甲斐の虎暗殺計画

黒い瞳


―――


 甲斐、要害山城



「もう我慢がならぬ。我が国の財産とも言える延暦寺を燃やすなど、あの悪魔は何を考えてるのやら……」

 信玄はそう言うと深く溜め息を吐いた。対面する息子の勝頼も頷きながら溜め息をつく。


「やはりあの時潰しておけば良かったな。あいつが今川義元を滅ぼしたすぐ後に。」

「そうですね。そうすればこのような事には……」

「まぁ、過去を悔やむのは時間の無駄だがな。大事なのはこれからどうするか。あの悪魔を亡き者にするには何をすればいいのか。期待していた信長包囲網も苦戦しているようだし、ここは一つあの方にご協力頂かんとな。」

「あの方、とは?」

「もちろん天下の将軍様じゃよ。」

 信玄はそう言って不敵に笑った。


「……っ…」

「信玄様!失礼します!」

「おぉ、どうした。随分慌てているようだが。」

『将軍』という言葉に勝頼が息を飲んだ時、信玄の家来が慌てた様子で部屋に入ってきた。


「それが……自分はあの比叡山の火事で延暦寺から逃げてきた僧だという者が訪ねてきたのですが……」

「何っ!?それでその者は?」

「はい。大分衰弱していたので一応中には入れましたが……どう致しますか?」

「わかった。わしが相手をする。今すぐ連れてこい。」

「だ、大丈夫なのですか?延暦寺から逃げてきただなんて本当かどうか。ただの浮浪人かも知れないではないですか……」

 勝頼がそう言って心配げな顔を見せるも、対する信玄は何でもない事のように笑って立ち上がった。


「心配いらん。例え嘘でも話くらいは聞こうではないか。」

 そう言って大広間に向かった。



―――


「突然のご無礼失礼しました……命からがら逃げ出してきて…頼るところも身を寄せるところも…なくて……信玄様なら、私の最後の願いを聞いて下さる……と思って……」

 延暦寺から逃げてきたというその僧は、途切れ途切れに声を絞り出した。喋るのもやっとの事で全身は火傷だらけ。山を下りてここまで歩いてきた為に相当疲れきっていて、加えてろくに食事も取っていないようで栄養失調でふらふらしていた。もう今にも崩れ落ちそうだ。


「最後の願いとは?」

「延暦寺を……延暦寺を再建して頂き、たいのでございます……私以外の者は…全員死にました……あの、あの悪魔が……!覚恕様も、大切な…ご本尊も…全て、焼き尽くして……」

「おい!大丈夫か!?」

 ついに畳の上に倒れ込んだ僧に勝頼が駆け寄る。そして痙攣し始めた姿を見て困った顔で信玄の方を見た。信玄はその様子を見て小さく首を振った。


「もう無理であろう。しかしよくここまで辿り着いたと褒めてやらんとな。こやつの最後の願いは必ずこの信玄が叶えてみせようぞ。」

「父上……」

「せめて手厚く葬ってやれ。犠牲になった僧達や失ってしまった我が国の宝の分までな。」

「……はい!」

 もう既に動かなくなった僧を一瞥すると、信玄は静かに開け放たれた庭の方へと視線を投げた。



―――


 京都、二条城



 第14代将軍・足利義昭は、武田信玄からの文を読み終わってふぅっと息を吐いた。


「信長包囲網と延暦寺の再建に協力して欲しい、ですか。」

「如何なさいますか?義昭様。」

「う~ん……信長とは殿中御掟で繋がっていてつかず離れずの関係を保っていましたが、流石に最近の行いは目に余るものがありますね。比叡山を焼き討ちにするとは信じられない。このまま放っといたらいつかこの京まで奴にやられてしまうかも知れない。」

 そこまで言うと文を丁寧にしまう。そして決意を込めた瞳で従者を見据えた。


「関東菅領、上杉謙信を呼びなさい。」



―――


「ほぅ。信長包囲網と延暦寺の再建を将軍様に頼むとは信玄も中々やるな。」

「感心している場合じゃないですよ!どうするんですか?」

 落ち着いた様子の信長に向かって蘭は焦った声を出す。信長はふんと鼻を鳴らすと、目の前にいる家康を見た。


「まずは家康に礼を言うのが先だな。信玄の三日後を『予知』してくれたのだから。」

「あ、そうでした……家康さん、本当にありがとうございました。」

「いえいえ。当然の事をしたまでです。浅井・朝倉との戦いや先日の比叡山の件で信玄がそろそろ動くのではないかと予想できたものですから、最近ずっと張り込んでいたのです。そうしたらその延暦寺から逃げてきた僧が信玄を訪ねるところが見えたので。」

 家康はそう言って微笑んだ。蘭は『ほーぉ』と感嘆の声を上げる。


「信玄が義昭に頼んだからといって直ぐ様何かが起こるとは思えんが、ここで面倒なのは上杉が出てくるという事だな。」

「そうですね。謙信は関東菅領ですから、義昭は必ず謙信に連絡をとるはず。武田と上杉は密約を結んでいますし、厄介な相手がまた一つ増えましたね。」

「取り敢えず浅井・朝倉、そして本願寺の方はさっさと片付けるとするか。ところであの件はどうだった?」

「あの件?」

 信長の言葉に蘭が首を傾げながら聞き返す。すると家康は慌てたようにきょろきょろと辺りを見回した。


「木下殿や柴田殿は……?」

「あぁ、今はいない。それがどうした?」

「良かった。この話はここだけでお願いします。」

 家康は声を潜めると話し出した。


「延暦寺を包囲する事が事前に洩れていた件ですが、あれは明智殿がこの岐阜城で他の家臣の方達に焼き討ちの事を報告した時の会話が、浅井の忍者に聞かれてしまった事が原因です。」

「何っ!?」

「それ、本当ですか!?」

「はい。実は私、信長様に言われて明智殿の事も時々監視していまして……」

「えっ!?」

 気まずそうに頭をかく家康にそう言われて蘭は飛び上がった。


「ど、どうして光秀さんを……?」

「一応な。最近のあいつは妙に俺に意見するから万が一の為の保険さ。まぁ、家康も自国の平定や武田・北条との兼ね合いで忙しいから頻繁には頼めんが。」

「いえ。私の事は気にしないで下さい。三河には信頼出来る家臣が何人もおりますし、この力が信長様のお役に立てるならいくらでも使って下さい。」

「わかった、わかった。お前の力にはここぞという時に助けてもらっているからな。今後もよろしく頼むぞ。」

「はい。」

 嬉しそうに返事をする家康を、蘭は複雑な顔で見つめた。


(俺だって役に立てるんだからな!)

 そう心の中で思いながら……


(しかし何で信長は光秀さんを監視してるんだ?……まさか、まさか光秀さんがいつか謀反を起こすかも知れないって本気で疑ってる……?)

 そこまで考えたところで首を振る。こんな事信長の『心眼』の力で視られてしまったら大変な事になる。そう思いながらそっと信長の方を窺うと、家康との話に夢中になっていて気づいていない様子だった。蘭はホッと息を吐く。


「お前は取り敢えず三河へ戻れ。用事が出来たらまた呼ぶ。」

「はい。それではこれで。」

「あぁ。」

「あ……き、気をつけて下さいね。家康さん。」

「ありがとう。蘭丸君。」

 家康は蘭に向かって軽く手を上げると大広間から出ていった。


「さて、蘭丸。お前に言っておきたい事があるのだが。」

「え?何ですか?」

「信玄の息子の勝頼に嫁いだ俺の養女の事は覚えてるな?」

「あ、はい。信長様の妹さんの娘さんで、俺が美濃まで迎えに行った……」

 言いながら思い出していた。信玄との同盟の為に犠牲になったあの幼い女の子の事を。


「龍勝院というのだが、その娘を介して信玄に届け物をしようと思っている。」

「届け物って何ですか?」

「味噌だ。」

「味噌……」

「謙信が塩が無くて困っていた信玄の元に、敵でありながら塩を送ってやったという話があるのだ。真偽の程は定かではないがそれを真似てな。」

「いいじゃないですか。尾張の味噌は美味しいですからね。」

「その味噌に毒が入っていてもか?」

「え……?」

 信長の言葉に蘭は固まった。恐る恐る信長の顔を見上げる。


 そこで出会った瞳はどこまでも真っ黒だった。



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