9.鴉

 バスルームから出て来たユキさんは黒いパーカーに黒いジーンズ姿でメイクもしていた。


「ゴリ、ハナを見てて。ハル、ちょっと顔貸して」

 そう言ってユキさんは僕をビルから連れ出し、公園を通り抜けた先にある喫茶店に入った。

 純喫茶というのか。

 昭和な香り漂うレトロな喫茶店といえば聞こえはいいが、なんていうかまだ営業してるんだ、と思うほどボロい喫茶店だった。

 カウンターに並んで座るが、店内には客どころか店の人もいない。

 店の戸を開けた時にカランとベルが鳴ったはずだが、誰一人として店の奥から出て来る気配はない。


「ハナは耳がいいけど、全ての声が聞こえる訳じゃないの。ここならハナには聞こえないわ」

「内緒話、ですか?」

「……ハナを囮に使う。墨守は謎の組織よ。私にもヤンさんにもその全容は掴めない。だから、ハナを利用するの」

「でも、ここで内緒話したって戻ったらハナちゃんにはバレてしまいますよ?」

「大丈夫。これをあげる。あんたも何考えてるかバレるのは嫌でしょ?」

 そう言ってユキさんがカウンターに置いたのは黒い石が付いたピアスだった。

「……でも俺、穴開けてない……」

 言いかけた俺の目の前にピアッサーを手にユキさんはニコリと笑った。

「私、得意だから。痛くないから大丈夫」

 ごくり。

 唾を飲み込んだ。

 ユキさんの笑みが悪魔の笑顔だったからだ。

 カウンターの中に入り、冷凍庫から氷を取り出し、俺の左耳朶に押し当てる。

 冷たくて思わずビクリとなる。

「緊張しないで、力抜いて」

 耳元でユキさんが囁く。

 甘い声と吐息に緊張するなという方が無理だ。

 消毒液じゃなくてカウンターに置いてあったウォッカで消毒された。

 アルコールには違わないけど。

「さ、数えるわよ。その前に息を吸って……吐いて……」

 ガチャッ。

 カウントする前に音がした。

「痛くなかったでしょ?」

 確かに痛くはなかったけど。

「頑張ったわね」

 エライエライ、と子供をあやすように頭を撫でられ、馬鹿にされてるみたいで少し気分が悪かった。

 再度ウォッカで消毒され、ピアスを付けられた。


「大丈夫。これスピリタスだから九八度あるし、消毒には持って来いでしょ?」

 いや、そんな心配は……って九八度ってそれは酒なのか?

「私も付けてる。一度触れるとオン、もう一度触れるとオフ。オンの間はハナには頭の中を見られないから。常にオンにしておくとハナに疑われるから時々ね。大事なとこだけオン」

「そんな簡単に切り替えられないですよ」

「そこは訓練ね。ハナに不信感を持たれて思い通りにならないのは困るわ」

「思い通りって……」

「これから利用するって言ったでしょ? 囮として役に立ってもらわないと困るもの」

「ハナちゃんは物じゃないですよ?」

「分かってる。感情がある分、物よりも厄介だわ」

「でも物みたいな言い方……」

「まだ実感がないのね? 相手にしてるのは墨守、得体の知れない巨大な組織なのよ? こちらの切り札はハナしかいないの。それだけで戦おうっていうんだから切り札を上手く使わないと勝てるものも勝てないわ」

「……ハナちゃんを守る為に動いているんですよね?」

「そうよ?」

「守った後……どうするつもりですか?」

 俺の質問にユキさんは人が悪い笑みを浮かべた。


「神話だったか寓話だったかにカラスの話があるの、知ってる? カラスは元々白かったって話」

「……聞いたことある気はしますが、どんなのでしたっけ?」

「ある時ね、神様が鳥の王様を決めることにしたの。一番綺麗な鳥が王様ってことでいろんな鳥がそのコンテストに参加したのね。で、カラスはただ真っ白なだけだったから、いろんな鳥の羽根を集めて自分の体にくっつけて誰もが彼こそが王様だって思ったんだけど、よく見たら自分の羽根があるじゃない? それでそれぞれが自分の羽根を引っこ抜いてただの真っ白なカラスだってバレたのね。で、ズルしたことを神様が怒って真っ黒にしちゃったの。だからカラスは黒いの」

「ああ、そんな話ありましたね。でも黒い理由って他にもありましたよね。一生喪に服してろって神様に言われた話とか、いろんな色のインクを浴びて結局真っ黒になるって話とか……こんがり焼けて黒くなった話なんてのもありましたっけ?」

「あら、詳しいのね?」

「子供の頃、寓話とか神話とかいろいろ読みましたから。こう見えて本が好きだったんです」

「過去形ね?」

「今は読む暇ないですから」

「潜入捜査官だもんね」

「……潜入捜査って違法なんですけどね。外国じゃ結構当たり前なとこもありますけど、日本はまだ表立ってやってはいけないんですよ」

「らしいわね。でも民間でもやってる探偵もどきがいるわよ?」

「らしいですね。危険なだけで給料そう変わらないですから……ってなんでカラスの話なんですか?」

「潜入捜査ってカラスみたいなものでしょ? 白いってのを隠して潜り込む」


「……え?」

 嫌な予感しかしない。


「ハナを送り込むの。ハナだって知られないようにね」

「ハナちゃんはまだ八歳ですよ?」

「そう。だから保護者同伴でね」

 そう言ってユキさんは僕の鼻を指差して、ちょん、とつついた。


「オ……俺?」

「プロでしょ?」

「プロって……でもユキさんにはすぐバレたじゃないですかっ」

「私もプロだもの。それにハルのことは前から知ってたし」

 前って『あの時』の話か?

「大丈夫。今度は私もバックアップするし、ゴリやヤンさんもいるもの」

「でもどうやって……?」

「そこは私に任せて。でも、ハナには一切内緒よ?」

「一切って無理ですよ。ピアスのオンオフなんてそう簡単に頭切り替えられないですっ」

「……じゃ、ずっとオンにしてて。不審に思われてもいいわ。エッチな考えが子供の教育上良くないからって言い訳してくれれば」

 その言い訳はご尤もだけどなんだかちょっとダサい。


 でも。

 ユキさんはこう言ってるけど、ハナちゃんを騙すなんてやっぱり俺は気が引ける。

 それに。

 ユキさんは本当にハナちゃんを守る為に動いているんだろうか。

 ハナちゃんを独り占めして利用する為に動いているんじゃないだろうか。

 本当はユキさんは悪者で、敵と思っている方が良い人なんじゃ……?


 そんな考えが浮かぶ。

 でもハナちゃんがユキさんを信頼している風だから、やっぱり味方なのか。


 カラスの話で思い出した。

 餌をたくさん貰える鳩を見たカラスが体を白く塗って鳩の中に入れてもらうが、鳴き声でバレて追い出されるんだ。

 そしてカラスの仲間の元に戻るんだけど、体が白いからってそっちも追い出されるって話。


 囮作戦は上手くいくんだろうか。

 相手は裏の裏を牛耳る巨大な組織で、全ての悪事は彼らの掌っていう凄いのが相手だ。

 いくらユキさんでもそんなの相手に勝てるとは思えない。


「なぁに? 今頃実感湧いて来たの?」

「……裏の裏を牛耳ってる相手に勝てるんですか?」

「一応、私も裏の裏でプロなの。何の考えもなく動いてる訳じゃないわ」

「裏の裏って……でも、墨守を知らなかったんでしょう?」

「噂程度に聞いたことはあったわ。名前まで知らなかったし、興味もなかった。本当に存在するのかどうかも怪しかったし……」

 そこでユキさんはチラと店内にあった古びた壁掛け時計を見上げた。

「そろそろ戻りましょ。あんまりハナを一人にしたくない」

 確かに安全な場所にいるとはいえ、ゴリ一人に相手させるのはいろんな意味で不安だ。


 店を出ながらふと思う。


 情報屋や殺し屋やってるなら、噂話程度とはいえ、そんな組織の話を聞いたら興味を持つんじゃないだろうか。

 少なくとも情報屋としては知っておかなければならない情報じゃないだろうか。


 俺のユキさんに対する不信感は徐々に首をもたげ始めていた。

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