謙信の怒り
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元亀元年(1570年)8月、越前を平定した信長は勝家に北ノ庄城を与え、前田利家・佐々成政らを与力としてつけて北陸方面軍司令官に任命した。それによって勝家は加賀国の平定も任せられる事になった。
一方信長は元亀元年(1570年)10月頃から新しい城の建築に着工した。場所は近江国安土山で、理由は岐阜城よりも京に近く、琵琶湖の水運も利用できるためであり、加えて北陸街道から京への中央辺りに位置していたことから、「加賀の一向一揆に備えるため」あるいは「上杉謙信への警戒のため」などである。
更に長篠の戦いで消耗した武器と弾丸の調達にも手をつけ、加賀・越後との合戦に備えていた。
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岐阜城、大広間
「そうですか、安土に新しい城を。」
「あぁ。初めての自分の城だから拘り過ぎてな。二年はかかるらしい。」
「二年!?それは長いですね。」
家康が驚くと信長は楽しそうに笑った。
「まぁ二年もあれば情勢が大きく変わるだろうから、早ければその城の高みから天下を見る事が出来るかも知れないな。」
「そうですね。」
笑顔で相槌を打つ家康に満足そうに頷く信長だった。
「ところで柴田殿からの連絡はありましたか?」
「あいつも中々忙しい様子でな。あれから連絡はない。」
「そうですか……」
「仕方がないさ。越前だけではなく加賀の事も任せているのだからな。」
「大変でしょうね。加賀の一向一揆は厄介だそうですから。」
「そうだな。」
信長は言うと、北ノ庄城の城主として置いてきた勝家の事を思ってふと表情を緩めた。
勝家は北陸方面軍司令官として越前のみならず、加賀の平定も任されている。それは信長がいかに勝家を信頼しているという証であった。
しかしその勝家は多忙の余り、城主になって以来連絡が途絶えてしまっていた。代わりに利家からは逐一報告が入っているので向こうでの状況はわかっているのだが、やはり直接顔が見れないという事は信長にとっても少し淋しく感じる事だった。
「失礼します。あ、家康さん、来てたんですか。」
その時廊下から声がして蘭が入ってくる。家康は振り返って笑顔を見せたが蘭の顔を見た瞬間、ハッと表情を硬くした。
「え?どうしたんですか?」
「信長様!三日後、越後に行くつもりなのですか!?」
「あ?あぁ、そうだが……それがどうした?」
家康の剣幕に流石の信長も戸惑う。蘭は頭の上にハテナマークを浮かべながら家康の隣に腰を下ろした。
「行ってはなりません!特に蘭丸君、君は絶対に行ってはいけない。」
「へっ?俺、ですか?」
蘭は自分の事を指差しながら聞く。家康は一旦自分を落ち着かせるように息を吐くと言った。
「蘭丸君は、越後に行く途中で謙信からの密偵に掴まって攫われてしまいます……」
「え……」
「何だとっ!?」
蘭と信長の声が重なる。家康は今度は深く息を吐くと語り始めた。
「どうやら上杉からの密偵が蘭丸君をつけていたようです。その密偵が隙を突いて蘭丸君を攫うところがさっき蘭丸君を見た瞬間、頭の中に浮かびました。だから蘭丸君は越後には行かない方がいい。それか越後に行く事自体、中止した方が良いと思います。」
一気に捲し立てると信長の方を窺う。信長はしばらく考え込んでいたが、顔を上げると言った。
「越後に行く目的はただ上杉への偵察。そういう事なら取り止めにしよう。ただ、何故蘭丸に密偵がついていたのだ?俺に着くのならまだしもこいつに張り付いた所で何がわかる訳でもあるまいし。」
「そう言えば……少し前から誰かに見られている気がしていたんですけど、あれって上杉からの密偵だったんだ……」
「お前……それを早く言え。いつから、どういう時に見られていると感じた?」
「いつからって、伊勢を攻略して少ししてからだったような……蝶子といる時に特に感じました。」
「……成程。それは少し不味い事になっているのかもな。」
「どういう事ですか?」
「いいか。お前と俺の妻である帰蝶が一緒にいるところを他の人間が見たらどう思うと思う?」
「どうって……あっ!」
「絶対に不審に思うはずですね。側近とはいえ一家来である君が、どうして信長様の奥方様と仲が良いのだろうと。その報告を受けた謙信が君の事をそのままにしておくはずがない。きっと色々と調べられていると見た方がいいでしょう。」
「まさか、俺達が別の世界から来たってわかっちゃったんじゃ……」
「そこまでは流石に辿り着かないだろうが、俺とお前達が密接に関わっている事は知られてしまっているだろうな。例えば今日ここにお前が来ている事も見られていたかも知れない。」
「そんな!」
蘭が慌てて障子の向こうを振り向く。家康も心配そうに蘭を見た。一人信長だけが何でもない事のように手をヒラヒラと振る。
「だがそうやってただ張り付いているだけでは何もわからない。しかしそうしている内に俺達が越後へ向かう事を知った。後をつけてお前を捕らえ、謙信の前に差し出して洗いざらい吐かせようという魂胆だろう。何の目的で俺の側にいるのか。どうして俺の妻と仲が良いのか。拷問されて吐くまで解放させてはくれんだろうな。」
「拷問……!!」
蘭の顔が蒼白になる。それでも信長は顔に笑みを浮かべながら続けた。
「そう焦るな。要は越後に行かなければいいのだろう?しかも今回だけ中止したところでその密偵が張り付いている限り、今後一切越後に行く事は出来ない。」
「じゃあ、どうするんですか?」
「サルに始末させる。今度その密偵の気配を感じたらすぐさまサルを呼べ。」
「始末って……」
「永遠に口を封じるのさ。」
信長は口端を上げて笑った。
「それにしても助かったぞ、家康。お前が蘭丸の三日後を『予知』してくれなかったら俺達はまんまと謙信に嵌められていた。礼を言う。」
「そ、そうですよね!ありがとうございました、家康さん。」
「いえ。丁度蘭丸君が来てくれたから視られたのです。運が良かった。」
二人に見つめられて若干嬉しそうにした家康は、改めて蘭の方を向いた。
「今日私がここに居た事も君が来た事も、きっと運命なのですよ。君を失ってしまったら、信長様は困ってしまいます。本当に良かった。」
「はい!」
慈悲深い目で見つめられ、蘭は涙を浮かべながら勢い良く頷いた。
「それでは越後行きは急遽中止にする。密偵の事はサルに任せるから蘭丸は何も心配しなくていいからな。」
「はい。」
始末されてしまう密偵の事が少し心配になったが、自分が拷問にかけられてしまう場面を想像して頭を振った。やはり自分の身が一番大事だ。
「本当にありがとうございました、家康さん。貴方は命の恩人です。」
蘭は声を上ずらせながら家康にお礼を言った。
―――
越後、春日山城
「おかしいな。岐阜城に送った密偵からここ数日連絡がこない。一体どうしたのか……」
謙信が部屋でそう漏らしていると、家来の一人が慌てた様子で障子の隙間から声をかけてきた。
「謙信様!」
「どうした?」
「岐阜城にやっていた密偵の首が、門の外に……」
「何っ!?」
思わず立ち上がる。すぐさま部屋を出て廊下に出た。
「誰がそのような事を……」
「わかりません。でももしかしたら……」
「……信長か。酷い事をする。」
謙信はそう言うと深い溜め息を溢した。
「手厚く弔ってやれ。」
「はい……」
肩を落として去っていくその家来の背中を見つめた謙信は、もう一度ため息を吐いた。
「信長め……許さんぞ。」
そう言った謙信の瞳には明らかに怒りの色が見て取れた。
―――
元亀2年(1571年)1月、上杉謙信は能登国を支配下に置くため、2万余の軍を率いて侵攻した。これに対し能登の領主・能登畠山氏は七尾城に籠城した。しかし七尾城は守備に特化した堅城だったので、攻防は3月になっても決着はつかなかった。
七尾城の密偵からその事を聞いた信長は3月3日、援軍を送る事を決意。4日には準備を整えて出陣した。
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