2章 その一 化け物の涙

 正行が『正行』としての意識で目を覚ました。

 薄暗いが目が慣れて匂いを感じれば、そこは間違えなく、正行の部屋であった。

 どうやら、自分は布団の中で寝ていたらしい。

 体の違和感はない。

 鼻の下を指でこすったが血はない。

 普通に呼吸ができる。

 体全体は少し痛いが、疲れによるものだろう。

 両手を出して目の前に広げた。

――夢だったのかな?

 だが、その時だった。

 体は覚えていた。

 正行の細胞たちが反乱をしたかのように、琥武陵との対決を思い出した。

 顔面を殴る感触。

 骨がきしむ時の悲鳴。

 ………

 急に自分の世界が闇に包まれた。

 闇は底なし沼のように正行の尻、背中、肩、首……と飲み込んでいく。

 正行はもがいた。

 だが、糊のように闇は腕を絡めとる。

 口にまで闇が流れ込む。

 冷たく、深く、暗い。

 いい味とは言えない。

「助けて! ……本城さん、甲田さん、石動さん……父ちゃん‼」


「大丈夫か?」

「………親父?」

 正行が目を開けると、電気のついた自室に父である秋水が着流しを着て正行の突き出した手を握っていた。

「だいぶ、うなされていたな……水でも飲むか?」

「うん」

 座っていた秋水は立ち上がり、正行の勉強机に置いてあったポットからコップに水を注ぎ、正行の前に差し出した。

 パジャマ姿の正行は上半身を起こしコップの水を飲み、秋水はそれを黙って見守った。

 たぶん、父が着替えさせてくれたのだろう。

 冷たい水が、今が現実なのだと実感させてくれる。

「何か、悪い夢でも見たんだろ?もう少し休め」

 立ち下がって退室しようとする父の袖を正行は掴んだ。

「どうした? 体の具合が悪いか?」

 正行はうつむいたまま顔を振った。

「思い出した……違う、忘れたふりをしていたんだ」

「うん?」

 呟きに秋水は再び正行の横に座った。

「俺、大学を退学して殺し屋になる……そりゃ、爺さんだって日記に書けないわけだ。自分の孫が人殺しだなんて……」

「……」

「もう、嫌なんだ! 興味のない話に笑ったり意味のない授業を受けたりするより殺し屋として生きた方がいいんだ‼」

 半ば混乱している正行。

「落ち着け! 何を思い出した?」

 一息ついた正行は血を吐くように父に告げた。

「俺が……人殺しの才能を持っている事……才能じゃない、人を殺したいと願っている事……煩わしいんだ、面倒なんだ……」

 正行は続ける。

「俺、家を出る。アメリカに行く。そこで傭兵になって……」

 胡坐をかいて頬杖をしていた秋水が聞いた。

「だったらさ、何であの時、幼稚園だが保育園だかで皆殺しにしなかった?」

「そ……それは爺ちゃんが俺を倒したし、それに……」

 正行は口を閉ざした。


 正行の思い出の底にある光景。

 つい、昨日まで一緒に遊んでいた友達や笑顔で絵本を読んでいた先生たちが恐怖の表情で凍り付いていた。

 足元を見ると女の子をいじめていた『悪い』大人が『赤い水』を流しながら倒れている。

 目線を下げると『助けた』はずの女児が座り込んでいて今にも泣きそうな顔で正行に向かい口を開いた。

「来ないで、化け物‼」

 その言葉を聞いた瞬間、正行の中で大切な何かが音を立てて崩れるのを感じた。


「みんなから『化け物』扱いされるのが嫌なんだ‼ だから、俺は『みんなのために』頑張ってきた……‼」

「お前、そんなことを考えていたんだ……優しいね」

 半ばあきれ気味に秋水は告げた。

「でも、それは本音の表層的なところだろう? その根っこのところはどうなんだい?」

 正行は言葉に詰まった。

「そ……そんなのないよ‼ 俺さえ我慢していれば世の中上手く回るんだろ!」

 と、秋水は素早く正行を押し倒した。

「お前、俺が倒そうとしたとき一瞬ビビっただろ? 石動とかなら受け身をするなり攻撃するけど、お前は優しいから何もしなかった……何もしないならお前に暴力を振るおうが犯そうがいいんだな?」

 その瞬間、秋水と正行の位置は反対になり、息子が父親に馬乗りになった。

「優しいわけねェじゃん、父ちゃん……」

 秋水の頬に水滴が数粒落ちた。

 正行が、自分の涙だと気がつくのに数秒、時間が掛かった。

「俺はみんなから『お前は生きていていい』『存在していい』って言ってほしくて……みんなのなかで生きていたくて……でも、そんなことを思う自分が情けなくって面倒で怖くって……そんな自分が嫌いで……」

 正行の頭にポンッと何かが優しく叩いた。

 大きく温かい手だった。

「そうか……よく頑張ってきたな、正行」

「だから、俺は優しくない……俺さえ我慢すれば全部すっきりするのに……誰かのために生きたいんだ。誰かのために何かしたい。誰かのために助けたい……何度も何度も失敗して絶望させて……俺はダメな人間なんだ」

 しばし、秋水は正行が泣き止むのを待った。

 そして、問うた。

「お前は今、幸せか?」

 正行は唇を噛み、吐き出すように言葉を出した。

「幸せなわけない……俺は『化け物』で名も知られていない絶滅危惧種のように海の底や未開の森で静かに死ねば誰も傷つけない、暴走もしない、間違えも犯さない……爺ちゃんだってこんな『化け物』で傷つかないで、もしかしたらもっと長く生きられたのかも知れない……でも」

 再び秋水の顔に涙が落ちた。

「でも、幸せなんだ……爺ちゃんにいっぱい可愛がってもらった……父ちゃんや石動さんに大切にされている……母さんも友達も普通に接してくれる……矛盾しているんだ……俺はみんなから『化け物』と呼ばれて怖がられていたのに……」

「出来ているじゃん」

 再び秋水は息子の頭を優しく叩いた。

「『誰かのために』ってお前は立派にできているぜ」

 その言葉に正行は父の肩を持った。

「嘘だ! こんな『化け物』を……『人殺し』を愛される資格すらないのに……」

「知っていた」

 反論しようとする正行の言葉を秋水は優しく止めた。

 正行は驚いた。

「でも、お前は殺しちゃいない。あの意地悪な教員も琥武陵もダメージを負っているが殺しちゃいない。その前に俺や爺ちゃんが助けたんだ」

「だったら、なおさら……」

「なあ、正行」

 息子の反論を止め、秋水は諭す。

「俺も石動も本城も甲田もみんな……お前がみんなのために一生懸命戦って傷だらけなのを知っている。でも、なんで自分が悲鳴を上げているのを無視して厳しくしている? 人間、辛いときや面倒なことはある。それは、誰かのために働いた証拠だろ? お前は変わらなくていい。今まで甘えさせてくれてありがとう。今度は正行が俺たちに甘える番だ。この街にはお前を嫌う奴なんていないんだから……」

 その言葉を聞いた瞬間、正行は声を上げて泣きだした。


 どれぐらい、時間が過ぎたのだろう。

 月の光が部屋を照らす。

 秋水は壁に寄りかかり、正行は父の胸に抱かれていた。

「正行、水飲むか?」

「……いらない」

 小さく正行が言った。

「石動さんと謎の映画館で映画を観に行きたい」

「なるほど……」

「あと、本城さんと将棋をしたい……甲田さんと釣り堀で釣りしたい」

「うんうん……」

「死んだ爺ちゃんに勝ちたかった……」

 その言葉に思わず秋水は声を上げて笑った。

「そりゃ、ハードルが高いなぁ。俺だって苦戦したからな」

 沈黙が下りる。

 秋水の着流しを掴んで正行は言葉を出した。

「父ちゃんの自慢の息子になりたい。頼りにされる存在でありたい……俺には何もないから」

 秋水は息子の告白に苦笑して顔を両手で挟んで上に向けた。

 突然のことに正行は困った。

「お前、誰だ?」

「お……俺は平野平正行」

 その言葉に秋水は笑顔になった。

「そうだ、平野平春平の孫で、この裏社会でも名高き俺の自慢の息子……お前のアドバンテージは俺の息子ってだけで結構高いんだぜ」

 その言葉に正行の目から再び涙が流れ、嗚咽が出た。

 息子の背中を秋水はいつまでも撫でていた。


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