第17話 わかば

 

 その日の帰り、司は<あおぞらクリニック>に駆け込んだ。

 終了時間ぎりぎりだったのだが、顔なじみの受付は大丈夫というようにうなずいてくれた。入口には黒のハイヒールと子どもの小さな赤い靴、二足だけが残されている。

 スリッパに履き替えて診察券を出した司が、待合室の長椅子に座ると同時に、診察室から体操服姿の小さな女の子が出てきた。三歳くらいに見える。首やひじの内側などが赤黒く変色し、がさがさになっているのはアトピーだろうか。耳鼻科よりもアレルギー科で通っているクリニックなので、そういう患者も多いのだ。

 女の子は、真っ直ぐに司のところにやって来た。


「かゆいの?」

 つぶらな瞳が司を見上げる。

「ううん、違うの。お耳の病気なの」

「おみみ? わかちゃん、ちゅうじぇん、したの。いたかったの」

「中耳炎。もう治ったのかな?」

「うん。いまは、かゆいかゆいの」

「かゆいの、辛いね」

「うん。でも、かいちゃだめなの。わかちゃん、いつもがまんなの」

 自分をわかちゃんと呼ぶその子は、えっへんと胸を張った。

「そう。偉いね」

「おねえちゃんも、えらい。そのこ、たすけるんでしょ?」

「え?」

 司は、自分に向けて突き出された小さな指先を見つめた。

「どの子?」

「そのこ。おなまえ、しらない」

「ねえ、わかちゃん。この子が見えるの?」

「みえるよっ」

 わかちゃんは、ぷうっと膨れた。

「どんなふうに見える?」

「どんな? ちっちゃいこ。しっぽ、ながい」

「え?」

 司は、掛け値なしに面食らった。

 口を半開きにしたままで言うべきことを探していると、診察室から出てきた女性と目が合った。

「すみません、すみませんっ」

 黒のスーツ姿でアクセサリーをいくつも着け、念入りな化粧をしたその女性は、慌てて寄って来ると司に頭を下げた。

「この子、変なこと言ったんでしょう。すみません。気にしないでください」

「いいえ、あの」

「まだ小さいんで。よくわかってないんです。すみません」

 子どもを胸元に抱え込んで、彼女は何度も謝った。

「わかちゃん、ちゃんとおはなししたよっ」

「わかばっ! およその人に、いきなりお話しちゃだめって言ったでしょ!」

「いえ、お母さん、わかちゃんは悪くないです。叱らないであげてください」

「お気遣いすみません、でも」

 司が母親をなだめようとしていると、いくぶん気の毒そうに受付が「山田さーん、どうぞ」と呼んだ。

「大丈夫ですから。なんでもなかったですから」

 そう言いながら振り返り振り返りして、司は診察室に入った。



 五十がらみの医師は「はい、今日はどんな具合ですか」とおっとり問うた。

 つややかな広い額に、反射鏡がやけに似合う。この頃は反射鏡をつけた医師をめったに見ないが、彼は愛用しているのだ。

「このところ、耳鳴りも頻度が増してるんですが、今日は、両耳が詰まってしまって」

「おや、それは辛かったですねえ」

 千石二男坊は、いつも本当に辛そうな表情で相槌を打つところから入る。それから診察だ。

「なるほど。じゃあ、耳通しをやってみましょうか」

 この日は、鼻から管を入れて空気を送ることになった。従来の耳鳴りについてはいつも通り、これといった治療は行われない。

「夜勤もあるんなら、疲れでしょうね。もう少し、今の漢方薬を続けてみましょうか」

 そう言われて診察室を出た。他には誰もいないので、精算も早い。名前を呼ばれた司は、支払いを済ませた後も、しばらくぐずぐずしていた。


「気にしないことですよ」


 受付の女性は、慣れているのだろう、司が何を聞きたがっているのか心得顔だった。

「わかばちゃんでしょう? 何か言われてましたよね?」

 司は、黙って小さくうなずいた。

「年の割に言葉が早いから、周囲もつい、解ってしゃべっていると勘違いするんでしょう。ついつい、深読みしてしまうんですね。お母さんも、すっと流せばいいのに。否定もいけないの。意固地になるから」

 彼女は、過剰なほどににっこりした。

「特に、あなたのような症状の方には、ストレスは大敵ですから。小さな子の言うことなんか、気にしないことです」

「はい、そうですね」

「あの子、絵本がとても好きみたいだから、空想の世界に遊んでいるんじゃないかしら。小さな子には珍しくないことですよ」

「ええ、そうですね」

 司の静かな笑顔は、ときに人を饒舌にする。もう、表を閉める時間も過ぎているのに、受付の女性は子育てについて話し続けた。

「あれ、立花さん。まだ山田さんを解放してあげてないの」

 受付の後ろからひょっこり顔を出した千石医師が、呆れたように声をかけたのは、しばらくたってからだった。

「え? あら、ごめんなさい」

 時計を見上げた立花は、真っ赤になって慌てた。

「山田さん、悪かったですね。立花は、楽しかったんだと思いますよ。あなたと話をするのが」

 しきりに謝っている立花の横で、千石医師はそんなことを言った。

「私の方こそつい、ご厚意に甘えてしまって。では、ありがとうございました」

「「お大事に」」

 二人が合わせた声に送られて、司はクリニックを出た。


 この間に、緑川からLINEの着信があったことに司が気付いたのは、帰宅して夕食も済ませた後だった。



 最初に言っていた通り、緑川からの連絡はめったにない。司の方からも、連絡すべきことも思いつかないので、返信しかしたことがない。


『クリパレの動画は見つかった?』

『見ました』

『聞こえた原因と関係は?』

『不明です』

『わかったら教えて。気になる』

『了解です』


 トーク履歴の最初には、そう残されている。

 そして今日。


『白男川先生から、連絡が来たんだけど』


 喜びそうなことなのに、なぜか困り顔のスタンプがでかでかと表示されている。

 彼が白男川と連絡先の交換をしているのは、司にも予想できた。


『店だと話しにくいし、早い方がいい。電話してもいいかな?』


 司は、思わず天を仰いだ。

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