ペンギン・ハイウェイ

金村亜久里/Charles Auson

   *


 それはペンギン・ハイウェイだった。

 それはおれにとっては間違いなくペンギン・ハイウェイだったんだ。


   *


 走る。夜のバーンを走る。橙のランプが光る。赤い車体は時間が濃く塗りかさねられた頃合いには夜の闇にとけて退き、バーンの上でぼやける。おれは前かがみに宙を飛んでいた。深夜のバーンは暗く車通りも少なかった。爆音も振動もおれのまたがるマシンがまきちらす以外に感じられずに、おれは世界の中心に孤独でいた。

 バーンが右に曲がる。橙のランプが並んでいる。西に抜けるバーンに並んでいるランプ。長い胴を中世の狼煙のように垂直にのばし、首を間抜けな調子でぐるりと一周させるふうに曲げ、頭を下にして、うつむきともおじぎともつかない仕方で、ぽつりと足許を照らしながら、同時にその光はおれの顔に向かって伸びている。夜の寂寞たる闇に包まれた、稲光でもなければ貫くことのできない強靭さで物と物とをへだてる生ぬるい空気の孤独……

 それはごく短いあいだだけ起こった出来事だ。日本中どこの街路で起こってもおかしくない出来事で、おれはその中にほんの短いあいだだけ身を置いていて、今ではもうそこから身を離してしまっている。記憶の深い深い壺にしまいこんでいた、さほど古くはないが新しくもない記憶、それが不意によみがえって熱く燃え盛った。それがおれに珍しく、ペンを持たせている。それはもう本当に高校以来のことだ。

 おれは孤独だった。真っ赤なマシンがふるえている。別れた女がヘッドのマサキとくっついて、チームでの居心地がどうにも悪くなった。おれはチームから離れて、一人でバーンを、まっすぐな長い長いバーンをひたすら走ることにした。

 カーブを終え、トンネルを通った。合流地点を抜ける。強いカーブ。一度減速し、直線に入るやエンジンのうなりも高く、加速、加速、加速。誰もいない追い越し車線で永遠に加速しながら、おれはふたたびマシンの上で自由自在に宙を飛んでいた。

 そこにまえぶれなく、左から、ぬっと巨大な影が滑り込んだ。

 何も幽霊じゃない、マシンだ。車体は過半が黒だった。ヘッドライトに照らされて銀がはじける。はりつけられた反射板が鋭く光っている。メッサーだ、あれはメッサーの光だ。前面が特に大きく膨れあがり、後ろにいくにつれてだんだんと細まっている。中央に細い銀のラインが一つ、その下にさらに大きく銀が、黒を抉るように浮き上がっている。

 俺のマシンより二回り大きかった。フルフェイスのヘルメットから全身ひとつながりのライダーススーツ、細いブーツまで、全身黒一色の体が、空気を素流しにするマシンの曲線の一部になっているかのように、頭を低く前にして収まっている。

 その影が、左からおれのマシンを追いつき、続く左カーブで悠々と追い抜く。直線に入った。マシンの脇につけて陣取った巨体は、これみよがしにエンジンを二度三度ふかして一気に前に出た。

 おれは挑発にのった。

 加速、加速、加速!

 速度制限をふっとばし、回転を上げて黒いマシンに迫る。体に伝わる振動が段階をあげて強まる。高い耳鳴りが聞こえる。煙をあげて道路に噛みつくタイヤが焦げて臭い。もうすぐつかまえられるというところで向こうも加速度を上げ紙一重で逃げていく。

 しばらく道はまっすぐだった。単純な速度勝負だった。おれはめいっぱい加速させたが、ぎりぎり、本当にぎりぎりのところで黒いマシンに追いつくことができない。それでもこちらの鼻先は黒い車体の銀色の排気筒をほとんどとらえていた。

 そうするうちに山肌の、カーブの連続するエリアに来た。半分は技巧の、半分は度胸の勝負だ。スピードをゆるめないままマシンはカーブに入る。最初のカーブで内側をとる黒いマシン、おれはそのすぐ外側めがけて一直線、カーブの外周にぴったりはりついて離れないコースを選んだ。曲がり角一つの入口から出口まで九十度ずつ折れるようなジグザグの道を、内と外を順繰りに入れ替えながら走る。鍔迫り合いのように内側をとろうと仕掛け、その度に阻まれ、阻み、連なりを抜けた後には二つのマシンはその鼻先を水平に接していた。

 直線に出る。腹の底から震わせる駆動部からの爆音をともなって黒い巨体がいっそう加速すると、明らかのそのマシンはおれの乗っているものより重いはずなのに、おれのマシンが限界まで加速したときの速度よりもいっそう速かった。一体どういう改造をしていればこの巨体がこうも速く走れるのだろう? クジラかシャチを思わせる巨体は、尻尾のウィンカーをやたらめったらチカチカさせている。

 するとそこで、この目の前のマシンが、こちらにぎりぎりまで加速させて、それをほんの少しの差で制するのを楽しんでいることに気付いた。減速し、脇におさまり並んで走るマシンの主は、ヘルメットの前をこちらに向け、立てた親指でサービスエリアの案内標識をさしてみせた。

 マシン二台は並んでサービスエリアの一画につけた。

 隣の砲弾のような機体からライダーが降りる。肋の下限から尻の上半ばにかけてまっすぐに膨れていた。マシンの主は女だった。

「きみ、ハイウェイははじめて?」

「まさか」

 ヘルメットを取って対面したそのライダーは、長い髪を結びもせずに、被りものの縁から出るに任せているらしかった。まるい目をして、わずかに日に焼けている。人をひきつける顔だ。ライダーは隣のマシンをさして言った。

「いいバイクじゃないの、真っ赤で」

「そのモンスターマシンの持ち主に言われると、どうしようもない」

「そう」

 並べるといっそう大きさの違いがよくわかった。おれのマシンが原チャリに見える。そのマシンはよく見れば、前面に嘴のような尖った金属が溶接されて、しかも尖端が下向きになるよう加工されたようだった。

「かわいいでしょ」

「かわいい、ねえ」

「これペンギンなの」

「ペンギンよりシャチって感じだ」

「海のギャング? あれもあれでかわいいけど」

「ペンギンの方がかわいい?」

「うん」

 ライダーはにこにこと笑って、ヘルメットを入れるスペースから缶を一本取り出して、プルタブを開けた。その正体を見知って、おれは目を見張った。コーラや炭酸飲料ではなく、缶チューハイだ。6%の缶チューハイをぐびぐび、一息に飲み干した。

「酒!?」

「飲まないの? 飲まないのは……未成年だし……いいことだけど、平気平気、チューハイなんて水みたいなもんなんだから……」

 おれのチームでは飲酒だけは厳禁だった。ヘッドが飲酒運転で死んで、跡を継いだマサキの前のヘッドがおふれを出したのだ。当時も二十人といない少人数チームだったし、人望のあったヘッドの死がメンバーに強く惜しまれたのもあって、飲酒だけは、というおふれは徹底された。

 ライダーはまた缶と袋を取り出して、ビーフジャーキーだ、平板の一枚を半分にちぎってさしだした。

「食べる?」

 おれはふりかえる。このライダーとはじめて会った夜をふりかえる。そこには何の禍音もないはずだった。ことのはじまりからおれが躓いていたわけではないはずだった。

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