暗く濁った目


―――


 京都、御所



「義昭様、お客様でございます。」

「どなたですか?」

義栄よしひで様です。」

「義栄殿が?」

 義昭は予想だにしなかった名前を聞いて思わず背筋を伸ばす。家来は無言で頷いた。

「わかりました。通して下さい。」

「はい。」

 家来が下がると、義昭は一つ深呼吸をした。


 足利義栄は阿波公方、血統的には室町幕府11代将軍・足利義澄の次男足利義維の末裔で足利将軍家の別家の出身である。

 永禄7年に起きた第13代将軍の足利義輝暗殺事件・永禄の変の後に三好一族によって時期将軍候補に擁された人物であった。しかし信長が三好やその関係者を次々と殺害した時に、一緒に殺されたのではないかと噂されていた。だがその義栄が今ここに来ていると言う。義昭は動揺を悟られないようにもう一度ため息を吐いた。


「失礼致します。」

「どうぞ、お入り下さい。」

 義昭が言うと、音も立てずに義栄が現れた。その顔を見て義昭は驚いた。最後に見た時よりも明らかに痩せていたのだ。義栄は若干足を引きずりながら部屋に入ってきて義昭の正面に座った。


「お久しぶりです。義昭様。」

「えぇ、本当に。私はてっきり……いえ、すみません。」

 義昭が口元を抑えると義栄はクスリと笑った。

「謝る事はありません。私も一度は覚悟したのですよ。いつか信長の魔の手が迫ってくると。しかし信長は私の元にはやってきませんでした。私如き、殺す価値すらないという事なのでしょう。」

「そんな事は……」

 義昭が慌てて身を乗り出すと、義栄は手を振って話題を切り替えた。

「ところで、私がここに来た理由をお話します。実は本願寺の蓮如が私の所に来ましてね。」

「蓮如が?」

「えぇ。信玄が死んで後ろ盾を失ったでしょう。信長対策として今度は将軍家を味方につけようとしているようです。どうか力を貸してくれと、泣きつかれました。」

 義栄が苦笑する。それに対して義昭は首を傾げた。

「それでどうして貴方の所に?直接私の所に来れば……」

「私が生きていると風の噂で聞いたからだそうです。しかし泣きつかれたからと言って今の私には本願寺の後ろ盾をするどころか信長に対抗する力はありません。そうなると結局、貴方の力を借りる事になる。蓮如自身がここに来るよりも話が早いと思ったのでしょうね。それとここを監視している明智光秀を通して信長に知られるのを恐れたのかも知れません。信長は平気で延暦寺を焼き討ちにするような奴です。本願寺もいつそうなるかわかりません。するとやはり将軍家からの助けが必要になるという事です。上杉殿にも打診をしているようですが、返事は芳しくないとの事。義昭様。あの信長を始末する為、この国を守る為、力を貸していただけないでしょうか。」

 そう言うと義栄は頭を下げた。義昭は慌てる。

「頭を上げて下さい。言われるまでもなく、近い内に信長に対して挙兵する予定でおります。謙信も協力してくれていますし、本願寺への援助も請け負います。蓮如にそう伝えて下さい。」

「本当ですか?」

「はい。」

「良かった……これで安心して死ねます。」

「えっ?」

 驚いて義栄の顔を見つめると、義栄は儚い笑みを浮かべた。

「私はもう長くないのです。不治の病でしてね、余命は半年とか三月とか言われております。実はここに来るのも難儀で、やっとの事で参りました。」

「そうでしたか……」

 義昭が呟くと、義栄は笑みを浮かべたまま立ち上がった。

「それではこれで失礼します。本願寺の事、どうか宜しくお願いしますね。」

「承知致しました。」

 義昭が頭を下げると、義栄は来た時と同じく音も立てずに部屋を出て行った。


「本願寺、か。大きな荷物を引き受けてしまいましたね。」

 しばらく呆然としていた義昭だったが、溜め息交じりにそう呟いた。




―――


 岐阜城、大広間



「ほぅ……足利義栄が御所に、ね。病に臥せっているというから見逃してやったというのに今更出てきて何の用事で義昭に会ったというのだ?」

 信長はそう言うと、目の前の光秀を鋭い目で睨んだ。


「どうやら本願寺の蓮如が援助を求めてきたそうなのです。義栄を通じて義昭に話が通るよう、画策したものかと。」

「本願寺か。そう言えばまだ潰していなかったな。色々あって忘れていた。」

 信長はふんと鼻で笑った。その隣で蘭は冷や汗をかいた。光秀は続ける。

「信玄が死んだ事は蓮如の耳にも届いたようで、慌てて将軍家に泣きついたのでしょう。如何致しますか?今の内に本願寺を攻めましょうか?」

「いや、義昭が動くのを待ってからにしよう。本願寺と共に挙兵するつもりなのか、それとも上杉と協力して攻めてくるのか。はたまた単独で来るつもりなのか。それからでも遅くない。」

「しかし……」

「義昭は俺に対して反旗を翻そうとしている。こちらが先に動く訳にはいかないだろう。全ては向こうがどう出るのか確認してからだ。そしてその時が来たらお前が将軍を殺るのだ。いいか、二度目はないぞ。」

 どこまでも黒い瞳が光秀を射る。光秀は一度ビクッと痙攣すると、静かに頭を下げた。

「わかっております……」

「それならいい。早く戻って義昭の動向を探れ。」

「……はい。」

 光秀は顔を伏せたまま一礼すると、部屋を出て行った。


「大丈夫でしょうか、光秀さん。」

「大丈夫だ。義昭を殺らなければ自分が俺に殺られるという事はわかっているはず。いざとなったら冷静に始末してくれるさ。」

「ですね……」

 蘭は心配そうに廊下の向こうを眺めていたが、徐に信長に向き直って言った。

「タイムマシン作りは順調にいっているみたいです。この間蝶子が言っていました。」

「そうか。市に無理はさせていないだろうな。」

「そこはちゃんと考えていて、市様の体調を見ながら少しずつやっているようです。」

「ならいいが。」

 信長は帯から扇子を取り出すと、音を立てて開いた。


「あの~……」

「何だ。」

「えーっと……いえ、何でもありません。すみません……」

「何だ、言いたい事があるならはっきり言え。」

「いえ!やっぱり何でもありません!し、失礼します!!」

 蘭は慌てて立ち上がると、一目散に部屋から逃げ出した。


(武田信玄が死んだのが4年も早いなんて……言えない!)


 信玄が死んですぐ、蘭はテキストを確認した。それによると4年も早い事がわかったのだ。そうなると本能寺の変も早まる可能性がある。それを信長に言うかどうか迷ったのだが、結局言えなかった。


(今日の光秀さんのあの様子……信長に憧れていると言ったあの頃と全然違った。これは何とかしないとヤバいかも……)


 蘭がこの世界に来てすぐの頃、キラキラした目で信長の事を語った光秀の姿が脳裏を過る。あの時は本当にそう思っていたし、これからもその気持ちがずっと続くと思っていた事だろう。しかし今は何処か違う。想い合っていた市と引き剥がされて別の女性と結婚させられ、その上新しい家族とも離れ離れにされて、やりたくもなかった仕事を任せられ、今度は長年仕えていた人間を裏切れと言われた。


 今日見た光秀の目は暗く濁っていて、蘭は込み上げてくる嫌な予感に体が震えた。



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