絞り出した遺言
―――
それから一週間が経っていた。信雄と信孝はそれぞれの家に帰り、信忠は宇佐山城へと戻った。蝶子は信忠と入れ替わりに岐阜城に帰ってきており、今頃市と中庭で未来と交信しながらタイムマシン作りに精を出している事だろう。
一方蘭は大広間で信長と今後について話していた。
「朝倉と浅井が滅んですぐにでも上杉が動くと思ったが、未だに何も起こらない。京都からの連絡もないし、将軍様は何を考えているのか。余りにも平和で体が鈍ってしまいそうだぞ。」
信長はそう言うとごろんと畳に寝転んだ。
(まぁ、嵐の前の静けさ……っていう事もあり得るけど。)
蘭は苦笑しながらそんな信長を見た。
信長は朝倉・浅井を滅ばした後の上杉対策として柴田勝家を越後に残してきたが、中々動かない謙信に業を煮やし始めていた。それと京都の光秀からも何の連絡もなく、将軍・義昭がどういう状態でいるのかもわからない。これでは流石の信長も動けずにいたのだった。愚痴を溢したくなるのもわかる。
(それにしても光秀さんに何のお咎めもないのが若干不気味なんだけど……)
そう、光秀は信長からの将軍を討てという命令を無視して勝手に行動した。それに対し何かしらの罰があるのかと心配したが、特に何もなかった。今でも光秀は将軍を警護、監視する職務に就いている。連絡がないというのは果たして良い事なのか、それとも……
「信長様。徳川殿がいらっしゃっています。如何致しましょう。」
そこまで考えていた時、秀吉が音もなく現れてそう言った。信長はゆっくりと起き上がると首を傾げる。しかしすぐにハッと顔を上げると秀吉に向かって言った。
「早く通せ。」
「はい。」
「家康さん、何の用事でしょう?」
蘭が聞くと信長は口端を歪めた。
「あいつが突然来るという事は誰かの未来を見たという事さ。さて、誰の三日後を見たのか、楽しみだな。」
信長はくくっと喉を鳴らした。
―――
「お久しぶりです。信長様。」
「活躍は聞いておるぞ。三河はほとんど掌握したそうじゃないか。」
「はい。時間は思ったよりもかかってしまいましたが。」
「謙遜するな。ところで今日は何の用事だ?また誰かの三日後を見たのだろう?誰だ?」
信長が鋭い目で家康を見る。しかし家康は表情を変えずにこう言った。
「信玄です。武田信玄は三日後に……死にます。」
「……え?」
声を出したのは蘭だった。信長は僅かに眉を動かしただけで黙っている。家康は続けた。
「実は半月程前、勝頼から文が届きました。内容は、信玄の体調が急に悪くなって今まで言う事を聞いていた者達が次々と離れていっている状態であるとの事。こうなっては頼れるのは私しかいない。遠江国の半分を渡すからもう一度同盟を結んでくれと言うのです。そして一緒に織田を攻めようと。私は思わず笑ってしまいましたよ。あの無敵で誰からも恐れられていた武田が、私なんぞに助けを求めるとは。そしてあろう事か信長様を攻めろとまで言ってくるとは。」
そう言うと家康はさも可笑しそうに笑った。信長もふんと鼻を鳴らす。
「武田も堕ちたな。味噌作戦を仕掛けたのは俺だが、こうも思い通りにいくとは。……本当に信玄は死ぬのだな?」
「はい、間違いありません。私は文に書いてあった話に乗るフリをしました。条件を飲み、同盟を結ぶと返事を送ったのです。すると案の定、織田を攻める計画書を寄越して来ました。それによると今日から三日後に甲斐を出発すると書かれていました。私はそれに途中から合流するという流れで決まりました。そうと決まれば私がやる事は一つ。すぐに信玄のところに行き、未来を見ました。……信玄は病をおして軍に参加しますがここに着く途中、つまり徳川軍と合流する一歩手前で力つきます。」
表情一つ変えずにそう言い放つ。蘭は聞きながら体が震えてきた。
「命火が残り僅かとなった時、信玄は遺言を残します。」
「遺言?それは何だ?」
「それは―――」
―――
三日後、武田軍
「父上。大丈夫でございますか?やはり城に戻って休んだ方が……」
「心配いらん。今日はいつもより具合が良い。それにやっとあの悪魔を滅ぼす事が出来るのだぞ?わしが行かなくてどうする。この日をずっと待っていたというのに。」
信玄は無理して笑顔を見せながら言った。勝頼はしばらく心配そうな顔で見ていたが、やがて諦めたように首を振った。
「少しでも具合が悪くなったら言って下さいね。医者も連れてきているのですからすぐに診て貰えますよ。」
「わかった、わかった。それより家康との合流場所はまだか?そろそろだと思うが。」
信玄が輿の隙間から遠くを眺める。勝頼もそっちの方向を見ながら言った。
「もう少しのはずです。」
「そうか。ではわしは少し休む。着いたら起こしてくれ。」
「わかりました。」
勝頼がそう言うが早いか、信玄はそそくさと寝る体勢になる。そしてしばらくすると規則正しい寝息が漏れてきた。
「まったく……無理はするなとあれほど言ったのに。」
具合が良いなどというのは信玄の見栄である事は一目瞭然だった。本当は体のあちこちが痛み、起きているのがやっとの事だろう。勝頼は家康と合流しても起こさないでおこうと思った。しかしその時、輿の中から苦しそうな声が聞こえて慌てて覗き込む。
「う、うぅ……」
「父上!どうしました!?」
「胸が……苦しっ……」
「い、医者を呼んできます!」
「待て!」
「え……?」
今にも駆け出しそうな勝頼を信玄の力強い声が遮る。こんなに苦しんでいるのに何処から出たのかと思う程の迫力のある声だった。
「父上……?」
「勝頼……わしはもう駄目だ。医者を呼んでもどうにもならん。このまま……」
「何を言っているのです!織田を滅ぼすところを見ないでどうするのですか!」
「織田信長……か。あいつは本当に悪魔だ。それも運の良い悪魔。わしがここで息絶えればますますあいつの独裁が加速するであろう……悔しいがな。」
「父上……」
「わしが死んだ事は向こう三年は誰にも知らせるな。わかったな。わしの最期の……頼みだ。」
「そんな……まるで遺言みたいな事を……しっかりして下さい!今からでも遅くありません。とにかく医者を……」
「勝頼!」
「っ……!!」
「今まですまなかった……四男に生まれて一度は他の家に養子に出したが、わしの我が儘で戻ってこさせて強引に家督を継がせた。兄弟の全てを亡き者にし、お前だけをわしの言いなりにさせた……」
「私は自分の意志で父上のお側にいました。だからそういう言い方は止めて下さい。」
勝頼の目からは大粒の涙が止めどなく溢れてくる。信玄は痩せて骨だけになった手で勝頼の頬を撫でた。
「いいか。三年はわしの死を知られないようにしろ。……わかった、な……」
「父上!」
パタッとその手が落ちる。信玄は一度痙攣したように体を震わせると静かに目を閉じた。
「父上―――!!」
勝頼の叫び声が辺りに響いた。
無敵で無双だった武田信玄は、何処の地とも知れない場所で永遠の眠りについた。
―――
「三年は誰にも知らせるな、か。あの武田信玄が死んだとなると世の中が混乱しかねない。すぐにでも戦が始まるだろうからな。今の勝頼にはそれを跳ね返す力はないから、その力が整うまで三年はかかるとみての遺言という訳か。信玄も人の親だったのだな。」
『向こう三年は死を誰にも知らせるな。』
信玄の遺言を家康から聞いた信長はバカにしたように半笑いで言った。蘭はというとその話を聞いて涙ぐみながら思った。
(きっと心の底から絞り出した遺言だったんだな……親として子どもに辛い思いをさせない為の。それを信長は聞いてしまった。一体これからどうするつもりなのか。)
「サル。」
「お呼びでしょうか。」
すぐさま秀吉が現れる。信長は立ち上がると膝をついて頭を下げる秀吉に向かって言った。
「武田信玄が死んだ。越後と京都にこの情報を流せ。いいか、三日後だ。」
「はっ!」
「…………」
何となく予想していた事だったが、蘭は余りの事に声が出なかった。それにも関わらず、信長はその黒い目で家康にこう命令した。
「遠江国の武田の領地を奪え。今の武田は恐れるに足りぬ。わかったな。」
「はい。承知致しました。」
深々と頭を下げる家康を、蘭は複雑な顔で見つめた。
―――
永禄12年(1569年)、『念力』の超能力で人の心を操り無双を誇っていた武田信玄は、信長の手によって亡き者にされた。
苦しみの中で絞り出した遺言は呆気なく白日の下に晒され、少しずつではあるが膠着状態だった現状が動き始めたのだった。
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