順慶の嫁 その後の二

 犬山池田邸。

 乃恵と乃々は順慶の荷物を取りに池田邸を訪れた。荷物は順慶が襖絵に使う絵の具で、天王寺屋から池田邸に届いていた。代金を払うのは池田恒興なので一度、池田邸に届けて支払いを済ませる訳だ。荷物を管理しているのは恒興の側室の藤になる。なので彼女は乃恵と乃々を玄関先で出迎えた。今回の荷物は大した量ではない、一人で抱えられる程度だ。二人なら楽に運べるだろう。

 乃恵と乃々は荷物を藤から受け取り、深々とお辞儀をする。


「「ありがとうございます」」


「まいど、おおきにな。順慶はんにも伝えといて」


「はい」


 藤もにこやかに対応する。荷物は彼女の実家である天王寺屋から購入されているので営業スマイルは忘れない。


「そこの二人。お待ちなさいな」


 荷物を受け取り帰ろうとする二人を別の女性が呼び止める。僧侶の袈裟姿に白い尼僧頭巾を被っている女性。池田恒興の母親である養徳院桂昌だ。


「お義母様?」


「よ、養徳院様!?」「お、おはようございます!」


 藤は玄関に振り返り、養徳院の姿を確認する。彼女にしては珍しいなと感じる。養徳院ほどの人物だ、用事が有るなら呼び出せばよい。織田家内に断われる人物などほぼ居ないだろう。そんな人物が二人を見掛けて玄関先まで駆け寄って来たのだから、余程の用事なのかと感じる。

 乃恵と乃々は養徳院が突然呼び止めた事で恐縮し、その場で土下座しようとする。何か不手際があったのかもと思ったからだ。


「伏礼はお止めなさい。ここは私邸なので必要ありません」


「「は、はい」」


 しかし、養徳院は土下座しようとする二人を即座に止めた。ここは公式の場ではない、池田恒興の私邸だ。特別な客でも居ない限りは過度な礼は不要だと養徳院は指摘している。

 彼女も特別、ひざまずかれたい訳ではないが、格式ばった儀礼や作法が必要な事は理解している。納得しないのは彼女ではなく、家臣の方だからだ。目上の者に対して目下の者が跪かないのは無礼だと怒り出すのだ。

 ここは池田恒興の私邸なので家臣はほぼ居ない。居る家臣といっても恒興の側仕えをしている小西弥九郎と加藤弥次郎兵衛興順。あとは恒興の嫡男である幸鶴丸の世話を始めた加藤孫六と住み着いている前田慶くらいか。何れにしても、養徳院に五月蝿く物申す者は居ない。ならば二人が土下座するだけ無駄、着物が汚れるだけだ。ここは玄関先で外なのだから。


「筒井順慶殿の従者、乃恵と乃々ですね。貴女達にお話が有ります」


「な、何でございましょうか?」


 跪こうとしていた乃恵と乃々は養徳院に促されて立ち上がる。その様子はおずおずと、明らかに気後れした感じだ。自分達は養徳院に呼び止められる様な無礼を働いたのかと恐々としているのだ。

 それを知ってか、養徳院は二人に柔らかく優しい微笑みを向ける。


「そうかしこまらなくても良いのですよ。貴女達が今後どうするのか気になりまして」


「今後、ですか?」


 養徳院の様子から、怒られる話ではないと二人は安堵した。養徳院からの話は今後との事だが、何の今後なのか分からないので乃恵は聞き返す。


「順慶殿の正室に織田信長様の三女・秀子が入る事は聞きましたね?」


「はい」


「それを踏まえて、貴女達はどうするのか、これからどうなりたいのか。そのお話です」


 養徳院の言う今後とは、順慶の正室に織田信長の三女である秀子が決まって、二人はどうするのかという話だ。道としては二つしかない。順慶から離れるのか、順慶の側に居続けるのか。二人の答えは決まっている。


「出来ましたら、順慶様のお側に仕えさせて欲しいと思います」


「家女房になるのが良いと聞きました。側室の一番端にあると」


 二人の選択は『居続ける』である。彼女ら家族は他に行く宛も無い。そう乃恵は答え、乃々はその為に『家女房』になりたいと希望した。


「家女房ですか、成る程。その話は誰から聞きましたか?」


「犬山のお殿様です」


「やはり恒興ですか。あの子は説明が足りない時がありますね」


「「はあ」」


『家女房』という答えに養徳院はやはりという顔をする。そして、その情報源が恒興だと知ると、少し困った表情になる。彼女曰く、家女房の説明が足りていないそうだ。

 恒興は目標だけを話す傾向があり、詳細までは語らない事がある。養徳院はそれでは足らないでしょうと言いたい様だ。


「家女房とは屋敷において雑事を担当する者達の総称で側室を表す言葉ではありません。ですので、この池田邸にも数十人の家女房が居ますよ。それこそ、私より歳上の者も居ます」


「え?」


 家女房とは邸宅内で家事、育児など全般の雑事を行う者達の総称である。現代で言えばハウスキーパー、家政婦、家事代行等が該当する。当然だが、その人達が家の主の妻である筈がない。池田邸では多数の女中さん達が働いているが、中には古くから池田家に仕えていて養徳院よりも歳上の者も居る。つまり本来、家女房とは側室を表す言葉ではないのだ。


「妻としての家女房というのは、本来の意味ではなく、夫の都合で置かれるものです。つまり愛人が屋敷に居る理由を無理やり作っているだけなんですよ」


「「……」」


 恒興が言う家女房は、主が愛人を屋敷に置いておく理由として家女房という立場を与えているだけで、ただの言い訳の様なものだ。また、本来はただの家女房だった者を側室的な家女房にする場合もある。財閥の当主が屋敷で働くメイドにお手付きをした、みたいな感じだ。


「家女房になったからといって安泰でもありません。形式上ですが家女房の仕切りは正室の役目となります。なので正室に嫌われると家女房は追い出されます。普通、仲の悪い人を側に置きませんよね。夫の愛人なら尚更だとは思いませんか?」


「「う……」」


 つまり二人がなりたい家女房とは、主人がメイドにお手付きをしたが、メイドとして家に置き続けているという状態な訳だ。現代の奥様ならブチギレ必至だ。ここは戦国時代であり、2番目以降の妻である側室は容認されてはいる。だが、正室の内心は面白くないと理解出来るだろう。

 だから正室が一緒に住みたくないと言えば、家女房は屋敷から追い出される。だからといって放逐される訳でもない。正室の視界に入らない、人里より離れた場所のあばら家に移される事が多々ある。ムカつく愛人にお金を使う事を正室が承知する事は少ないから。主人としては自分の愛人を他の男が居る場所に行かせたくないから。


「私が言いたいのは、貴女達の未来は秀子の胸先三寸で変わる、という事です。下手を打つと、順慶殿の屋敷から離れた場所に隔離される事もあります。そういう方も私は存じ上げております」


「そんな……」


 家女房達を取り纏めるのは正室の役目だ。当主は家の外で武家を取り纏め、正室は家の中を取り纏めるのが、日の本武家の常識だからだ。したがって、家女房は正室の指揮下に置かれている訳で、ムカつく愛人をどう料理するかは、正室の心一つという事。そう、養徳院は指摘している。

 つまり彼女達が愛人的な家女房になるのなら、その扱いは正室である秀子の胸先三寸で変わるという不安定なものとなる。

 それを聞いて乃恵は青い顔になり絶句してしまう。家女房になる事が彼女らの安泰に繋がると考えていたのに、その実は正室である秀子の考え一つで変わる不安定極まりないものだった。


「では、諦めた方が良いのでしょうか?」


「いいえ。私は現実を知っておいた方が良いと思ったのみです。それを踏まえて、私からの提案です。貴女達も秀子の養育に参加しませんか?」


「え!?」「秀子様の!?」


 話を聞いた乃々は家女房を諦めるべきか、養徳院に尋ねる。その問いに養徳院は首をゆっくり横に振る。その必要はない、と。

 何事にも例外は存在する。正室と仲が悪いと追い出されるというなら、そもそも正室と仲良しなら問題は無いのだ。池田恒興の正室である美代と側室である藤がその典型例だ。

 美代が池田家に嫁いで来た時、藤は既に池田家に居た。そして二人は同日に祝言を挙げた。その後は正室としてはいろいろと足りない美代は空回りし、更に妹の千代の問題で一人追い詰められていく。相談したくても恒興との信頼関係は未だ無く、追い詰められていく美代を救ったのは藤だった。彼女は美代の苦境に気付き、武家が絡んでいると知るや美代を恒興の所に連れて行った。藤は恒興と美代を繋ぐかすがいとなったのだ。その後、美代と藤は姉妹か親友かというくらいの仲良しとなり、何をするにも二人でいる事が多い。正室が側室を追い出すなどという話が出る要素すらない。

 養徳院は秀子と二人がこの様な関係を築くべきだと主張している。だからこそ、養徳院は乃恵と乃々の姉妹を秀子の世話役に誘う事にしたのだ。


「はい。知っての通り、秀子はまだ赤ん坊です。手が掛かります、人手は幾ら有っても良いのです。幼年から世話してくれる者を秀子も嫌ったりはしないでしょう。上手く事が運べば、秀子は貴女達を『侍女』に選抜すると思いますよ」


「侍女?」「……ですか?」


 乃恵が侍女を知らないので素っ頓狂な声で聞き返す。養徳院相手に無礼だと思った乃々は隙かさず敬語を付け加えてフォローする。養徳院は変わらず微笑んでいたが。


「『侍女』とは官職の『侍従』に端を発する立場です。貴人にはべり従う者という意味で、武家の男性なら『近侍』『近習(近従)』という言葉になります。女性が置くのが『侍女』です」


 侍従という官職はかなり古くからある。というか、やる事は貴人の護衛と相談役みたいな感じなので侍従という言葉が無くとも役割はあった筈だ。その後に渡来人か遣唐使から侍従という言葉が付けられたという事だ。

 武士という存在はこの侍従という貴人に侍り従う者から発生した。護衛なのだから武力が必要だった。『さむらい』はこの侍従という官職に就けるくらいの身分の武士を指した言葉とされる。そして後年、武士はこの侍従を真似て『近侍きんじ』『近習きんじゅう(近従)』という言葉で側仕えを置いている。そして名家の女性達は『侍女』を側仕えとして置く。


「待って下さい!私達は農民出身ですのでとてもとても……」


「ふふふ。この侍女に身分出身は関係無いのですよ。官職の侍従には必要ですが、武家の大名でも近侍近習に身分出身は必要無いのです。大名本人が気に入った者を置いているだけですから。ここから城持ち大名に出世した者もいます」


 実は近侍近習侍女には身分制限が無い。主人が気に入った者を置いているだけだからだ。自分の側に置くのだから、身分が高かろうが嫌いな奴は置きたくない。

 この近侍近習から城持ち大名にまで出世した者は織田家にも存在する。羽柴秀吉がその一人である。彼は織田信長の草履取りから出世したと言われるが、それが信長本人に近侍していたという事だ。養徳院は名前を口にはしないが。

 他には武田家の高坂昌信が農民出身であり、武田信玄に気に入られて出世した。上杉家の河田長親は稚児として売られたが、上洛した上杉謙信が気に入って連れ帰り家臣とした。彼等は歴史に名前を残す程、優秀だった。


「なので、大名の近侍近習に見習い、女性も侍女を身分出身に関わらず置くのです。正室や身分の高い側室は必ず。ならば頼りになる者、仲の良い者、世話になった者を置くのは当然ですよね」


 武士の近侍近習に見習い、侍女も身分は考えない。なので秀子も好きな者を選んで侍女を置く事になる。頼りになる者、仲の良い者、世話になった者を選ぶのは当然と言える。だから乃恵と乃々は秀子の世話役となって侍女を目指すべきだと養徳院は言う。


「しかし侍女には資格が要ります。武家の作法、教養、そして学問です。武家の作法、教養が無ければ、客は侮られたと怒り出すでしょう。それは秀子の体面に傷を付けます。また、学問を修めていなければ武家の話に付いていけません。その様な者は侮られますし、秀子の悪言にも繋がります」


 侍女になるのに身分は要らない。しかし、必要な物は有る。それは武家の作法と教養、学問を身に付ける事だ。武家の作法と教養を知らずに武家の者に接すると無礼だと取られる。また、学問が無ければ武家の話に付いて行けず侮られる事になる。それは本人だけではなく、そんな者を侍女にしている秀子の悪口にも繋がってしまう。

 しかし、農民出身である乃恵や乃々は武家の作法教養など分からないし、学問は文字すら書けない。とてもではないが、自分達では侍女は明らかに無理だと直ぐに理解する。


「な、なら侍女は私共では無理かと……」


「学も教養も何も有りません」


「ふふ、結論を急いてはなりませんよ。二人共、手の空いた時に池田邸に通いなさい。秀子の世話の傍ら、私が作法、教養、学問を伝授致します。一から教えますので安心なさい」


「えええ!?」

「よ、よろしいのですか!?」


 侍女は無理だと沈む二人に養徳院は新しい提案をする。それは彼女達が秀子の世話に来た時に、同時に養徳院が二人に作法、教養、学問を教えるというものだ。二人いるのだから、一人は秀子の世話、もう一人は勉強というスケジュールも出来る。世話役と勉強を交代するのも楽だ。また、秀子が育ってくれば二人と一緒に勉強させる事も出来るだろう。こうすれば乃恵と乃々に武家の作法、教養、学問が身に付き、秀子と仲良くなる筈だ。そして秀子も仲の良い二人が居れば勉強を嫌がる事はないし、解らない事は先に学んでいる二人に気軽に聞ける状況もある。つまり秀子にも利益になる話なのだ。


「もちろんです。この養徳院桂昌の名にかけて嘘などありません。秀子はまだ赤ん坊なのですから、学び始めが遅いという事もありません。安心なさい」


「「は、はい!」」


 養徳院との話が終わり、池田邸を後にした二人は夢見心地であった。彼女らが育った村では学問など教えて貰えない。誰も学問を修めていないからだ。寺に入れば教えて貰えるが、それは男児限定である。故に二人にとって学問は絶対に手が届かない宝物に等しい。それを順慶に救われた事で思い掛けない縁が繋がり、織田家において高名な養徳院桂昌が教えてくれるというのだから驚き、そして喜んだ。そんなふわふわした気持ちで乃恵と乃々は荷物を持って屋敷に向かって歩く。


「わ、私達が学問だって!読み書きが出来る様になるのかな?」


「物語や詩を読める様になるって、そんなの雲の上の方々の話だと思ってたの。これからどうしよう、お姉ちゃん?」


「そんなの、私には分からないよ!乃々が考えてよ!」


「話が大き過ぎて、私にも分かんないってば!」


 二人にとって学問とは天上人の業である。農民である彼女らには縁の無いものだと思っていた。それを思い掛けず得られる。憧れていた物語やおとぎ話を誰かに語られる事なく、自らが読める様になるのだ。二人は興奮して、未来がまったく見えない状態になってしまった。


 乃恵と乃々が帰った後、藤は養徳院に問い掛けた。彼女の考えが理解出来なかったからだ。秀子の側役に何故、乃恵や乃々を起用するのか?候補など幾らでもいる筈だ。わざわざ養徳院が出て来て持ち掛ける程なのか、と。つまり養徳院の狙いが理解出来なかった。


「お義母様、思い切った事しはりますなぁ」


「そうですか?私は秀子の将来を考えているのみですよ。あの二人は秀子の力になってくれると思います。そして順慶殿との間を取り持つかすがいになると期待しているのです」


 養徳院の狙いは秀子と順慶の仲に有る。両者共に人間だ。順慶が秀子を気に入らない、秀子が順慶を気に入らない、という事は容易に有り得る。それは二人の結婚生活が悲惨になる要因だろう。だから既に順慶と仲が良い、秀子とはこれから仲良くなる乃恵や乃々を起用する事を考えたのだ。つまり彼女達の役割は順慶と秀子を繋ぐ鎹なのである。これは順慶から既に信頼されている乃恵と乃々が適任なのだ。


「成る程。うちの見立てやと姉の乃恵は敵を作らん性格やし、妹の乃々は思慮深い性格やと見ます。ええ塩梅かも知れまへんな」


「ええ。藤、家中への通達は任せましたよ」


「はい。承りましたわ」


 養徳院の考えを聞いた藤は納得した。乃恵と乃々を養徳院が出向いてまで誘ったのは、彼女達が必要だったからなのだと。

 納得した藤は自分の仕事に戻って行った。正室の美代が身重になったので、彼女に仕事は多いのだ。だいたいは女中さんへの指示出しだが。それを養徳院は静かに見送った。真の目的は胸の奥に隠して。


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【あとがき】


 この話に養徳院さんの謀略力が表れていますニャー。彼女は目的の為なら手段も身分も問いません。こうやって気付かれない様に、順慶くんの周りを取り込んでいく訳ですニャー。養徳院さんの真の目的は順慶くんを逃さない事です。婚約破棄など甚大な被害では済まされないのですから。彼女の謀略の特徴は誰にも損をさせず(感じさせない)に自分の目的を果たす事ですニャ。そして真の目的は口には出しません。何故なら謀略は悟られると失敗するからです。

 ある偉大な政治家の息子さんはこう言いました。「父は建前の様な事は沢山言い、真の目的である『ドイツ統一』は決して口にしませんでした。もしも知られてしまったら、絶対に失敗すると理解っていたからです。だから彼は真の目的を隠し、別の目的が有ると相手に誤認させ、策を積み続けたのです」と。この方はドイツ帝国建国の三英傑の一人、オットー・フォン・ビスマルクさんの息子さんですニャー。

 一方の順慶くんは「戦国時代は学校無いし、二人にどうやって勉強を教えるべきかなー。え?養徳院さんが勉強教えてくれるって?それは良いね!いやー、養徳院さんって優しい人だなー」くらいにしか思ってませんニャー。

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