心臓代名詞神像

伏潮朱遺

第1話 レモン語句落字

     0


 祖父が死んだ。父親の父親だ。

 さほど交流がなかったので悲しくもなかったし況してや嬉しくもなかった。

 父親の父親だからというただそれだけの理由で参列した。社長だってそうだ。配偶者の父親だからというただそれだけの理由で参列せざるを得なかった。

 だから俺も社長も黙ってた。式の間たぶん一言も口をきかなかった。その雰囲気を感じ取って、父親も何も言わなかった。その代わりなのかなんなのかわからないが、祖母はずっと喋ってた。

 祖母は、祖父との間に子がない。父親が生まれたあとの再婚相手なのでここにいる誰とも関係がない。唯一関係のある夫が死んでしまったので、失われたつながりを失うまいと或いは、再構築しようと躍起になっていたとは考え難い。祖母、というには若すぎるので名前で呼ぶことにする。

 浅樋アサヒうすほ。

 父親は婿に入ったので浅樋姓を捨てたはずだか、社長の希望なのか夫婦別姓を掲げてるのか、俺と同じ姓を名乗ってはいない。一人息子なので、自分が婿に入ると浅樋姓が途絶えてしまう。それを危惧したとも思えない。

 社長と父親は別居している。そもそも同じ屋根の下で暮らしたことがあったかどうかも疑わしい。そこまで仲が悪いのなら何故結婚したのか。俺のせいとは思えない。邪魔なら堕ろせばよかったのだ。社長にはそのくらいのことが平気でできたはず。

 俺は生まれるべきでなかった。それだけははっきりしている。

 だからこの場にいることも不適切なのだ。

 どの場にいても不適切。不適切でない場所を探すにもその気がない。

 一人息子なので行く行くは会社を継がなければならない。少なくとも祖父、つまり社長の父親はそのつもりだ。社長はどう思っているか知らない。継がせることに積極的に反対してはいない。それだけかもしれない。

 骨を埋めてきたあとにどうして寿司なんか食べなければならないのか。

 こっそり持って帰ってツネにくれてやろうか。そんなものよりカネを寄越せと言われるのが落ちだ。

 思い出したら声が聴きたくなった。でも絶対出てくれない。万年着信拒否。用があるなら直接言え。そうゆうことだったら幾分か救われるのだが。

 何をしてるだろう。読書か。

「ふざけないで」社長の声だ。

 喜怒哀楽でいったら確実に怒。誰かと言い争いをしているらしい。相手は容易に想像がつく。

 父親は無視の対象なので。

「何言ってんのよ」

 相手の声が小さいのでいざこざの内容がわからない。わかりそうなものだが。

 いつものアレだ。

 顔なんか合わせるから。

「何を言ったの?」怒からほかに移りつつある。喜でも哀でも楽でもない。「何を言ったかってゆってるの」

「わたくしが殺しましたのよ」

 トイレに行く途中で鉢合わせたのだろう。もしくは向こうが待ち伏せていたか。そちらのほうが可能性が高い。話があるのはいつも向こうなのだ。

 曲がり角からのぞく。社長の後ろなのでおそらくは気づかれない。

 眼が合った。

 そうか、俺に聞かせる意図もあって。あくまで俺がその場にいないという想定で。そうすれば社長の素の部分も露呈する。

 まんまと誘き出された。浅樋うすほに。

 しかし、いまさら立ち去るには聞き捨てならない。

「わたくしが殺しました」内容に相応しくない満面の笑顔だった。いつものすまし顔。むしろ清々しい。一仕事終えたあとのすっきりとした。いいや、そのような意味ではないのだが。「何度でも言えますわよ。わたくしが殺したの」

 殺した、の主語が浅樋うすほで、

 殺した、の目的語が。

 言うまでもない。本日つい今しがた墓の下に入った人物。

「わたくしが、浅樋ゆふすだを殺しましたのよ」

 障子の向こうは無人。苔むした庭に面した廊下なので聞かれている心配はないが。社長の怒鳴り声でまんまと誘き出された俺の例もあることだし。

 殺した?

 なぜ。というより、どうやって、のほうが知りたかった。ツネが殺人の話なんか愛読しているせいかもしれない。

 何故か。理由は自明。

 岐蘇もとえに愛を示すため。

「それが本当ならどうして捕まらないのかしら?」社長は明らかに動揺していた。動揺を隠そうとするから余計に動揺が伝わってしまっている。

 動揺?

 何に?

 大して付き合いもなかった配偶者の父親の死に?

 旦那を殺したことを事もなげに言い放つ浅樋うすほの笑顔に?

「もとえさんが困るでしょう? だから捕まらないようにしましたの。褒めてくださらない?」

「冗談じゃないわ。殺した? 本当ならあなた」

 果たして本当に殺したのだろうか。冗談にしてはやりすぎだ。第一、浅樋うすほに冗談は馴染まない。愛を示すにしても他の方法が幾らでも。

 愛を示す?

 唯一絶対の方法だとしたら。

「どうか安心してくださいな。もとえさんが困るようなことは一切起こりませんもの。起こしませんわ、わたくしが、絶対に」

 それはあたかも予言のようだった。





 第1章 レモン語句落字ゴクラクジ



      1


「そらお前、旦那殺すんは奥さんの専売特許ゆうか。せやろ? 日頃の鬱憤ゆうか積もり積もった怨念がどかーん爆発しはってちょうど手元におうた花瓶やら灰皿で」ツネはそこで片手を振り下ろす。傍らにいた巨兵の頭の上で。「はい、死んだ」

 全身黒尽くめ。髪も眼も。腹の色までは見えないが。巨兵は空気を読んでその場に倒れる。なかなかの学芸会だった。

「おおきにな、ケイちゃん。起きてええよ」ツネが言う。

「で、それが?」

「そもそもお前が生々しいこと持ち出すさかいに」

 確かにここだけの悩み相談の体は装わなかったが、軽い世間話のつもりもなかった。茶化されたくなかったら最初から二人っきりのときにすればよかったのだが、二人っきりのチャンスは滅多に訪れない。二人っきりになるや否やツネは帰宅してしまう。

 避けられている? どうして?

 嫌われてはいない。そう思い込みたい。

「終わり? ええか」ツネは読み途中の小説に戻りたいみたいだった。眼の前で文庫本をちらつかせる。

 これ以上話しても更なる学芸会が催されるだけだろうから。「ああ、悪かったな。邪魔して」

 珍しくシロウが口を挟んでこない。聞こえているのかいないのか、ただ黙って手を動かす。仕事はそうあるべきだし忙しいのは経営的に喜ばしいことなのだが、昨日のあれも出席しなかった。それも珍しい。

 シロウは俺が生まれる前からこの家にいる。俺の家とは家族同然だし、俺とは兄弟同然に育っている。しかしシロウ本人はそうは思っていない。家に仕えている。育ててもらった恩もあるだろうからそう思っても仕方ないので、どうこう言うつもりもない。仕えたいなら仕えればいい。俺に、だろうが俺の家に、だろうが。

 そんなシロウだから、俺の家の行事は何があっても参加するし、強制も意志も介在しない。俺が出席する。それだけの理由で出席する。俺に不自由がないように付き添わなければならない。そう思っている。

 それなのに、昨日は来なかった。

 当然来るものだと思って訊きもしなかった。祖父が死んだことを知らないわけがないから、人が死ねば何をしなければならないのか想像がつかないわけもない。日付と時間は伝えてあった。それが当日の朝になって電話がかかってきた。

 体調でも悪いのかと思ってその場は簡単に切り上げたが、よくよく考えたら異常事態だった。あり得ないなどというものではない。それに体調が優れないならその旨を伝えるはずだ。行くことが出来ない已むに已まれぬ事情を事細かに説明するはず。

 それも何もなかった。ただ単に、行けない、とだけ。

 心配になってあれが終わったあと電話してみたが、別段代わった様子もなくただ参加できなかったことを詫びるだけ。今日だっていつもと代わらぬ様子で出勤している。顔色も口調も態度もなにひとつ異変はない。昨日の不参加がなかったことのように。

 シロウがコーヒーを淹れるというので付いていった。ツネのいる位置からちょうど死角になる。衝立もあるし、水の音で声が聞こえにくくなるはず。

「座っていてください。僕が」シロウが言う。

「昨日の件だが」

「あ、はい。申し訳ありませんでした。ご心配をお掛けして。社長にも」

「それはどうでもいい。どうした?何か思うところがあるなら」

 ツネの独り言が聞こえる。

 小説の展開に対して文句を言っている。巨兵も巨兵だ。いちいち拾うな。独り言なんだそれは。

「随分馴染んできましたね」シロウが言っているのは、ツネのことだろう。

 ぽっと出の参入の巨兵とは思いたくなかった。

 シロウが衝立の先に視線を遣る。「本当に彼のおかげで。若も」俺のことだ。シロウは頼まれもしないのに俺をそう呼ぶ。時代劇の見すぎだ。「随分優しい顔になられて」

 巨兵はツネが連れてきた。俺は一切関わっていない。

 だからいちいち独り言を拾って相槌を打つな。

 邪魔なんだ。毎日毎日呼ばれもしないのに。

「それもどうでもいい。話が逸れてる」

 逸らしているのだ意図的に。

 昨日のあれを追及されたくないから。

「何か不満があるのか」自分で言ってて嫌なセリフだった。言えるものなら言ってみろ言えないだろ。と、暗に言っているみたいで。

「いいえ、そうゆうわけでは」シロウが言う。

 そうではないのだ。そうではないことくらいわかっている。

 わかっているから、わからない部分を補ってほしい。

「来たくなかったんだろ?」

 愛想が尽きて。

「嫌になったか」

 俺に付き従う振りをし続けるのが。

「何とか言ってみろ」

「マサは」シロウはそう呟いて、ケトルが笛を吹いたので慌てて火を止める。

 シロウは俺を見ない。

「マサは、何か」

「いいや、口もきいてない」

「そうですか」

「話があるなら直接言ってみろ」

 俺にじゃなくて。

 話がある相手に。

 シロウはまさむらに気を遣って出席しなかった。

「本当にすみませんでした。以後このようなことがないように」

 以後はなかった。

 次の日、シロウは出勤しなかった。無断欠勤。

 待てども待てども連絡が来ない。こちらからしても電源が入っていないか電波の届かない云々。

 業務に差し障りがあるので、本社から。呼ぼうにも呼ぶには社長に頭を下げなければならない。その前にシロウが行方不明だということを伝えなければならない。

 そんなことはできない。

 臨時休業にするわけにいかない。社長に異状が知られる。

 社長が困るようなことは何も起こっていない。起こさせない。俺の次期社長の椅子が揺らいでしまう。そんなことはあってはならない。

 なんとしてもどんな犠牲を払っても社長にならなければならない。

 ならなければ、俺に生きている意味はない。

「なあ、社長サン」

 ツネはふざけて俺のことをそう呼ぶが、それは確実な未来予想であって、獲らぬ狸のなんたらで終わらせてはならない。

 それを思い知らせている。呼ぶたびに、繰り返し繰り返し刷り込み刷り込んで。

 俺は、

「社長さーん」

「出てけ」

 顔も見たくない。


      2


 出てけ?

「はあ、なにゆうてお前」

 来たくてこんなとこ来てるわけじゃない。金銭と引き換えに住んでやってるだけの。

 所有したくて手元に置いときたくて。

 鬱陶しい長さの髪を後ろで一つに結わえてあるが、髪質のせいなのか長さがバラバラなのか毛根から根性捻じ曲がっているのか。落ち武者のようだ。

 と、言ったら複雑な顔をされたが。

「出てけ、ゆうんは? 未来永劫?」

 一時的なものだろう。だいじな部下が突然いなくなってしまって心身ともに擦り切れそうになってるだけで。

 だからこそ普段と同様に振舞ってやってるのに。いちいち人の気遣いをどぶに捨てるのが得意な。

「手伝うたろか。カネやんの分」社長サンはシロウと呼ぶ。

「何度も言わせるな」

「ケイちゃんがそないに気に食わんかったん?」自分にないものを持ってるってだけで。そんなに羨ましいなら筋肉の一つでも育ててみればいいだろうに。「そら勝手に仲間入れたんはあかんかったけど、役に立っとるやん。あれやらこれやら」

「呼んだ憶えはない。必要ない」

 だいぶ気が立っている。この場はそれくらいにして一旦出て行ったほうが。

 一旦。ではないのだ。

 出てけ、という意味は。

 最近ケイちゃんばかしかまってたから。嫉妬だ。しかしそんなのいまに始まったことではない。いい歳こいて。

 出てけ。とでも言えば、泣いて縋ってくるとでも。

 思っていたらこんなこと言わないだろう。そんなキャラじゃない。

 おそらく社長サンが求めてるのは「ああ、出てったるわ。誰がこないなとこ。あー清々したな」という売り言葉に買い言葉的な。

「二度と顔見せるな」

 と、望みどおり出て行ったのはいいが。

 いちお、家出少年なので住む家がない。

 社長から搾り取ったカネがないこともないが、あれはすでに使い道が決まっているので手を付けるわけにいかない。ホテル豪遊とかアホすぎる。

 友だちの家。は、友だちがいる奴にこそ口にする資格がある。

 夜じゃなかったらよかったのに。夜は苦手だ。暗いから。

 なにも夜に追い出さなくとも。

 売れ、と言ってるようなもの。できなくないが、実は得意分野なのだがみだりに使いたくない。必殺技は温存しておく。

 売ったら困るのは社長サンなのに。なぜに追い出したかなあ。自分で自分の首を絞めるプレイ中? 縄ぶった切って床に叩きつけてやりたい。

 寒くはないが野宿すると蚊に刺されるから。そうゆう問題でもなくて。

 当てが一軒しかないのもどうだろう。

 呼び鈴が見当たらない。だろうと思う。門も堅く閉ざされている。とっくに就寝時刻なのだ。酷い健康優良生輩出装置。

 あと3秒待って何も起こらなかったら帰ろう。

 3

 2

 ざりざりざりざり。砂利を蹴る音。「どうしたんすか?」

 1

「さっすがやな」

 その超常現象的な力を見込んで仲間に引き入れたのだ。不良集団から文字通りヘッドハンティングして。

「ようわかったな」

「なんとなく」ケイちゃんは甚平で。眠っていたところを超常現象的な力で叩き起こされて。寝癖もそのままに。「どうしたんすか?」

「どうもこうもな。泊めてくれへんかな」

 さすがの超常現象的力でもそこまで予想できなかったか。

 眼をがん開いて。何かを言おうと口を動かすが単語のぶつ切りで声になっていない。

 ケイちゃんがそんなに驚くのは初めて見た。割と何事にも動じず、なんとなく、で片付けてしまえるので。

「泊める、というのは」ケイちゃんが言う。

「できたらこっそりな」

 ケイちゃんは、離れにひとりで住んでいるだとか。そっちにはお弟子サンとかもいるだろうし。なにより住職サンに知られるのがまずい。出家希望かと思われる。

「ええやろ?」

「ケンカすか」ケイちゃんが言う。

「なんも訊かんといて」追い出されたこっちが一番状況を理解できていないのだから。

 身一つで家出したのでまとめる荷物も何もなく。何も持ってなかったのでケイちゃんが警戒するのも頷ける。

 そうじゃない。

 ケイちゃんの腰が引けているのは別の理由だ。その理由を利用して宿を借りようとしている自分が一番悪いのだが。

「散らかってるんすけど」ケイちゃんが言う。

「乾いたティッシュなん気にせんよ」

「ホントに大丈夫すか」

「なにをそないに期待しとるん」

 境内の外れにそれはあった。なかなか広い。2LDKの平屋。純和風で好み。トイレと風呂に行くのに川を越えなきゃいけないのが面倒だが。荒れ放題の庭に池がある。しかも周りは森。嫌な予感がする。

 ほら、早速耳障りな音が。ぷーんと。

「部屋別のほうがいいすよね」ケイちゃんは押入れから布団を出す。

「隣にしよか?」

 一生分の運を使いきった。みたいな顔で。

 顔に出すぎる。

「飯はまだすよね?」

「ええわ。食う気せえへん。それよか、これ」手で追い払っても切りがないが。「なんとかしぃや」

「買ってきます」

「ないんか」

 すごく静かだった。ぷーんを除けば。市街地よりやや高いところにある。見下ろせる。存外夜景が慎ましやかだった。この街は。夜がすごく静かなのだ。

 指と指の間の水かきがすごく痒い。もう喰われてる。なんでそんな吸いにくいところをわざわざ。

「寝ないんすか?」ケイちゃんは、敷いたはずの布団にいないのを気にして探しに来てくれたようだ。「あ、すんません。風呂」

「ええて。気ィ遣わんといて。自分でやるさかいに」

 庭の池にはどこからともなく水が流れ込んでいる。入口があれば出口を設けなければならない。溢れてしまう。入口とは反対側に、川が延びていた。ジャンプして飛び越えられない幅ではないが、アーチ上の橋が架かっていた。欄干にもたれる。嫌な音がした。

 離れる。

「きいてもいいすか」ケイちゃんが言う。

「眠ったほうがええのと違うん?」

 隣で寝てほしいと言えば。

 やらないでもないのだが。

「起こしてすまんかったな」

「なんで俺のとこ」ケイちゃんが言う。

「なんでや思う?」

 ケイちゃんは考え込む振りをする。

 振りだろう。考えるまでもない。

「近かった」ケイちゃんが言う。

「まあ、せやな。香取サン先公があらへんのはしゃあないとして」

「今日だけすよね?」

「さあなあ。あっちの機嫌次第やね」

 ケイちゃんはわざと一歩下がっている。「ケンカだったらいいんすけど」

 大したことないから。修復可能だから。

 それとも、

「ずっとケンカしとったほうがええか」

 ケイちゃんの顔は見えない。ケイちゃんからもこっちは見えない。

「ケンカじゃないんすね?」

 訊くなと言ったのに。

 ああそうか。それで、断ったのだ。訊いてもいいかと。

「わからへんのよ。なあんも。ゆうてくれへんし」

「心当たりとか」

 わかってて言わないのか。わからないから言わないのか。

 わざと、してやったり、思い通り。

 違う。それはケイちゃんには馴染まない。裏工作なんかしないで正々堂々と。してるから社長サンの仕事場に押し掛けるのだ。

 二人っきりのほうが都合がいいのに。適当な用事で呼び出せば、見え透いた下心だが、社長サンに邪魔されることなく会える。それなのに、邪険にされることがわかっていて毎日通い続ける。

 なんという真っ直ぐな宣戦布告。

 しかしそれは潔い敗北宣言でもある。

「涼しいな」

 涼しくなってきたから屋内に戻る、と取ったのか。

 涼しいから居心地がいい、という意味で取ったのか。

「いつまでいてもいいすから。俺は」

 のあとに省略されてる部分が面と向かって言えるようになったら隣で寝てやらないこともない。と言ってやらないところが意地が悪い。

 負け戦にしているのはどっちだ。

 適当に風呂に入って適当に寝た。襖の向こうからケイちゃんの寝息が聞こえるかと思って耳を澄ましてたけど、途中で飽きて眼を瞑った。

 追い出す理由は一つしかない。

 巻き込みたくないような事件が起こっている。家の中とか社内とか。

 踏み込む権利も解決に導いてやる義理もない。そんなのは社長サンの問題だ。ようやく問題視されたのかもしれない。身元不明な家出少年を居つかせている、と。

 しかもそれは善意とはほど遠い。金銭を介した契約関係ですらない。下心にまみれた。

 手に入るわけがない。幾らカネを積もうとも。

 万年着信拒否を解いてやろうか。深夜一時間限定で。

 掛けてこい。掛ける気があるなら。なんぞ弁明したいなら。

 むしろ寝てるか。

 アホくさくなって電源を切る。社長サンにもらったリードを沈黙させる。

 ケイちゃんがトイレから帰ってこない。

 そうゆうところが負けているのだ。


      3


 帰りに本社に寄った。浅樋うすほの発言のせいで。

 幹部専用の会議室に、社長と、まさむらと。単なる家族会議の延長とは思えない。俺にも同席命令が出た。浅樋うすほと同様に吊るし上げるつもりだろう。

「会長はお呼びにならないの?」浅樋うすほが誕生日席で首を傾げる。

「そんな必要がないかもしれないじゃない。特定の個人に対する嫌がらせだとか」

「どうして?もとえさん。どうしてそんなことを言うの?わたくしは、もとえさんのために」

 社長がテーブルを叩く。「その物言いを何とかなさい。ふざけてるの?」

「ふざけてなんかいません。わたくしは、本当に」浅樋うすほがわざとらしく顔を覆う。

 ほんの僅かまさむらが動いた。

 たぶん俺以外気づかなかった。社長は浅樋うすほを見ていた。

「顔を上げなさい。本当に殺したの?」

「ええ」浅樋うすほの晴れやかな顔。「殺しましたわ。もとえさんのために」

 原因部分はどうでもいい。

 その方法を知りたかった。

「復讐は果たしましたわよ」浅樋うすほが呪文みたいに言う。

「なんのこと?」社長の表情に亀裂が入る。

「もう何も恐れる必要はありませんわ。お付き合いしていた方がいらっしゃったんでしょう? 知ってますのよ」

 社長は動揺を抑えている。どうもこの人は感情を抑えきれない。不自然に髪を撫でて、乱れてもいない襟元を整える。「なによ」とうとう当てこすりでまさむらを睨みつけた。「なんか言いたいことがあるなら言いなさい。なにさっきから黙りこくって。あんた、なんか知ってるんじゃないの? あんたじゃないの?余計なこと」

「僕は何も」

「してないってゆう証拠を見せてちょうだい。それができないなら消えなさい」

 自分で同席させておいて。

 まさむらは少し悲しそうな顔を作った。「社長がそう仰るのなら」立ち上がって本当に退席した。

 退室したと見せかけて廊下で立ち聞きをしている可能性はない。まさむらはそうゆう奴だ。

 そんなに嫌いならどうして結婚なんか。

 政略結婚だったとしても、浅樋家にそこまでする財や権力はない。

 復讐? お付き合いしていた方?

 俺の知らないことがある。俺に知られたくないことを社長は握りつぶしている。それを浅樋うすほに掘り返されて動揺している。知られたくないことを握りつぶしてまたそれを掘り返されたことを、まさむらは気づいている。

 知らないのは俺だけだ。

 別段知りたくもない。俺にも退場命令が出ないものか。

「さねあつもさねあつよ」矛先が俺に移ってしまった。社長は浅樋うすほと話をしたくないだけ。まさむらを追い出してしまったので残りは俺しかいない。「あの未成年はなに?」

「俺も未成年ですが」

「揚げ足取らないでちょうだい。なんなの?あなたのなに?」

「もとえさん。それは」

「あなたは黙ってて」社長は絶頂に機嫌が悪い。

 浅樋うすほが小さい悲鳴を上げる。「ひどい、もとえさん。さねあつさんだって事情があるのに」

「その事情がなんだって訊いてるのよ。言ってみなさい」

 言えるものなら。

 社長の前で。母親の前で。

「言えないの?」

「もとえさん、そのくらいに」

 言うべきなのか。わざわざわかっていることをここで改めて。

 知らないわけじゃないだろうに。俺の交友関係の乏しさを見れば一目瞭然だ。それとなく仄めかしたことだってある。社長も勘がいい。会長は知っている。会長が知っていて社長が知らないなんてことは。まさむらも。シロウも。浅樋うすほも。

 社内の上層部はみんな知ってることだ。

 俺が社長を継ぐ限り後継者は生まれない。

「言いなさい」

「言いたくありません」

 火に油だということはわかっていた。でも言いたくなかった。

 ツネは俺の。

 なんでもないのだ。本当になんでもない。自分で言ってて情けなくなるくらいなんでもない。俺にカネがなかったら真っ先に消去されてた存在。俺にカネがあったから、文句垂れ流しつつも住み着いてくれた。

 だから俺はカネを失うわけにいかない。

 社長になるほか、ツネをそばに置いておく方法がない。

「あたしだから言いたくないの? 言えないの? この女には言えるのに」社長は浅樋うすほを指さす。

 普通、指を指されることは心地のいいものではないが。

 浅樋うすほは微笑んだ。嬉しいのだ。社長に相手にされて。「知りませんわ。わたくしはなにも」

「とぼけないで。もう、なんなのよあなた。殺したとか復讐だとか。何をしたいの?あたしを混乱させてそんなに楽しい?」社長は泣きそうだった。必死に涙を堪えている。

 俺がいなかったら泣いていたかもしれない。いや、それは買いかぶりすぎだが。

「悲しいのね?もとえさん。わかりますわ、わたくし。もとえさんの味方はわたくしだけですのよ。この世界にわたくしだけ。もっとわたくしを頼ってくださいな」浅樋うすほはあろうことか社長の肩を抱いた。

 社長には振り払う気力もない。されるがままになっている。日頃の気丈な社長なら絶対にあり得ない。

 そこまで追い詰める内容がそこにあったのだろうか。

 復讐?

 義理の父を亡き者にすることが?

「どうぞ存分にお泣きになって?いままでずっと我慢されてきたんですもの。ここにはあなたの味方しかいませんわ」

 本当に泣いてしまった。嗚咽。本当に本気で泣いている。

 できれば見たくなかった。

 浅樋うすほが聖母か何かに見えた。

 社長が落ち着くまでそうしていた。拷問の一種だった。

 社長を社長室に送り届けて、浅樋うすほは満ち足りた顔でこう言った。「もとえさんの敵はわたくしの敵。さねあつさんはもとえさんの大切な息子ですもの。わたくしの復讐にもちろん協力していただけるわよね?」

 頷かなければこの場で殺すことも厭わない。

 そうゆう眼で微笑んだ。魔女のように。


      4


 離れとはいえここは寺の境内だった。すっかり失念していた。

 朝の4時に鐘が鳴った。鳴ったなんて生易しいものじゃない。地響きにも等しい。地震かと思った。

 吃驚して跳ね起きたのだが、襖の向こうにケイちゃんはいなかった。まだトイレか。と、トイレに奇襲をかけたがそこにもいない。

 ケイちゃんにケータイを持たせると半分にへし折るのでついに持たせるのを諦めた。そこに至るまでに3機ほど犠牲にしてしまったのだが。

「ケイちゃーん?」原始的方法に頼るほかない。「どこなん?」

 すべての部屋を見て回ったがいない。庭にも池にもいない。あとは隠し部屋だが。存在すればの話だが。

 よく考えたらまだ4時だった。寝よう。夜行性なので眠くて仕方ない。

 おそらく朝のお勤めかなにかだろう。曲りなりも修行中だ。頭を丸める丸めない騒動で住職サンとケンカしてここに追いやられてるらしいのだが、こんなに立派な住居を与えられている時点でケンカは終了していると見ていい。

 お互い素直になればいいのに。人のことは言えないが。

 次に眼を覚ましたとき、見知らぬ顔が眼の前にあった。寝ぼけていたせいで人物認識にエラーが生じていたのかとも思って眼をこすったが、やはり見覚えがない。

 笑顔の張り付いた金髪の。髪は残らず重力に歯向かっている。

「寝込みを襲う形になってすみません。どうも、はじめまして」そいつは恭しく頭を下げた。寝ている人間の顔を覗き込みながら頭なんか下げるので。

 寝返りも打てない。しかし瞬きはしないでやった。

「ご安心ください。僕にその気はありません。この状況はいささかそちら側に不利ですので」

「ほお、不利やのうたらやる、ゆうんか」そうっと顔を移動させて上体を起こす。勢いを付けすぎて頭がくらくらした。

 眩暈。変な時刻に起きたから。

「大丈夫ですか。ご無理をなさらず」

「おま、なんなん? どこのボン?」

 小さかった。身長だけならケイちゃんの半分以下だろう。よれよれのパーカ。ジーンズも、もう何十年と履き続けているらしき擦れ具合。

 そいつは首にかかっているメガネをかけて、手元にあった小型のノートパソコンを開く。「すみません。遠視なもので」

「聞いてへんけどな」

「ご紹介が遅れました。僕はトモヨリアズマと申します」PC画面をこちらに向ける。中央に横書きで大きく、

 朝頼トモヨリアズマ

 と、あった。どうしてもなにがなんでも漢字で示したかったのだろう。

「よりとも?」

「よく間違えられるんですよね。なんでも構いません。名前なんか記号ですから」

「んで?そのせーいたいしょーぐんとやらが? なんの用なん?」

「この方をご存知ですか?」またもPC画面を向ける。

 知らない顔が映ってた。

 女?

「知りませんね?」

「知っとることわっざわざ聞かんといて」

 髪の長い女。

 の知り合いは二人しかいない。この世に。

KREクレ次期社長の祖母です」

「そらまあ随分と若いな」

 どう高く見積もっても四〇代が関の山。外見年齢を自在に操れる女を一人知っているがたぶん絶対無関係だろう。

「次期社長の父方の祖父の再婚相手といったら納得されますか」

「犯罪やな」

「そして僕の母親です」

 確かに笑顔がそっくりだった。

 嘘くさい。

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