の教師に、
『ひょっとしたら高校に合格することさえ危ない』とまで言われた。
幸い、私立の三流高校に進学はしたものの、そこでも成績は横ばいという状態だったので、育枝にとっては兄たちの教育の方に勢い傾かざるを得ず、晴美のことは放りっぱなしだった。
事あるごとに兄達と比較され、彼女はそれに反発を覚えたのだろう。高校を卒業して家を出たきり、音信不通になって、以後全く会っていないという。
『晴美のことはもうどうでもいいですわ。問題は息子たちです。あの子達の誰が、私の同居を望んでくれるか・・・・いえ、私としては三人が争いにでもなったらどうしようと、それだけが気がかりなんです。贅沢な悩みですわね』
おかしくもないのに、そう言って笑った。
自分が訪ねてゆければいいのだが、三年ほど前に右足を骨折してから、歩行にいささか難が出てきた。
それ以来彼女は自宅を売り払い、このケアハウスに住んでいる。
歩行以外の日常動作は大抵自分で出来るし、ここにいれば外への買物は頼めばやってくれるから、さほど不自由はしないのだが、自分の老い先を考えると、やはり家族と一緒に暮らしたいと思ってもさほど不思議ではないのだが、息子たちは息子たちで、日常の仕事に追われて、なかなか一同が集まるということもない。
そこで、探偵さんに三人のところに出向いて真意を聞いてきてほしいのだ。という。
お金なら、亡夫の遺産の外、以前に講演会や本の印税収入で貯めたお金があるから、それで何とか支払える。
『引き受けて貰えるかしら?』
彼女の言葉は(私の依頼を断る筈なんかない)という、妙な自信に満ちているようだった。
正直言って、俺はあまり気乗りはしなかった。
しかし日頃、仕事を回してくれている馴染みの弁護士からのたっての頼みだ。
恩や義理に縛られたくもないが、我がままばかりじゃ飯も食えないしな。
『分かりました。お引き受けしましょう』
俺は答え、椅子から立ち上がった。
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