第36話 巻き直す

「痛たたた…」

 ぶつけたところをさすりながら、司は恥ずかしさで真っ赤になっている。

「なんでまた、そんなに勢いよく立とうとしたかね」

 半笑いの有村は、そこだけ切り取ると、相当性格の悪い人物に見えた。

 司は、うっすらとうるんだ目を伏せた。

「俺がさするとセクハラになるし、痛いの痛いの飛んで行けーって言うしかないもんなあ」

 緑川は、自分も痛みを感じているかのように顔をゆがめている。

「ミドリ、お前やっぱり良い奴だな」

 半分揶揄するように言う有村から、ほんの少しだが、陸斗は座っている尻を遠ざけた。


「あの、山田さん。何か気になる言葉があったんですよね?」

 席を変えずに体だけを動かすという無駄にも見える努力をしていた陸斗は、動きを止めてから切り出した。

「え、うん」

「僕、酔ってませんから。言ってみて」

「いえ、でも」

「今更ですよ?」

「そうですね。あの、混乱の毛糸玉っていう…」

「おーう? リクが教えてくれたやつだな?」

「そうで…あっ!」

 有村に答えかけた陸斗が、はたと気付いた。

「それ、ナオが使ってたから、かっこいいなって思ったんだ。もしかして、山田さんがナオに教えた?」

「そうなのか? けっこう中二病的な表現だと思うがなあ?」

 陸斗と有村から続けざまに言われて、司は肩をすぼめた。

「けなすんなら、自分だって言わないでよ」

 代わりに由美子が有村に食ってかかった。

「俺は、永遠の中二でいいんだよ」

「六十面下げて、どの口が言ってるんだか」

「いや、あの、先生…」

 がっかりしたような困ったような表情で、緑川が由美子を力なく見た。

「おうおーう、若い信者を一人失いかけてるぞ」

「信者って何よ!」


「酔っ払いは、ほっといて」

 陸斗がそう言ってにやりとしたので、司は軽く目を見開いた。

「いや、そうでしょう。おばさんと師匠だけど、今はポンコツ」

 ぐっと詰まりそうになったが、司は黙っておくにとどめた。


「ともかく、さっきの続きをやりますか」

 自分は飲んでいなくても、酔っ払いの空気に当てられたのか、陸斗は引っ込み思案のベールを外し始めてるようだ。

「まず<おまえは、また来たのか>について。このおまえっていうのは、言ったまんまです。僕らが普通に使うのと、ちょっと感じが違うんです」

「どういうこと?」

 司は首をかしげた。

「鹿児島にきたばっかりのころ、婆ちゃんが仏壇で爺ちゃんに話しかけるとき、おまえ、おまえって言うのに違和感があって。普段は口うるさいのに、死んだ爺ちゃんに対して、ずいぶん雑だなっていうか」

「うーん、そうね」

「かなりたってから、やっと解ったんだけど、おまえっていうのは敬語なんです」

「…ああ、おんまえ、御前、そのままの意味ね。鹿児島ではそうなのね」

「何なに、そうってどう?」

 まだやり合っている有村と由美子に辟易したのか、緑川が口をはさんできた。

「古文で習いましたよね。誰それのおんまえにはべる、とか。ごぜん、おんまえ、文字通り偉い人の前という意味です。現代では敬意が失われましたけど、鹿児島では残っているということです」

「へええ」

「京の言葉は円状に地方に伝わったと言われていまして、遅く伝わった地方ほど、古い言葉が今も残っていると言われています。例えば、魚のことをウオとも言いますが、古くはイオとも言ったんですね。鹿児島では今でも、イオということがあるんじゃなかったかしら?」

「えっと、聞いたような聞かないような」

 陸斗は残念そうに言った。

「あ、ごめんなさい。じゃあ、あなたはまた来たんですか、っていうニュアンスだったということで」

「そうです。名乗りもしないで無礼なっていうのも、ほぼそのままだったはずで。無礼者って言うのは、婆ちゃんの好きな言葉っぽいです」

「ああ、そうなの」

「それから、<失くしたのは私が悪い>ですが」


「それよ」

 いきなり、由美子が鹿児島弁の発音で口をはさんできた。

「私が悪いっていうところだけど、わいが悪かど、って言ったんじゃない?」

「おいおい、それじゃあ意味が」

「お兄ちゃんは黙ってて。どう、リク?」

「そうかも。でも、ちゃんと覚えてない」

「あのね。お婆ちゃんが日頃使う言葉じゃないと思うけど、鹿児島弁でわいっていうのは、自分のことじゃないの。相手のことなの」

「ん? ヤンキーとかが自分をワイって言うのと逆なんですね」

「今のそれ、ジブンって言ったら相手のことっていうのもありますけど。私がワイで、あなたがジブン」

 言ってしまってから、司は「ややこしいこと言ってすみません」と慌てて付け加えた。

「まあまあ。ともかく鹿児島弁では、私がオイで、あなたがワイになるわけ。オイ、オマエって言うと、ちょっと妙な感じにもなるわねえ」


「えっと、じゃあ、失くしたのはあんたが悪いんだよって感じですか」

 緑川が難しい顔をして言った。

「そうだと思うけど」

「じゃあじゃあ、最初に、また来たんですかーと問いかけた相手と、何かを失くしたという相手は違う人物だということになりますよね」

「そういう感じね。じゃあ、リク。続きを」

「あ、はい。言われたようにした、何か文句があるのかは、そのまんまです。ですよね?」

 陸斗は由美子に確かめた。

「言われっままにしたど。何か文句どんあっどか、でしょ」

「うん。それから、返せのところもそのまま」

「返せ返せち、どげんしてあっちに伝えっとか。はい。それから、ヤゾロシカーね。うるさいって」

「解け、早く解けの後が、カエサンナラです」

「返さなくては、だわね。えーと」

 由美子は宙を見て言った。

「Aさんに対して、あなたは、また来たんですか。Bさんに対して、失くしたのはおまえが悪いんだぞ。それからおそらく、お母さん本人が、言われたとおりにしたんだぞ、何か文句があるのか。これはおそらくBさんに向けて言ったのね。AかBかが返せ返せって言ってきてるけど、これは、お母さんに誰かに向けて伝えさせたい言葉。そして、伝える方法はわからない。AとBがやいやい言うのに対して、うるさいと一喝。でも、返さなくてはならないものだと認識している、こういうところね」

「それ以上のことが見えてるんじゃないのか? 聞こえてたり? そのAとBの姿は見えないのかよ?」

 たたみかけるように言う有村に向けて、由美子はしっしっと追い払うようなしぐさをみせた。

「あのねえ。何もかもが、映画みたいに見えるわけじゃないのよ? 連続性や一貫性だって、求められても困るの。無いんだから。そもそも、自分が見聞きしてるものが何なのかだって、あいまいなものなのに」

「なんだ、使えねえ」

「だから、ばんばん使っちゃいないでしょうが!」


「またかよ」

 有村と由美子のやり取りに、陸斗が黒い半笑いを漏らした。

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