第33話 母と子の夢
「お母さんの<夢>のこと、いつから知っているの?」
「子どものころからだ」
何なにと服を引っ張る緑川を黙って制して、司は由美子と有村を注視した。
「自分以外、誰も知らないと思っていたか?」
「さすがに、それはないわよ。お父さんが知らなかったはずないだろうとは」
「おじさんは、本当に知らなかったかもしれないぞ。武志が知らないのは、まず間違いない。確かめたことがある。もちろん、遠回しにな」
「じゃあ、他に誰が」
「姑さん。お前の親父さんの母親な。昼の日中にうとうとして、どんなに叱られるかと思ったら、気味が悪いほど優しくされたって言ってた。何か、都合のいいことでも聞いたんだろうな。あ、それと実の母親は知ってただろうと思うぞ」
「そんな…」
「あれだろ、そういう能力は、女系に遺伝するんだろ?」
「なによ、それ!」
由美子は、きっと有村をにらみつけた。
「由美ちゃんの能力は、おばちゃん譲りだってことさ」
がたっと音をたてて立ち上がった由美子の顔面は、ついさっきまでと違って真っ赤だった。
「まあまあ、落ち着けよ。子どものころのこと、忘れてしまったのか」
「子どものころの、何ですって?!」
「俺のそばに、真紀姉がいるって、教えてくれたろ?」
「えっ?!」
「おいおい、まさか本当に忘れたのか?」
勢いで立ち上がっていた由美子は、へなへなと崩れるように座った。
「あの、まきねえって、どなたですか?」
司がそっと訊ねる。
「俺の、二番目の姉ちゃん。俺が生まれる前に、死んでるんだ。つまり…」
「先生も、会ったことがない?」
「そういうこと」
有村は茶化したりせず、静かな微笑みを浮かべていた。
「俺が小学校の低学年だったころだ。由美ちゃんは幼稚園に上がる前だったな。俺のそばに、優しそうなお姉ちゃんがいつもいると言うんだ。真紀姉は、四歳で死んでいる。お姉ちゃんのはずがない。だけど、どうも中学生か高校生くらいの姿に見えたようだ。由美ちゃんは、真紀姉と、何回か話したことがあると言ってた。しなくてはいけないことは、もう終わってる。だけど、俺に何か良くないことが起こりそうだ。だから、それが無事に通り過ぎてしまうまで、そばにいる。そんなようなことを、小さな子どもの言葉で一所懸命教えてくれた」
「覚えていない。本当に覚えていないのよ」
由美子は、そのことが本当に衝撃であるように力なく言った。
「うん。きっと、忘れようとしたんだな。自分で。努力して」
有村は、そのことを認めるように大きくうなずいた。
「真紀姉のことは、我が家では禁句だった。仏壇に位牌はあったし、毎朝拝んでた。でも、写真は飾られてなかった。四歳なんて、かわいい盛りだ。見るのが辛かったんだろう。俺は家族に話すことができなかった。だから、おばちゃんに話したんだ」
全員が息を飲み、由美子はまた蒼白になって両手を握りしめた。
「おばちゃんは、うんうんってうなずきながら、真剣に俺の話を聞いてくれたよ。自分の記憶だが、何度も思い返して上書きをしてるから、実際どんな感じで話したかは定かじゃない。ただ、真紀姉がいる、由美ちゃんが教えてくれた、良くないことが起きそうだってことは伝えられたはずなんだ」
言葉を切った有村に向けて、由美子を除いた全員が前のめりになった。
「おばちゃんは、由美ちゃんが夢を見たんだと言った」
由美子は、ぎゅっとこぶしを握りしめて唇をかんだ。
「俺の日頃の行いが雑だったり、人の話をちゃんと聞かなかったりして、大きな事件事故につながりそうだっていう気配があるんだろうって。小さな子どもの中には、そういう気配を感じる子がいるから、心配のあまり夢を見たんだんだろうって、由美ちゃんが。飼ってる犬や猫が、やたら寄ってきてなめたりするのと同じだって言ってたな」
「犬猫扱い」
由美子がぼそっとつぶやいたが、誰も何も言わない。
「真紀姉だという人が成長した姿なのは、<お姉さんと>いう言葉に引きずられたせいだとも言われた。由美ちゃんが<お姉さん>という言葉に持つイメージな。実際に生きている上の姉、多佳姉の姿と重ね合わせたんだろうって」
「なるほど」
自然に相づちをうった緑川の腕を、司が思わずといったように叩いてしまった。
「あっ、すみません」
「いや、悪かった。先生にも、申し訳ありません。信じないわけじゃないんです」
大慌てで頭を下げる彼に、由美子はやや諦めたように笑いかけた。
「いいのよ。説得力のある説だと思うわ」
「まあ、長じてみれば、説得力があるようにも思うけどね」
有村は首を横に振りながら続ける。
「当時の俺は、何と思ったんだろうな。さっきも言ったが、記憶の上塗りをしすぎて、よくわからなくなってるんだ。ただ、子ども的にストレートに言えば、<真紀姉の幽霊>が自分のそばにいるってことが、怖くなかったのは確かなんだ。自分でも見てみたいって思ったかな? 話そうとしたのかな? そういうことを思い出せないのは、かえって不思議なんだがなあ」
首をひねる彼と共に、なぜだか全員考え込む顔つきになった。
「それで、良くないことっていうのは起こらなかったんですか?」
司が控えめに声をかけると、有村は笑って両手を上げた。
「起こりかけて、無事に終結したんだろうかな。あのころ、近所にはまだ防空壕跡があってなあ。山に掘った横穴の一つが、資材置き場みたいな感じで使われてたんだよ。もちろん、そこに入っちゃいけないって言われてたのに、入ってしまったわけだよ、俺が。で、お約束のように、穴が崩れた。でも、無事に助け出された。そういうことがあったんだ」
「そうだったかしら」
「由美ちゃんは、小さかったから覚えてないんだろ」
「うちの兄ちゃんは?」
「武志もいなかった。うん。学年が違うから、そういう日もあったさ。でもまあ、現場に一番に来てくれたのは、おばちゃんだったんだけどな」
「え?」
由美子だけではなく、全員がよくわからないという顔をした。
「偶然近くを通りがかって、何かが崩れるような音を聞いたって。俺も、それ以上は聞かされていないはずだ。ただ、お袋や親父、近所の大人にはがんがん叱られたことを覚えてるのに、おばちゃんには一切叱られていないっていう気がしてな」
「そういう気がしてる?」
「うん」
「あの、他にも先生やお母様に関して、不思議な記憶というか、そういうものはおありですか?」
司が訊ねると、有村は困ったように首を横に振った。
「たくさんある気もするのに、思い出そうとすると出てこない。どこまでが本当にあったことで、どこからが自分の創作なのか、混乱するんだ。だから、次にはっきりしてるのは、おばちゃんから<夢の帳面>を見せられたことなんだ。由美ちゃんは、見たことがないんだな?」
「ない」
由美子はきっぱりと言い放った。
「そうか。最初は、武志の使いかけのノートだった。学年が変わって、白いページが残っているのに使わなくなったノート。おばちゃんは、それを使ってた。便せんやはがきを入れた文箱っていうのか、もみじ模様の赤い箱から出して、見せてくれた」
「その箱なら、知ってる」
由美子は顎に手を当ててつぶやいた。
「うん。その日は、なんでそういう話になったのかな? 遊びに来たら武志が留守だったのかな? ともかく、おばちゃんは笑いながらそれを見せてくれた。日付もなにもない、ただの走り書き。妙な夢を見たら、覚えていることを書き付けているんだって言ってた。本を読む趣味もないから、そのかわりに、たまに自分でそのノートをぱらぱらめくってみるんだって。俺が知らない漢字もあったし、まあ実際、読めないような字もあったけど、ガキの自由帳をのぞき見するみたいな感じで、なんだか惹きつけられたんだよ」
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