地獄のボイトレ
―――
「あーあーあーあーあー」
「ミの音が低い!」
「あー」
「ダメ、今度は高い!」
「え~~!?」
「え~~!?じゃない!はい、次!ミーソードーソーミー」
「ミーソー」
「ソが低い!」
「はぁ~……」
吹雪のあまりのスパルタに思わずため息が出てしまった。途端、鋭い視線が飛ぶ。
「ご、ごめんなさい……」
「もう……こんなの基本中の基本でしょ?大丈夫なの?」
「うっ……!」
痛い所を突かれて黙る俺を見て、吹雪がさっきの俺以上に深いため息をついた……
吹雪のスパルタボイトレが始まって数日。俺は最初から躓いていた。
何しろちゃんと基礎を習った事などないのだ。キーボードで音を鳴らして『♪ドミソミドー♪』ってやられてもよくわからない。
氷月との練習ではとりあえず練習曲を歌って、氷月からダメ出しをくらうっていうのがいつもの流れだったからどうにも勝手が違うというか。
「これでよく今まで歌ってたわね……」
「ははっ……ノリと勢いで何とか……」
申し訳なさげに頭をかきながら言うと、『ふんっ!』と鼻で笑われた。酷い……
「折角声質はいいんだから、ちゃんと段階踏んで練習すればもっと上手くなれたのに。もったいない。」
「はぁ……」
「でもまぁ、今からでも遅くないわ。嵐、もっともっと頑張るわよ!大丈夫。私がついてる!」
鼻息荒く力説する吹雪とは反対にみるみる青ざめる俺。
練習というよりもはや拷問と化しているこの状況に、全身から嫌な汗と本音が溢れ落ちた。
これじゃあ氷月の方がまだましかも!
「うぃーっす……」
精魂尽き果てたといった体の俺がスタジオに入ってくると、そこにいた風音と南海ちゃんがビックリした顔で近寄ってきた。
「大丈夫?……じゃないね。魂抜かれた顔してる。」
「ほ、ホントだ……ごめんね、嵐君。吹雪ってば容赦なくて。」
「いや、このくらい何でも……」
『ない』と続く言葉は倒れ込んだソファーのクッションに沈んだ。
ついさっきまで三時間に渡る拷問……じゃなかった、特訓を受けてやっと解放されたのだ。もう身も心もボロボロだ。
だって南海ちゃんが言うように吹雪の奴本当に容赦なくて、高いキーは出ないって言ったら『無理矢理にでも出せ』とか無茶な事言うし、声が枯れてきたから水飲ませてくれって頼めば『私だって飲みたいのに我慢してるんだから終わるまで我慢して。男でしょ?』なんて訳わかんない事言うし。何だよ、男だからって渇くもんは渇くだろ!
「嵐君……」
「んあ?…あ、南海ちゃん……」
か細い声に顔を上げると南海ちゃんが心底申し訳なさそうな表情で立っていた。思わず体が跳ねてその勢いでソファーが少しずれる。
吹雪に対する免疫はだいぶついたけど、南海ちゃんにはまだ慣れていないようだ。それはそうか。今日まであまり話した事ないんだから。
「コーヒー飲む?」
そう言って差し出してきた右手を見ると、すぐそこの廊下にある自販機の缶コーヒーが握られていた。
「お、おう……サンキュー」
手が触れないようにそっと受け取ると、赤くなっているであろう顔を隠すように一口飲んだ。
「疲れてるみたいだね……」
「んー、……まぁな。」
「練習辛い?」
「え?」
「あの子、良くも悪くも真っ直ぐだから。こうと決めたらどんな事があっても諦めない。嵐君に上達してもらいたい一心でやってる事なのはわかってるけど、見ていてハラハラしちゃって……」
あぁ、わかった。心配なんだな、吹雪の事が。
そうだよな。あいつは有言実行タイプって感じだから、宣言したからには俺がそれなりに成長しないとこの拷問……もとい特訓はやめないだろうから吹雪の体が心配なんだ。それか、吹雪自身の練習が出来ない事を相棒として気にしてるとか。
「まぁ大丈夫じゃねぇか?何ていうかその……あいつタフそうだし。それに……」
「吹雪の事じゃなくて嵐君の事!」
「へぇっ!?」
突然南海ちゃんが大きい声を出したから危うくコーヒーを溢すところだった。慌てて両手でしっかりと持ち直す。
「あ、ごめん……」
「あーあ……嵐ってば鈍感なんだから。」
南海ちゃんの小さい声に被さって聞こえたのは風音の声だった。どうやら俺達の会話をベースを弄りながら聞いていたらしい。呆れた顔でこっちを見ている。
「南海ちゃんは嵐の事を心配してるんだよ。」
「え……?」
「僕達だって心配だよ。吹雪ちゃん意外とスパルタだし。でも嵐にとってもバンドにとっても良い結果に繋がるならって親心にも似た気持ちで応援してるんだよ。」
「そ、そうなのか……?」
風音と南海ちゃんを交互に見ると、南海ちゃんは苦笑しながら頷いていた。
俺の心配、か……。こう面と向かって言われると照れるけど嬉しいな。吹雪だけじゃなくて南海ちゃんも仲間になったって感じるし。
「あ、ありがとな。」
目も合わせられないのがまだもどかしいけど、一歩距離が近づいたように思えた。
その時目の端で捉えた風音と南海ちゃんのほんわかした雰囲気に、疲れて下向きになっていた心が癒された気がした。
―――
「今日は嵐と吹雪、二人で歌ってみようか。」
次の日、氷月がとんでもない提案をしてきた。
俺はその時ちょうど一時間の特訓が終わって一息ついてたところで、気を抜いてただけに一瞬何を言われたのかわからなくて反応が遅れる。
「……は?」
「何だよ、それ!嵐と吹雪が一緒に歌う?そもそも嵐が駄々こねて組む件は白紙になったんじゃなかったのかよ!」
俺より先に声を出したのは竜樹だった。相当動揺しているのか、譜面を乗せる台が立ち上がった振動で倒れた事にも構わない様子で氷月に喰ってかかる。
「いやこれは組む、組まないは関係なしに歌わせてみたいんだ。そろそろ嵐も上達してると思うし、吹雪もここ最近歌ってないでしょ?腕試しっていう事でどうかな?」
得意の氷月スマイルで言われて流石の竜樹もさっきの勢いが失速する。
「吹雪は?どう?」
「わ、私はいいけど……」
隣の吹雪が俺の方をチラッと見てきた。そんな目でみられても……と思いながら目を泳がせて考える。
吹雪のスパルタのお陰で前よりは上手くなったと自分では思ってる。少しずつだけど自信もでてきた。けど……
「お、俺は……」
助けを求めるように皆の方を見ると、意外にも温かい瞳と目が合った。……竜樹だけは後ろを向いていたが。
「……俺は、歌ってみたい。」
「え……?」
思ったより小さい声しか出なかった。だけど吹雪には聞こえていたみたいで、隣でパッと顔を上げたのが見える。それに勇気をもらった俺は、立ち上がって全員に聞こえるようにはっきりと言った。
「俺、やるよ。吹雪と歌いたい。」
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