第43話 ハザマからの
「ああ、気が付いたですか。話がむっかしかろうかと思って、立ち合いに来たとですよ」
司は、ぼんやりとその声を聞いた。
「…絹子、さん?」
「はい、あたいですがよ」
語尾はヨの音にオの音が加わったような、独特の発音。
司は、横たわっていることを認識しながら目を開いた。
すぐ横に、こちらをのぞき込んでいる絹子の、ほっとしたような笑顔が見えた。
「ここは…?」
司は上半身を起こしながら、周囲を確認した。
そこは、司が今までに見たことのない空間だった。
上下左右すべてが、ミルクを流したような白一色。
平らなところにいる感覚がありながら、周りのすべてが曲線で、球体の中にいるようにも感じられる。
投げ出した格好の自分の脚の横、いわば床ともいえる部分を触ってみると、感触はつるりとしているのに、目に映るのはふんわりしたもの。
「乗ることのできる雲があったら、こんな感じでしょうか」
思わず口に出すと、絹子はにこにことうなずいた。
絹子は、つい先ごろ会ったときとは違って、ブラウスとスカートらしきものの上に白い割烹着を着ていた。そして、司の横に膝を崩して座っていた。
自らの服装を確かめると、わかばに再会したときのまま、靴も履いている。
「…まさか、私、急に死んでしまった…?」
声に出してしまってから、司は慌てて自分の頬をぺちぺち叩いた。
「ううん、物質感がある…?」
絹子は、はっはっはとゆっくり笑った。
「山田さん。ここは、ハザマですよ」
「ハザマ?」
「あたいも、よう説明しきらんですが、命の有るもんはみーんな、こげんハザマのすぐ近くにおっとです」
「おっと。居るという意味ですね」
「はいー。昔、誰かが教えてくれたことですが、あたいらが思っている世界というもんは、分厚い字引みたいになっているそうです」
絹子は、司にわかる言葉で話そうと努めているらしかった。ただし、上がり下がりの激しい鹿児島のアクセントだけは、いかんともしがたいようだ。
「じびき。はい、辞書ですね」
「字引みたいに薄か紙が重なったものを、思い浮かべてください。そん一枚一枚が、一つ一つの世界。そん紙と紙の間が、ここ、ハザマだと思ってみてください。字引とは言うても、端が綴じられてはおらんのです。ぱらぱらっと重なっただけで、何かあったら飛んでしまう」
「飛んでしまうんですか?」
「そいで、また重ねる。字引には細んか字がびーっしり書かれてますね?」
「そうですね」
「あれが、命のあるもんと思ってください。それも、きっちり印刷されたもんじゃなか。字の形をしたもんが、ただ紙の上に乗っているのだと」
「つまり、紙が飛んだとしたら、落ちたり、他の紙に移ってしまったり?」
「そうそう。あたいも、ちゃんとわかってはおらんのです。でも、誰もが一つきりと思っちょる世の中っちゅうもんは、人の数だけ有るかもしれんということですよ。人も、あっち行きこっち行きすっこともあるんです」
「難しいお話ですね」
「むっかしかですか? じゃっどなあ」
絹子は子どものように、こくんとうなずいた。
「あたいは説明が下手じゃっで。字引じゃなしに、縄を例えにして教えてくれた人もあったですが。縄の方が、よくわかりますか?」
「より合わせた一本一本が、一つ一つの世界だということですね」
「そうそう。実際にそげな形があるわけじゃなかですよ。例えたところでしょうがなかけどなあ」
絹子が申し訳なさそうにしているので、司はそれなりに納得していることを示そうと宙をにらんだ。
「ええと、ともかく世界は一つではない。いくつもが重なり合っていて、たまには人の行き来だってあると、そういうことですね」
「はいー。ただし、ここ、と決めても行きがならんですよ」
「思ったところに行くことができないっていうことですか?」
司は、言葉の意味を確かめようとした。
「そうそう。でも、山田さんが行きたいところへは、あんおなごん子がつないでくれたとです」
「おなごん子。女の子。わかばちゃんですか?」
「そう。わかばちゃんが、そこに<つなぎ>を持っちょっとです。他の世が見えるとか、神様が見えるとか言う人が、それぞれ違うことを言うのは、人によって、つなげられる場所が違うからです。誰が正しい、誰が間違いっちゅうことじゃなかです」
「私がわかばちゃんに出会えたのは、とても貴重なことだったんですね」
「はいー。そこまでに、由美子がおって、あたいがおって、ようやくつなげられたがです。由美子一人じゃつなげられんで、申し訳んなかことでした」
「いえいえ、とんでもない。だって、これは私の側の問題でもあるんですよね? たとえ先生が示してくださっても、私が道筋を見ようとしなかったら、どこかへ出発することさえ無かったんですし」
「そういうことですよ」
絹子は、よっこらしょと立ち上がった。
「さあ、説明は終わりました。行ってきやんせ」
「え、どうやって?」
司は、いつもの落ち着きが嘘のように、慌てふためいた。
「大丈夫。こんハザマは、わかばちゃんの目ん玉の中にあっとです。あたいは、こっから先へは行かれませんから。それじゃあ」
「あっ、絹子さん、まだ」
司には、絹子はほんのわずか後ずさっただけと見えた。なのに、すっと壁のような部分に包まれるようにして姿が消えた。
司は、彼女の消えた方へと伸ばした両腕を、だらんと体の脇に垂らした。
それが合図だったかのように、周辺の白い色が薄らぎ始めた。
というよりも、色が付き始めたのだろうか。
移動した感じはまったく無いままに、司は木立の中に立っていた。
日頃山歩きをしない彼女にとって、木々の密集した場所というのは、どことなく不安を抱かされるものなのだろう。本能からか、はっと身構えたものの、どこから見ても腰が引けている。
ここは、どこ?
その疑問を意識した瞬間、肌にまとわりつく湿度と温度、土と植物の匂い、鳥の鳴き声などが一斉に司を包み込んだ。
驚いてぐらりと体が揺れたとき、司の目の前には一羽のカラスがいた。
木の枝ではなく、地面に立っている。
カラスは、ぴょんぴょんと地面を跳ねた。
少し跳ねては、ついて来ているか確かめるように、横顔を向ける。
立ちすくんでいた司は、誘い込まれるように歩き始めていた。
けもの道ですらない木々の間を、カラスの導くままに歩く。緩やかな登りだが、山を登るというほどでもない。石が少なく草の丈もそれほど高くないおかげで、さほど歩きにくくもなかった。
「ねえ、話せるんでしょう?」
しばらく歩いた後、司はカラスに向けて言葉を発した。
立ち止まったカラスは、片方の目でじっと彼女を見つめている。
歩みを止めなかった彼女とカラスの距離が、ぐっと縮まった。
「ここはどこか、教えてくれないかな?」
《それは無理です》
返答はカラスからではなかった。
周囲の空気中の水分、目に見えない一粒一粒がスピーカーになって響いたような。
涙を誘うようなヒューマンドキュメンタリーのナレーションのような声。
《おもしろいことを考えますね》
声は笑いを含んでいた。
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