第9話 小戸森さん、もてあそばれる~いっぱい甘えたガール返却編~

 【前回のあらすじ】

 突如、園生くんの家に送られてきたままごと人形『ラビちゃん』。送り主の小戸森さんは「魔法で擬似的な人格を与えたその人形をさらに人間らしくするため、園生くんにコミュニケーションをとってほしい」と依頼する。人形の不気味さに怯えながらも、一緒に過ごすうちに恐怖心はなくなり、ついには同じベッドで眠るほど愛着を持つようになった園生くん。

 しかし彼は気づいていなかった。ラビちゃんが、小戸森さんと五感を共有していることに――。




 日曜日の午前十時。

 この日のために新調した紺のシャツとチノパンを身につけ、僕はあるひとを待っていた。

 あるひととは、もちろん小戸森さんである。


 混野まじるの高校の奇跡、完全無欠のヒロインと呼ばれる小戸森さんと、ついに僕は、祝日に、会う約束をとりつけたのだ。


『今度の日曜日、どこかで会わない?』


 LINEで送ったメッセージ。僕は何度も何度も文面を見直して間違いがないことを確認し、しばらく部屋のなかをうろうろしてためらいにためらった挙げ句、清水の舞台から飛び降りるような心持ちで送信ボタンをタップした。


 その直後、僕はこう付け足した。


『ラビちゃんを返すだけだから、いつもの石垣で』


 ――ヘタレがぁ……!


 僕は石垣にもたれるようにうずくまった。


 これではいつもの密会の延長線上である。


 ――いやでも僕、頑張ったよ……。最初の文面だけなら完全にデートだもん。少しずつ……少しずつさ、こういう……自信? っていうの? 積み重ねてこうよ、僕……。


 僕は自分をいたわりなぐさめた。


 切りかえよう。未練や後悔を残していては、その心の隙に魔法をかけられてしもべにされてしまうかもしれない。


 ラビちゃんの入った大きめの紙袋を左手に提げて、僕は直立不動で待った。



 視界の端に、ちらと動くものが入ってきた。僕はそちらに目を向ける。


 小戸森さんがやってきた。グレーのブラウスと、くるぶしまである黒のロングスカートのモノトーンコーディネート。さあっと風が吹いてロングヘアーがなびく。彼女は片目をつむり、髪を押さえた。


 映画のオープニングみたいだった。しかし、せっかくすばらしい主演女優に恵まれているというのに、僕というへぼ監督兼へぼ主演のせいで無味乾燥なストーリーになることは既定路線である。なにせ人形を返すだけなのだ。


 でも、先ほど胸を占めていた未練や後悔は雲散霧消していた。だって、オシャレをした小戸森さんが僕に向かって歩いてきて、しかも微笑んでくれたのだ。これ以上なにを望む?


「おはよう」

「あ、うん、おはよう」


 僕は緊張しながら挨拶を返して、ちらと彼女の肩にかかったポシェットに目を向けた。

 前に街で見かけたときに提げていたものとはデザインが違った。さすが小戸森さん、何個も持っているんだな、きっとその日の気分や服のコーデに合わせてポシェットも変えるんだなと感心した。


 ――……ん?


 僕は目を細くした。ポシェットのファスナー、そのスライダーの穴に黒い紐が通っていて、ファスナーで閉じられたポケットのなかに伸びている。


 ――これ……タグ?


 どうやら商品タグらしい。完全無欠のヒロインである彼女でも僕らと同じようにタグを取り忘れるなんてことがあるんだなと思うと、先ほどまでの緊張がまたたく間にほぐれた。


「これ、返すよ」


 そう言ってラビちゃんの入った紙袋を差しだすと、小戸森さんはなぜか少し恥ずかしそうに目をそらして、ぼそっと「ありがとう」と礼を言い、受けとった。


 オシャレな小戸森さんに百円ショップで買った茶色い無地のクラフト紙袋は失礼かと思ったが、そんな安物の紙袋でも彼女が持つとオシャレのワンポイントアイテムになってしまうからすごい。


 なんとなくふたりとも黙ってしまう。いつもの石垣なのに、時間と服装が異なるだけでずいぶんと勝手が違う感じがする。


「じゃあ」


 短くそう言って、小戸森さんはその場を離れようとする。


「あ、待って」


 僕は思わず呼びとめた。まだ小戸森さんと一緒にいたいのは言うまでもない。だがそれにくわえて僕は、ラビちゃんと離ればなれになってしまうのが寂しいと思ってしまっていた。


 なに? と振り向いた小戸森さんに、僕は申しでた。


「もう少しラビちゃんと一緒にいたいんだけど」

「え!?」


 小戸森さんはなぜかすっとんきょうな声をあげた。


「あ、ああ、この子ね」

「できるだけたくさんコミュニケーションをとったほうが人格形成に良いと思うんだ」

「まあ、そうなんだけど……」


 彼女はなぜか困ったような顔をしている。デメリットはないはずだが……。


「急ぎの用事がないなら、ね? お願い!」


 僕が手を合わせると、小戸森さんはしばらく迷うように視線を漂わせたあと、


「わかった」


 と、なぜかちょっと覚悟したような厳しい表情をした。



 僕は石垣に腰掛け、ラビちゃんを膝に座らせた。僕と並んで座った小戸森さんは、なぜか顔を赤くして明後日の方向を見ている。


「どうしたの?」

「お、お構いなく」


 僕は肩をすくめ、ラビちゃんに向き直った。


 ――いっぱいコミュニケーションをとったら、しゃべったりするようになるのかな?


 この子が人格を持ったらどんなことを話すのだろう。恥ずかしがり屋だからあまり話さないかもしれないな。


 僕はラビちゃんの頭を撫でた。


 すると。


「うぇぇ……は、へ……」


 隣で小戸森さんが妙な声をあげたのでぎょっとして目を向けた。


 彼女は首を回すような仕草をしていた。あいかわらず顔は真っ赤で、でも表情はのどを撫でられた猫のように嬉しそうだ。


「な、なにしてるの……?」


 そう問うと、小戸森さんははっと息を飲んで僕に向き直った。


「な、なにがかしら!?」


 ――『かしら』?


 リアルでその語尾を使っているひとをはじめて目の当たりにした。

 怪訝に思っていると、どこからか「ヒーヨ、ヒーヨ」と鳥の鳴き声が聞こえてきた。


「あ、ヒヨドリだ。見にいこう」


 僕はラビちゃんを抱っこすると、トネリコの木にそろりそろりと近づいた。

 そしてラビちゃんの脇の下に手を差しこんで持ちあげる。


「どう? 耳をすませてごらん。ヒヨドリの鳴き声が聞こえるよ」


「ひ、ひぃひひ……! ひ、ひゃ、ひゃめ、ひゃめて……!」


 その鳴き声は木の上からではなく石垣のほうがから聞こえてきた。

 小戸森さんが伏せるような体勢で腕を伸ばし、もがくように悶えている。


「ひ、ひひ……! ひゃめ、ひゃめ、わきぃ……! ょゎぃ……!」

「ど、どうしたの?」

「弱いの……! そこ……わき……、下ろして……! 一回下ろして……!」

「え、え? 石垣から小戸森さんを下ろせばいいの?」

「ちがっ……人形……下ろしてぇ……!」


 よく分からないが、言われるがままにラビちゃんを草むらに座らせた。

 小戸森さんは草の上に伏せたまましばらく荒い呼吸を繰りかえし、ようやく身体を起こした。表情に疲労が色濃く浮かんでいる。


「た、体調悪いの……?」

「そうでもなかったんだけど……」


 身体を支えている腕がぷるぷる震えている。


「わたし、帰るから……」


 そうしたほうがいいだろう。早く帰って休むべきだ。

 僕がラビちゃんを紙袋にもどそうとすると、小戸森さんはほっとしたように息をついた。


 でも、まだなんだか名残惜しい。帰省してきた孫を送り出すお爺さんの気持ちって、きっとこういう感じなんだろうなと思った。

 これで最後、と小さく言い訳をして――。


 僕はラビちゃんをぎゅっと抱きしめた。頬を寄せ、


「またね」


 と、耳元でささやくように声をかける。


 ラビちゃんの肩越しに小戸森さんの姿が見えた。


 彼女は身体をねじるようにして仰け反らせ、ひくひくしている。苦しいのかと思いきや、顔は幸せそうに笑っていた。


「え、な、なに? どんな感情なのそれ!?」

「あ、ああ、もどして……、もう堪忍してぇ……!」


 僕はラビちゃんを紙袋にもどした。すると小戸森さんは糸を切られたマリオネットのようにぱたりと仰向けに倒れてしまった。

 その顔は紅潮し、少し汗ばんでいる。長い黒髪がほつれて額や頬に張りついているのが妙になまめかしい。


 彼女は倒れたまま目だけを僕に向けた。


「もう……満足……?」

「う、うん」


 しばらくそのまま動けずにいた小戸森さんは、やがて体力が回復したのかおもむろに立ちあがり、紙袋を持ちあげた。


「訂正する」


 去り際、彼女は言った。


「園生くんのことお爺さん臭いって言ったけど、意外とエネルギッシュなんだね……」


 彼女はふらふらとした足どりで、ときおり膝をカクッとさせながら去っていった。


 ――……エネルギッシュ?


 褒められたのだろうか。今日の小戸森さんはいつも以上に分からない。

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