別れ

 私は目の前で起こったことの半分も理解できない。


 だれかが死ぬのを見るのは初めてじゃない。

 でもそれは病気とか寿命で死んでしまうのであって……、人はベッドの上で死ぬものだ。そして、棺桶に入れられて、お花に包まれて、火葬。揺らめく赤い赤い火が魂を天に運ぶ……。

 俯く。足元に赤い血。

 赤い血が夏の日差しでカラカラに乾いた地面に染み込んでいく。

 私の服……赤い。頬に手を当てる。それまで白かった掌にべっとりした血。はらりと耳から溢れた自身の銀髪から赤いものがしたたり足元の海に落ち、ペチャっと小さな鈍い波紋をつくる。

「おい」

 顔をあげる。目の前に猿男の体、手はママの胸ぐらを掴んでいた。ヒッと自分のものと思えない声が出る。逃げるようにママの顔を見ると恐怖でこわばっていた。ママの首筋に剣が押し当てられる。

「さっさと娘を離しな」冷たい声。

 私を抱くママの腕にギュッと力が入る。見たことのない表情。私を守らなくちゃって気持ちでいっぱいな、その気持ちだけでなんとか立っているような、見開かれたママの目を見つめる。

「べっぴんさんなのにもったいねえなあ」

 男の腕に力が入った。剣が鈍く光る。

 瞬間。

 さっきの、目の前で起こった「こわいこと」がフラッシュバックする。絶叫。噴き出す鮮血。足元に広がった赤い海。ママがそうなる?それは嫌だ。ぜったいダメだ。見たくない。あやふやな考えがひとつに固まって鮮明な意思が出来上がる。体が勝手に動きだす。

 握っていたママの服の袖を引っ張る。

 目が合う。

「……ママ、わたし……」

 そう言って、手を離して?ってママの腕の袖を軽く力を入れて引き剥がすように引っ張り、促す。一瞬、……?となったママの顔が、私の考えに気づいてハッとなる。それだけはダメ、絶対ダメ。そういう顔になって、ママの腕がもっとギュっとなる。

 それを見ていた男がニヤッと笑って私の前に座り込む。

「お嬢ちゃんの方が物分かりがいいぜ」

 そう言って、男は服の袖で私の顔についていた返り血を乱暴に拭う。

「……ママに……酷いことしないで……」

 声が震えて、うまく喋れない。

「俺もべっぴんさんは殺したくねえよ?高く売れるし。でもなあ、ガキはもっと高く売れる。優先順位ってのがあるんだわ。わかる?邪魔されるとこっちも、やりたくないことやんないといけないの。なあ。お前からお願いしてくれよ。な?ママ、離してって、ハッキリ言ってみ?」

 鉄のような真面目な顔で言う。

「うえええええええええん」

 突然、隣にいた……今年7歳になる男の子。ヨウの鳴き声。よっぽど男の顔が怖かったのだろう。我慢していたものが溢れ出したのだ。

 みんなが一瞬気を取られる。緊張のベクトルが変わる。その隙に猿男が私の前から一気に転身、腕がヨウに伸びる。ヨウの首根っこを捕まえて抱いていた母親から引き剥がす。私たちの間に混乱が広がる。母親の叫びが起こる頃には猿男は後ろに跳んで私たちから距離をとっていた。

「黙れ!静かにしろ!ガキを殺すぜ!」男の大声。

 ヨウの首に剣が当てられる。ヨウの鳴き声が恐怖のあまりひきつる。パニックになった母親の叫び声が響く。あまりに気の毒な親子の惨状に私は言葉を失う。みんなそうだ。

 猿男が場を支配した。

「ガキども、来い。今度こそだ」

 ヨウの母親の嘆きだけが響く。子を連れた他の母親たちは、どうしていいか分からず、互いに顔を見合わせる。

「おい」

 男が急かす。ヨウの首筋に刃が当たり血が垂れる。

「ママ」

 放っては置けない。その気になれば彼らはまたあの力を使うだろう。なぜ今すぐそうしないのかはよくわからない。でも、きっとそうだ。

 ヨウを見て迷っているママの腕はさっきほど強くない。解いて、前にでる。

「行くから、だからヨウを……離してあげて…」

 猿男の前に行き、震えて声が……いや、しぼり出せ。

「ほ、ほら、言うこと聞き……ますから……」

「あ、あの……ぼ、僕も」

 背後から声。ロミイ……。

 それに続くようにみんなが出てくる。猿男は顔をますます凄ませる。

「三列に並べ」

 私たちの人数を数えると、もう三人来い。お前とお前と、お前だ。そういって比較的若い男女を指差し、呼びつける。

「いいぞ、おい、お前ら。あいつについていけ。遅れるな」

 指さされた猿男の仲間の一人が陽気に手を振る。

「行け」

 手を上げた先頭の男が歩き始める。

チラチラとママ、パパの方を見る。みんなそうだ。

「ママぁー」ある子が叫んだ。

「黙って行けってんだ!」

 だが脅すような男の叫びで遮られる。みんなの肩がビクッとなる。下を向く。歩け、今は黙って歩け。靴の先を見つめる。私たちの行進にも確かさが生まれる。もう引き返すことはできない。

「アリスーー」

 ママの声だ。振り向く。ママたちこっちに走り出していた。私も思わず走り出しそうになる……だけど、ママたちはその場に倒れる。私たちの間に立っていたフードの男が再び力を使ったのだ。

「おめえも一人で歩け」猿男がヨウに言う。

 首根っこを掴まれていたヨウが手を離される。しかしその場にへなへなとヘタリ込む。

「ほら、ちゃんとしろ」そう言ってヨウの頬をぶつ……見ていられない。私はヨウのそばに走った。

「待って」

 もう一度頬をぶとうとした男を推しどけ、ヨウを胸に抱く。ヨウは泣き止まない。頭を撫でる。

「大丈夫。大丈夫」

 ヨウはウッウッと言いながら、少しづつだけど落ち着いた。

「えらい」

 よしよし、と頭を撫でた。

 大丈夫。大丈夫。今度は自分に言い聞かせる。少しだけ、安堵感が込み上げてくる。なにも状況は良くなっていないのに。

「一人で歩けるね?」

 ヨウがこくんと頷く。少し距離ができてしまっていた列に、ヨウが弱々しくだけど走っていく。

 私も、行かなくちゃ……嫌だ。行きたくない。嫌だ、嫌だ……考えるな、今は。

歩こうとした私の耳元に猿男の声。


「最初の一人が大変なんだ。後は芋づる式におもしれえほど簡単にズルズル出てくる。今回は思ったより早かったぜ?俺の余興も無駄じゃねえだろ?」

 そう言ってお尻に手を触れられる。ニヤっとした顔……まただ、忌々しい笑み。こいつが笑うとロクなことが起こらない。

「おめえも早く行けよ」

 パンパンと私のお尻を叩くと、キキッと声を出して猿男は笑った。

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