2018年10月7日 【金木犀】
通りを歩いていると、私の鼻先に甘い匂いがふわっとやってきて、口づけをして消えていった。秋になるとどこからともなく香ってくる、金木犀。私の心の奥底で眠っていた記憶が、オレンジ色の小さな花びら達にそっと撫でられて重い瞼を開ける。しかし、その強く甘ったるい香りが記憶を酔わせ、夢うつつの幸せな時間へといざない、また深い眠りに落としてしまう。それで、私はその記憶にはいつもたどり着けぬまま、どこか懐かしい気持ちにさせられてしまうのだ。そして、私はその感覚を好いていた。
しかし、今日は何かが違った。あのように優しく口づけをされたのは久しぶりだった。そのせいか、うっとりと花びらの毛布にくるまっていたはずの記憶がうなされている。そして、記憶が花びらを手で払おうと体をよじった瞬間、あろうことかその拳で心に大きな穴をあけてしまった。唐突にやってきた痛みと虚無感に私はその場に立ちすくむ。今まではそれなりに満ち足りていたはずの私の心が、急に何かを欲し始める。おそらくはその“穴”を埋めるために。何を欲しているのかはなんとなく分かっていた。
――口づけされた、あの金木犀に会いたい。
私は香りのやってきた方向に目を向けてみたが、一見それらしい木は見当たらなかった。そこへ風にのってまたあの香りがやってくる。それで、私はその匂いをたどってみることにした。
どのくらい歩いただろうか。気が付くと私は誰かの家の前に来ていた。木製の門の周囲は生垣で囲ってあり中の様子は見えなかったが、確かにこの先からあの甘い匂いが漂ってくる。どうしようかと思いつつ門を手で押してみると、ギイッと年季の入った音を立てながら門が開いた。周りをきょろきょろと眺めてから、“お邪魔します”と心の中で呟いて門をくぐる。家の住人と出くわしたらどうしようかとも思ったが、きっと出会うことはないだろうという変な確信が私の歩を奥へと進めた。
門の先、木造の平屋を裏手にまわったところに小さな庭があった。そしてそこには、オレンジ色の小さな花をたっぷりとその身に纏った一本の金木犀が、庭の端っこで風にくすぐられながら立っていた。そよ風が私のもとへ彼の甘い薫りを届ける。
……そう、彼。金木犀の木のそばに、一人の男性が立っていた。
「こんにちは」
彼は予想とは裏腹に、私に向かって微笑んだ。その顔と声は私をひどく安心させた。そして、なぜかは分からなかったが、とても懐かしい気持ちがした。見ず知らずの彼に、先ほどまでひどくうなされて混乱していた記憶が落ち着きを取り戻していくようだった。
「あの、すみません。勝手に入ってしまって。金木犀の香りがあんまりにも素敵だったものですから。どうしても近くで触れてみたくなって」
彼は微笑んだまま、少しだけ目を細めて私を見た。まるで、私を慈しむかのような、そんなまなざしだった。
「そうでしたか。それなら、どうぞ近くでご覧になってください」
「いいんですか?」
「もちろんです。もう何年も私以外にこの木を愛でてやるものがおりませんでしたから。あなたのような可愛らしい方が見てくだされば木も喜びます」
「あ、可愛いだなんて、そんな……」
急な言葉に自然と頬が赤く染まる。恥ずかしくなって伏せていた目でそっと彼を見ると、先ほどと変わらない微笑みで私を優しく見つめていた。心臓の鼓動を落ち着かせるように、ゆっくりと足を前に進める。
金木犀の近くに立つと、深く息を吸い込んだ。甘く懐かしい香りが体の内側を満たしていく。心に空いた穴にもその香りが吸い込まれていくのが分かった。
「通りでこの匂いを嗅いだ時、なぜだか心がざわついて……寂しくなって。この木をどうしても見てみたくなって」
このとき私は、自分が寂しいと思っていたことに気が付いた。
「では、触ってください」
「触る……?」
「ええ。この木を。触ってください」
言われるままに木の幹に触れてみる。少しごわごわしていて、ひんやりとしている。ふいに彼の手が私の手に重なる。彼の手は金木犀のそれに似ていた。
――あぁ。私はこれを求めていた。
「どうですか?」
「幸せな心地がします」
「それはよかった」
「けれど……」
「けど?」
「……まだ、寂しいんです。なにか心にぽっかりと穴が開いたようで」
彼の目を真っ直ぐに見つめた。
「……足りない」
「それなら」
彼が金木犀の花を指でそっと撫でると、オレンジ色の可愛らしい花が溶けていくように木から離れ、彼の手の中に収まる。
「これをお食べなさい」
彼の手が私の口元へ小さな花を運ぶ。
迷いはなかった。彼の指が唇に触れ、私はそれを受け入れた。舌の上に柔らかい花びらの感触。口いっぱいに広がった芳醇な香りをゆっくりと味わい、時間をかけてのどへと滑らせる。胃に落ちていく感触。鼻に抜けていく香りの余韻を味わっていると、彼の唇がふわっと、私の唇に重なった。
ほんの一瞬だった。けれど、それで十分だった。彼のひんやりとした唇が、私のぽっかりと開いた心の穴をふさいで温めてくれた。
彼の唇が離れていく。
「どうですか?」
「……すごく、すごく満たされた、幸せな気持ちになりました」
彼の口元に笑みが浮かぶ。
「それは良かった」
私の頬を水滴が濡らした。どうやら雨のようだった。次第にその感覚は狭くなり、どんどんと勢いを強めていく。彼も私もその場を動かない。
「折角の良い香りが、この雨ではもうダメでしょうか」
「そうかもしれませんね。この木ももう年寄りですから」
「あとどのくらいもつでしょうか」
「この雨が止むころには、きっと」
「でも私は、もう少しあなたとこうしていたいです」
「私もです」
雨に打たれながら、私は彼の手をそっと握る。そして、気が付いてしまった。
「私の心の穴は開いてしまったのではなく、あなたが入っていたところだったのではないかと思います」
彼が私を見て目を細めた。
「私は幸せ者ですね」
「……私は、あなたのことが好きでした」
「私も、ずっと、ずっとあなたのことを愛しています」
雨が止んだ。金木犀の花々は、その多くが雨に打たれて地面に落ちてしまっていた。別れの時間が近づいていた。
「金木犀、落ちてしまいましたね」
「そうですね」
「次は、いつ会えるでしょうか。早くしないと、私はまたあなたのことを忘れてしまう」
「いつでも、会えますよ」
彼は、金木犀の枝を折り、私に手渡す。
「私はずっと、あなたの側にいます。」
「おばあさん!」
後ろから大きな声が聞こえて、びっくりして振り返ると、傘をさした女性と男性が血相を変えた様子でそこに立っていた。彼のご家族かもしれない、そう思って私はあわてて頭を下げる。
「あの、すみません、勝手にお邪魔してしまって。どうしてもこの金木犀が見たくて、彼に無理を言って見せてもらっていたんです」
「彼?」
女性が怪訝そうに周りを見渡す。
「彼なんて、どこにもいないじゃないですか!」
「えっ、いや……」
振り返ると、そこに彼の姿はなかった。
「もう、心配していたんですよ!こんなにずぶ濡れになって……急に家からいなくなったかと思ったら……」
女性が私の側にやってきて、私の目線に顔を合わせてくる。女性の目には涙が浮かんでいる。私よりも女性のほうが頭一つ分大きかった。
「いいですか。ここはおばあさんの帰るおうちじゃありませんよ。ここはおばあさんが何年も前に住んでいたおうちです。今は私たちと一緒に暮らしてるでしょう?」
“おばあさん”。女性は私に向かってそう呼んでいる。そして私は彼女たちと一緒に暮らしている。よく知りもしない彼女と、クラシテイル。私の頭は混乱し始める。
「まぁまぁ。お前も落ち着けよ。母さんが脅えてる」
男性が女性の背中に手を添える。
「母さんの症状はだいぶ進行してるんだよ。この前の検査で医者が言うには、脳全体に委縮が見られてるって。今日のことは僕が悪かった。きちんと母さんを見ていなかったのは僕だ」
男性が私に向かって手を差し出す。
「でも、母さんが無事でよかったよ」
“母さん”。私は“カアサン”。
「ほら、手を握って。一緒に家へ帰ろう。……そういえば、母さんその枝どうしたの?」
男性が私の手元を見ている。よく見ると手には枝が握られていた。
「枝……何かしら」
男性がちらりと後ろを振り返る。
「金木犀の枝かな。……そうか、母さんは父さんに会いに来たのか」
「トウサン?」
「父さんはこの金木犀の木が大好きだったね。僕も久しぶりに見たな。でも残念、さっきの雨でやられちゃったか」
私が後ろを振り返ると、そこには無残にも散ってしまった金木犀の姿があった。
男性の運転する車の中で、私は手に握られた木の枝をじっと眺めていた。なぜ私はこの枝を持っているのかよく分からなかった。しかし、この枝は私を心底安心させてくれる、そんな気がした。
ふと、私の口元に甘い感触が広がり、心の奥底で眠る記憶が一瞬、そっと瞼を開けた。そこには、目を細めてこちらを見つめ、微笑む男性の姿があった。
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