第12話 クリスタル・パレス


 すぐに運ばれてきた冷酒に口をつけてから、緑川はふーっと息を吐いた。


「今更だけど、山田さん。何の話してた?」

「え、レインボークリスタルでしょう?それから、クリスタルパレスも」

「レインボークリスタルは、どういうもの?」

 問われたことに戸惑うように、司は目を見開いた。

「え? 虹入り水晶ですよね? ああ、パワーストーンとしての意味合いですか? なら希望と調和だったと思いますけど」

「パワーストーンねえ…」

 残念そうに笑う緑川を見て、司はしばらく首をひねっていた。

「俺は、ずっとゲームの話してるつもりだったんだけどな。<クリスタル・パレスⅥ>、最終ダンジョンに潜るために集める、レインボークリスタルの話を」


 左手でグラス、右手でストローを持って話をしていた司は、真面目な顔のまま固まった。そういうことさと苦笑いの緑川と目を見交わしても、理解が追いついていないようだ。

 しばらくしてから、ようやく「ええーっ」と驚きの声が出た。


「遅いよ」

 緑川は、ちょっと残念なものを見る目つきになった。


「ごめんなさい。私、世間に疎くて」

「いやまあ、ゲームだから。知らなくても恥ずかしくないから。それに、俺だって、レインボークリスタルってものが現実に存在しているのを知らなかった。ああ、クリスタルパレスもだ」

「いえ、そちらは現存してません。万博後に再建されたものの、火事で全焼しています」

 そこは間髪入れずに説明してしまう、司だった。

「あっ、そう。ロンドン万博っていつ?」

「年号まで覚えてないですけど、千八百年代です」

「そうか。俺が世界を救っても、ただの自己満足だけど、山田さんの知識は役に立つな」

 緑川は、皮肉ではなく感心したように言ったが、司は何やら考え込んで、後半を聞いていなかったらしい。

「もしかして、世界を救うって、ゲームの中の話ですか?」

 不安げに問いかける声が、少しだけ震えていた。

「もちろん」

 緑川は、両手を広げた。

「世界は何度も滅亡の危機に晒されて、勇者は何度でも世界を救う。定番のギャグのつもりだったんだが」


「すみません。ずれまくってて」

 司は、肩を落としてしょんぼりとつぶやいた。

「いやいや。それにしても、じゃあ俺のことどういう目で見てた?」

 緑川は、思わずというように身を乗り出した。

「いえ、その、国境なき医師団とか、青年海外協力隊とか、そういう」

 尻すぼみに小声になる司に向けて、彼は小さく万歳をした。

「へえ、ずいぶんご立派だ。参ったなあ」

 わざとらしく頭を掻いて、彼は照れのポーズを作った。

「そういう志の方も立派ですが、人はそれだけではないですし」

「いや、いいよ、俺は。ご立派でなくていいの。そもそも危ない奴だって思われるほうが多いんだし、怖がらないで一緒に飲んでくれてるだけで、いいや」

「あ」

 司は緑川の方を向いたまま、激しくまばたきをした。彼は、ははっと軽く笑った。

「そういえば怖かったはずなのに、いつの間にか怖くなくなってるわーって? 心の声がだだ漏れだぞ」

「す、すみません」

「合ってるんかい」

 司があまりにも素早く謝ったので、彼はがくっとしてみせた。

「あ、あの。私も、表情が乏しくて、何を考えているのかわかりにくいと言われまして」

「でも、もう馴染んでるだろ? みんな普通に接してくれるだろ?」

「はい」

「あれだな。時任が出張ったんだな。あいつは正義感を引っ込めとくってことができないから」

「表裏のない、優しい人です」

 司としてはきっとした口調で言うと、緑川はなだめるようにてのひらを見せた。

「わかってるって。ただ、俺には、やたらからんでくるからな、あいつ」

「それは、その、彼女の女らしい…」


 司が勢いで続けようとしたところへ「はい、おまちどおー!」と香ばしい香りを漂わせる皿が差し出された。


「おっ、きたきた」

 もみ手をしながら、緑川が声を上げた。

「わあ、美味しそう」

 司は目を閉じて、うっとりと香りを吸い込んだ。焦げた醤油と鰹節の香り。目を開ければ、ふっくらと厚みのある丸に近い三角形のおむすびが二つ、角皿に鎮座していた。添えられているのは色の薄い自家製の柴漬け。

「ほら、熱いうちに」

 甘味をほんの少し加えただし醤油は、深いところまで染みこむと見せて、中の白い飯を守るかのごとくに。表面の焼けたところはかりっと、中は口中に入ればほろほろと崩れる握り具合。

 二人はしばらく黙って、ただ、はふはふと口を動かした。


 ゆっくり味わって食べ終わり、添えて出された熱いほうじ茶を一口すすった司は、はあっと息をついた。

「ごちそうさまでした。おいしかった」

 手を合わせると、自然と頭が下がった。

「本当においしいおむすびでした。なんていうか、おむすびには霊力が込められているっていう話を、思い出しました」

「そうか。さすが、神様が宿る米文化だ。そういう話もあるんだな」

 まだ飲んでいた冷酒のグラスを掲げて、緑川は言った。

「おむすびっていう名前がいいですね。結ぶという言葉の深みを感じます」

「結ぶ、か。縁を結ぶとか、うん。<結び目を解いて中に入れ>か」

「えっ?」

「いやあ、これもクリパレの、って、おい。山田さん?」


 笑顔で続けようとした緑川は、司の驚愕の表情に慌てた。ほんのりと染まっていた頬の色さえ、突然失われたかのように白い。

「どうした? また耳鳴り?」

 司はゆっくりと首を横に振った。

「…緑川さんは、私の心の声が、聞こえるんですか?」

「えっ? いや、心の声って、あ、さっきのか。冗談に決まってるだろ?」

「だって、だったら、結び目をって、なんで…」

「ん? <結び目を解いて中に入れ>ってやつ? クリパレⅥのキーワードというか、出てくる言葉だけど。それがどうしたんだ?」

「クリパレ? キーワード?」

「おい、本当に、どうした?」

 急に両手で顔を覆った司を見た緑川は、気分が悪くなったのだと思ったらしい。慌てて背中をさすろうと手を当てた。

「…その言葉、なんです」

「なんだって?」

「聞こえるの。ひどい、耳鳴りがすると」

 司の背に当てた手を動かすのも忘れたまま、緑川はぼう然としていた。



「えーと、その、耳鳴りというのは、そもそもどういったものなのかな? キーンと金属音なのか、ブーンと振動音なのか。俺の耳鳴りのイメージは、そのどっちかなんだけど、そういうのとはまったく違うもの?」

 なんとか立ち直った緑川が問い、司はうなずいた。

「一番近いのは、セミです」

「セミって、夏に鳴くセミ? あの、うるさい虫のセミ?」

「そうです」

「それは…相当辛いな」

「おかげで、症状の説明はしやすいんですけど。軽いときはハルゼミで、ひどくなったらアブラゼミとか」


 緑川が言葉に詰まっていると、司は続けた。

「でも、考えてみたらかわいそうですね。懸命の繁殖活動を、無関係の人間にうるさいもの呼ばわりされて」

「え、セミのこと? そりゃまあ、そうだけれども。ともかく、その耳の中にセミが棲んでるわけじゃないだろ」

「あ、心配してくださっているのに、すみません」

「いや、そういうのはいいんだ」

 頭を下げる司を慌てて制して、緑川は話を進めようとした。

「で、セミの声に混じって、その言葉が聞こえたってこと?」

「混じってというと、ちょっと違うんです。耳鳴りがひどいとき、何かをちゃんと聞こうとする、その状態に近くて」

「ああ、なんかわかる気がする」

 司の背中に手を当てたままだったことにようやく気づき、慌てて離した緑川は、もぞもぞと腕を組んだ。

「えーと、それでその言葉なんだけど。そういう言葉として聞き取ったのは、うーん、聞き取ったでいいのかな、今日が初めてじゃない、と?」

「はい。ここ一か月くらいに、聞こえ始めて。数回、です」

「最初の状況は覚えてる? その後のことでもいいけど。家にいてテレビが点いてたとか、人混みにいたとか」

「最初は帰宅途中でした。近くの家から、話し声かテレビの音が聞こえたのかと思ったので、覚えています」

「うん」

「二回目は、確かスーパーで買い物をしているときで。そのときに、おかしいなと思ったんです。声の出どころが、近くにあるとは思えなかったから」

「声の感じは同じ? 同じ人の声?」

「たぶん。でも、男の人か、女の人か、後から考えてもよくわからないんです。言葉は聞き取って覚えているのに、声が思い出せないというか」

「うーん。同じ感じがするなら、通りすがりの誰かの声じゃないな。ゲームそのものの音声を、何かで聞いたか。でも、さっきのは違う。耳鳴りだって言ったとき、俺はここにいた。そして、そんな声は聞いていない。間違いない」

「だから、私の心の声が、聞こえたのかと思ったんです。聞こえたものをなぞった私の心の声が、漏れ出したのかと思って」

「うん、なるほど」

 緑川は、眉間にしわを寄せた。

「ともかく、山田さんがクリパレというゲームを知らなかったのは、間違いないね?」

「はい。うーん」

「どうした?」

 司が妙にうなったものだから、緑川は心配そうに眉を寄せた。

「いえ、あの、最近急に、いろんな人が私に、ゲームの話をするなあと思って」

「そうなの? 例えば、どんな?」

「昨夜の泊まりの男の子が、ファブニルで…あっ!」

 司は、ぱちんと自分の口を押えた。

「何?」

「私ったら、お客様の個人情報を。お酒の上とはいえ、なんてことを」

 そこからは、頑として話さない司だった。

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