嵌まってしまった罠


―――


 手取川での撤退戦から数ヶ月が経った。その間京では、「織田信長は思いの外弱い」と謙信が語ったと噂になり、「信長は実は大した事はない」とか「これまでの事は運が味方しただけの事」などという話が広まった。

 それに加えて、「上杉に逢うては織田も手取川 はねる謙信逃げるとぶ長(信長)」という落首までが流行ってしまい、しばらくは信長の機嫌は最悪だった。


 一方北ノ庄城に帰城した柴田勝家は誰一人犠牲にならなかった事を喜びつつも、信長の本心がわからずモヤモヤする毎日を送っていた。

 しかし自分の事を必死に止めてくれた姿を思い出すと目頭が熱くなるのを止められないのだった。

 あの時の決断は信長にとって最善の策であったのだと自分の心を納得させながら、北陸方面軍司令官としての務めを果たすべく日々奮闘していた。



―――


 岐阜城、大広間


「最近京の様子はどうだ?」

「はっ!悪い噂は段々と静まっているようです。都の者達はすぐに新しい話題に飛びつきますから、噂が完全になくなるのも時間の問題でしょう。」

「そうか。」

 秀吉が頭を下げながらそう言うと、信長は自分で聞いておきながら興味のない様子で扇子を弄んだ。


 手取川での不本意な撤退から数ヶ月。警戒していた謙信からの追撃などはなく、無事に岐阜城に帰ってこれたのは良かったものの、「信長は弱い」「大した事がない」などという悪い噂が京で流行ってしまった事に信長はご立腹だった。しかし一ヶ月も経てばけろりとして、ハラハラして見守っていた蘭達もホッとしたのだった。


「ところで義昭はどうなってる。謙信との一件は向こうも知っているだろう。何か動きはないのか。」

「今のところ、何もないようです。それどころかまだ安芸にも行っていない模様です。」

「随分のんびりだな。信長包囲網はどうした。」

 鼻で笑うと信長は徐に扇子を帯にしまった。蘭はそれを横目に見つつ、居住まいを正す。


「これからどうするんですか?」

「うむ。本願寺を焼き討ちにした事で雑賀衆が黙っていないだろう。向こうにやっている密偵によると近々蜂起するようだ。今それに対して準備している。信忠を総大将に、信雄、信孝も出陣させようと思ってるところだ。」

「そうですか……」

 蘭はそれぞれ北畠家と神戸家を裏切って信長の元に帰って来た信雄・信孝兄弟の顔を思い出して俯いた。


「サル。お前は取り敢えず雑賀衆の中でもこちらに寝返りそうな所に揺さぶりをかけろ。あそこも色々と複雑だからな。半分とはいかないまでもそれに近い数を味方につかせる事は出来そうだ。」

「畏まりました。」

 秀吉は再び頭を下げると、早速内通工作をするために部屋を出て行った。


「信長様、複雑って?」

「雑賀衆と一言で言っても一つに纏まっている訳ではない。本願寺の門徒もいれば他の宗派の門徒もいるのだ。そういう非門徒の奴らの方をこちらにつかせる事が出来れば雑賀衆は分裂し、完全に潰す事が出来るという事だ。」

「なるほど。」

 溜め息混じりに呟くと、信長はニヤニヤしながら立ち上がった。


「上杉との戦の後の事は詳しくないのだな。」

「えっ!……と、すみません。実は雑賀衆の事は知らなくて……」

「まぁいい。未来の事はわかっていてもいなくても、俺のする事はただ一つ。天下を取って一番の高みから世の中を見る事だからな。」

「……そうですね。」

 襖の向こうを見つめる信長を、蘭は複雑な顔で見た。


 これから起こる惨劇と怒涛の最期の事を思うとやっぱり平気ではいられない。

 確かテキストには重臣達を粛清したり、敵の家族や一族を皆殺しにしたりすると書いてあった。

 天下統一の為に心を鬼にして戦う信長についていくと覚悟していても、それを目の当たりにして自分は一体どう思うだろうか。蝶子だってきっと反発するだろう。その時、自分は本当の意味でこの人を守れるだろうか。理解してあげられるだろうか。

 蘭はふと不安になった。


(でも、でも俺は……)


 織田信長の忠実な家臣だと伝わる『森蘭丸』として、最後まで付き従う道しか残っていないのだ。


 蘭は一度深呼吸をして、もう一度あの黒い瞳を見つめた。



―――


 秀吉は雑賀五組のうち、社家郷・中郷・南郷の三組を寝返らせた。それを受けた信長は雑賀の残り二組、雑賀荘・十ヶ郷を攻略するべく、信忠を総大将にして信雄・信孝・弟の信包配下の伊勢勢と畿内・越前・若狭・丹後・丹波・播磨の兵も合流させて出発した。




―――


 織田軍、本陣


 6月12日、信長は和泉、佐野を経て志立という地に本陣を構えた。兵を山手と浜手に分け、山手に雑賀三組を先導役とした佐久間信盛・羽柴秀吉・堀秀政らを配置。浜手には滝川一益・明智光秀・丹羽長秀・筒井順慶に加えて信忠・信雄・信孝・信包を配した。



「信長様、信忠様の軍が中野城を包囲したそうです。山手の佐久間殿の方は峠を越えて根来に進んで雑賀城に迫っている模様。如何致しますか。」

「今のところ順調という事か。よし、俺達も中野城に向かうぞ。その後は雑賀衆の中心人物である鈴木孫一の館を攻める。」

「わかりました。すぐに準備いたします。」

 家来が足早にその場を去ると、信長は蘭の方を向いた。


「奴らは鉄砲も所持している傭兵集団だ。高い軍事力を持っていて戦の経験値も高い。これまで本願寺の後ろ盾を武器に大きくなってきただけあって制圧は容易ではないだろう。だが今の織田軍は史上最強の布陣。必ず勝利を掲げて帰るぞ。」

「はい!」

 蘭が力強く頷くと信長は満足したように笑った。




―――


 翌日、信長は中野城に向けて出陣。秀吉らの工作により15日には中野城は開城した。そして17日には鈴木孫一の館を襲撃。しかし孫一はすんでのところで逃亡し、残った妻子や家臣らは秀吉によって皆殺しにされた。


 一方山手の軍の方は先鋒隊の堀秀政勢が雑賀川を渡って雑賀城を目指していた。



―――


 堀軍、本隊



「皆の者、今こそ信長様の為に力を使う時。先鋒隊として多くの首を取るのだ!」

「お――――!!」

 秀政が声を張り上げるとそれに続いて家臣たちが拳を上げる。それに頷いた秀政は、勢いよく川へ入っていった。


「ん?」

 しかししばらく川を歩いていた秀政が異変に気付く。そして足元を凝視した瞬間目を見開いた。


「こ、これは……!」

 川の底に逆茂木や桶、壺、槍先などが沈めてあったのだ。気づいた時には時すでに遅く、それに足を取られて川の中に尻餅をついた。


「罠だ!戻れ!」

 秀政が怒鳴りながら辺りを見回すと、同じように足を取られた家来らが川の中でもがいていた。中には水深が深い所で溺れている者もいる。秀政は顔を真っ青にしながら叫んだ。


「すぐに退避だ!急げ!!」




―――


 織田軍、本隊



「何っ!?秀政が?」

「川に細工がされていて、足を取られた隙を狙って鉄砲隊に攻撃されたようです。」

 流石の秀吉も額に冷や汗が流れている。報告を聞いた信長は勢い良く立ち上がった。


「それで軍はどうなった。」

「秀政殿は無事に退避できた模様ですが、兵の半分程はやられたようです。」

「そうか……くそっ!汚い真似をしやがる。」

 吐き捨てた信長は自分を落ち着かせるために深呼吸をした後、秀吉に向き直った。


「秀政に援軍をやれ。それとこちらに戻って来るよう伝えろ。」

「はっ!」

 秀吉が去ると信長はゆっくりと座った。無意識に溜め息が出る。


「取り敢えず秀政が無事で良かった。あいつは俺にとって大事な側近だからな。」

「そう言えば秀政さんって会った事なかったです。どういう人なんですか?」

 蘭が言うと、信長は遠くを見るような目をして語った。


「元々はサルについていた小姓だった。大人しい見た目とは裏腹に肝が据わっていてな。そこが気に入って俺の側近にしたのだ。義昭が京都にいる時に光秀と一緒に向こうにやっていたが、義昭を追放した後は岐阜に戻らせた。本格的な戦への参加は越前に続いて今回で二度目だが奴なら先鋒隊として立派にやってくれると思っていた。だがこのような事になるとはな……」

 珍しく落ち込んだ様子の信長を蘭は戸惑った目で見た。だがしばらくして気を取り直すように肩を竦めると、努めて明るい口調で言った。


「でも良かったじゃないですか。秀政さんは無事だったんだから。今後の事はこれから考えればいいんですよ。」

「ふっ……お前に励まされるとはな。今後の事はもう考えてある。心配するな。」

 いつもの不敵な笑みを浮かべる信長に、蘭は微笑んだ。


「逃げた孫一を何が何でも見つけて処刑する。そうすれば孫一に従っていた者達も怖気づいて降伏を申し出るだろう。そこを総攻撃だ。」


(やっぱりこの人は敵に回したくないな……)


 黒い瞳を光らせながら残酷な事を言う信長に、蘭は背筋を震わせるのだった……



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