手取川の戦い 後編


―――


 七尾城



 長続連と遊佐続光は向かい合っていた。この七尾城で同じ家老として城主の畠山氏に仕えて数十年。共に助け合ってきたはずだった。しかしいつからか続光は上杉派となって続連と意見が合わなくなり、顔を合わせればいつもいがみ合っていた。

 だがそれも今日で終わりを迎える。二人の顔には決意の色が滲んでいた。


「いつかはこの日がくると思っていたよ、続光。」

「義兄さんが信長なんぞに傾倒するからだ。上杉に媚を売っておけば能登は安全だとあれほど言ったのに聞かなかったのは貴方ですよ。」

 続光はそう言うとニヤリといやらしい笑みを浮かべた。続連が悔しそうに歯噛みする。


 実は続連は続光の義兄である。続光が続連の妹と結婚したからだ。だから最初の頃は本当の弟のように接して可愛がってきた。それが変わったのはいつからだっただろう。織田派であった自分に対抗するように上杉派になり、自分以外の家臣を次々と味方に取り込んでいった。そのせいで家老として圧倒的に権威を誇ってきた長一族は、段々と居場所を失くしていった。今や畠山家は遊佐が家中を仕切っていたも同然であった。


「このような事をして、許されるとでも思っているのか。畠山家にとって一番良いのは信長様について行く事だ。あの方はきっとこの乱れ切った世の中を救って下さる。その時になって織田派でいれば、畠山家は安泰なのだ。上杉などとは縁を切れ。今からでも遅くはない。」

「遅いのは義兄さんの方ですよ。上杉にはもう既に降伏を申し出ております。条件は、長一族の皆殺し。」

「っ……!?」

 息を飲む続連とそれを見て楽しそうに笑う続光。対照的な二人だった。


「さようなら、義兄さん。今までお疲れさまでした。」

「……いいか、良く覚えておけ。必ず天罰が下るぞ。私をやったところであの方から逃れる事は出来ない。いつかお前達も同じ目に合う。」

「言いたい事はそれだけですか。」

「あぁ……一思いにやってくれ。」

「わかりました。」

 笑いを収めた続光は全てを諦めた顔で目を閉じる続連の首を躊躇なく刎ねた。


 元亀2年(1571年)3月、権勢を誇った長一族はここで終焉を迎えたのだった。




―――


 上杉軍



「謙信様、ご報告があります。たった今遊佐が長一族を皆殺しにしたそうです。」

「そうか。これで七尾城は降伏だな。後は手取川を渡って来るであろう織田軍を迎え撃つだけか。」

 謙信はふっと微笑んだ。そして立ち上がる。数歩歩いて川岸に座り込むと、川の水に手をつけた。


「……柴田勝家と羽柴秀吉が争っているな。この雨の中、川を渡るかどうか。七尾城降伏と我々が既にこちらに来ている事を知らないのだから、勝家はどうしても渡りたいところだろう。しかし何故それを秀吉は必死に止めているのか。まさかこの事態を知っているのか?いや、まさかな。」

 ブツブツと独り言をぼやきながら川の向こうを眺める。雨で霞んでいて向こう岸は見えないが、二人が言い争いをしている光景は簡単に思い描けた。


「こちらから動いてもいいがこの雨だ。もう少し様子を見ようか。」

 謙信は座り込んだまま、強い瞳を空に向けた。




―――


 柴田軍



 勝家は戸惑っていた。目の前には頭を下げて動かない秀吉がいる。それを無視して川を渡る為に前に進んでもいいが、今までこんな姿の秀吉を見た事がなかったので心底驚いて足が竦んでいるのだ。

 自分を尊敬して憧れている。だから姓を変えた。そこまで言われて嬉しくないはずがない。しかし戦略的にここは川を渡って少しでも七尾城に近づいていなくてはいけないと信じている勝家の心情は揺れに揺れていた。


「お願いします!」

 もう一度秀吉が言う。勝家はしばらく迷っていたが、勢い良く顔を上げると周りに響く程の大声で怒鳴った。


「皆の者!川を渡るぞ!」

「えっ……?」

 秀吉がか細い声を出す。勝家は秀吉を見ないようにしながら顔を逸らすと川の方へ振り返った。


「俺は行くぞ。七尾城は絶対に落とさせない。それが信長様から受けた俺の使命だ。」

「柴田殿……」

「止めるならお前は来なくていい。」

「……わかりました。」

 少し逡巡した秀吉だったが、小さく頷くと勝家に背中を向けた。


「ここまで言ってそれでも貴方が行くというのなら、私はもう何も言いません。ここで撤退します。」

「あぁ、そうしてくれ。」

 お互いに目を合わせないようにしてそのまま反対方向に歩いて行く。秀吉は自分の軍に撤退の命令を出すとその場から離れた。


「よしっ!行くぞ!」

 勝家の声が辺りに響く。『お―――!!』という家来の声を誇らしげに聞きながら、勝家は川に飛び込んだ。


 しかし半分ほど行った時、思いもかけない人物の声が聞こえて足が止まった。


「勝家!!戻れ!」

「信長様……?」

 ハッとして振り向くと、信長が凄い形相で川岸に立っていた。隣には蘭もいる。


「どうして……」

「良く見ろ!上流はもう増水している。このままだと渡っている途中で流れに巻き込まれるぞ!!」

「で、でも七尾城が……」

「七尾城は落ちた。それに今頃は向こう岸に上杉軍が控えているだろう。今ならまだ間に合う。戻れ!勝家!!」

 信長が必死に叫んでいる。勝家は何が何だかわからなくなってきた。


 七尾城が落ちた?上杉軍が控えている?

 頭の中がこんがらがってきたが、信長が嘘や出鱈目を言う人間ではないという事は自分が一番わかっている。信長がそう言うならそうなのだろう。しかしこうと決めたら突っ走ってしまう性格が、素直に戻る事を拒んだ。


「……例え七尾城が落ちたのだとしても、今上杉と戦わずして戻れません。俺は行きます!」

「行くな、勝家!頼むから戻ってくれ!」

「え……」

 悲痛な声が耳に届いた瞬間、信じられない思いがした。あの織田信長が自分如きにこんなに必死になっている。勝家の心は少しづつ、信長がいる場所に向かっていた。


「勝家様!大変です!」

 その時、先鋒隊の一人が戻ってきた。額に汗をかいている。

「どうした?」

「向こう岸に上杉の旗が見えます!」

「何だとっ!?」

 反射的に目を凝らしたが雨のせいであまりよくは見えなかった。しかし家来の様子から噓ではないと判断する。本当に向こう岸に上杉の軍がいて、自分を待ち構えているのだ。このまま渡ったら即座に戦が始まり、川の中にいる自分達は圧倒的に不利になるだろう。そしてそこから逃げたところで増水した川の流れに巻き込まれるのは必然。


 ここは信長の言う通り、撤退するのが最善策だ。勝家は目を閉じて一人頷いた。


「信長様!撤退します!」

 勝家がそう言った瞬間、信長がホッと肩を落としたのが見えた。勝家はそれを見て何故か涙が出てきた。そしてふと秀吉が言った言葉を思い出す。


『信長様には貴方が必要なのです。』


 本当にそうなのだろうか。自分は今まで信長の為に生きてきた。しかし信長にとってはたくさんいる家来のうちの一人なのではないだろうかと思っていた。光秀のように頭が回る訳ではない。秀吉のように忠実に仕えてきたかと言われてはそこまでの自信はない。蘭丸のように信長の懐に入って可愛がられているとも思っていない。


 だが目の前の信長は、必死になって訴えている。行くな、戻れと。ここまで信長に求められた事のない勝家は戸惑う反面、嬉しさで胸が一杯になった。


「戻りますよ、貴方の為に。貴方が望むなら。」


『自分の信念を曲げてでも。』


 勝家は心の中でそう呟いた。




―――


 元亀2年(1571年)3月、能登の七尾城が上杉派の遊佐氏の調略によって家老の長一族が皆殺しにされ、落城した。

 同じ頃手取川で織田軍を待ち伏せしていた上杉軍の存在を何かしらの情報で知ったらしい信長は、途中まで川を渡っていた柴田軍を撤退させた。


 これを聞いた謙信は、信長が土壇場になって戦を放棄した事を揶揄して、『信長軍は思いの外弱いらしい』と語ったという。



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