121 魔王の陰謀
ひとりの男が、黒い椅子に腰掛け、机の上の羊皮紙に向かって羽根ペンを走らせている。銀色の短髪の下の表情は暗い。
男は眉間に深い皺を刻みつけたまま、文字を黙々と羊皮紙に記していく。まるで一個の機械と化したかのように。それはあたかも己の内部に生じた雑念を、払拭しようとするかのようであった。
コンコンとドアがノックされた。男はふう、と忌々しげな溜息をつく。
まるでその瞬間を怖れていたかのように。
「――何用か?」
答えが分かっていながら、問いを発する。
扉の向こう側から召使いの応えがあった。あえて部屋に入ってこようとはしない。主人の機嫌が悪い場合は、入室してはいけない暗黙の掟があるのである。
「はっ、魔王様が――」
「わかった、みなまで言うな。すぐに向かう」
凱魔将クレイターは憂鬱なようすを隠そうともせず、召使いの言葉を途中で遮断した。時間をかけて身支度を整えると、扉を開く。回廊で待機していた召使いの先導で、ダーククリスタルパレス最奥部の、魔王の寝室へと直行する。
ここはダーククリスタルパレス内でも、特に警備が厳重な場所である。途中、幾度も警備の魔物とすれ違う。彼らは、クレイターの顔は覚えている。
警備の魔物は通路の壁面に身を寄せると、頭を下げ、クレイターが通過するのを待つ。魔王の寝室に入室を許されているのは、身の回りの世話をする召使い以外は、4人の凱魔将のみなのだ。
「魔王ヨルムドル様、臣クレイター参りました」
「やけに遅い到着であったな……?」
暗い部屋のなかの、天蓋つきの豪奢なベッドから、耳障りなかすれ声が皮肉げに漏れた。そこに老人が横たわっている。異様な男であった。老衰により、ろくに動けぬ体ながら、その双眸は炎が燃えるように炯炯たる光を放っている。
クレイターは申し訳ありませぬと、闇のなかの老人へ、深々と頭をさげた。
この、ベッドの上からろくに動けぬ枯れ木のような老人が、今まさに烈火の如き勢いでテヌフタート大陸全土を支配下に収めようとしている魔王軍の頂点、魔王ヨルムドルであると誰が知ろうか。
魔王軍の重鎮である4人の凱魔将のなかでも、このクレイターは魔王の懐刀といっていい存在であり、良くも悪くもほぼ脳筋ぞろいの凱魔将のなかで唯一、文官肌の魔族である。もっとも、側近であるからといって、本人はそのことを鼻にかけたりもしなければ、みだりに強権を振るったこともない。気質的に真面目な性格なのだ。もし彼が人間族に生まれていたならば、優秀な文官として一生をまっとうしたかもしれない。
「まあよい、それより本題だが……国王の件は失敗に終ったようだな」
「は、当人は大いに乗り気だったのですが、諸侯の猛烈な反発にあったようで……戦は中途半端な形で終結し、四神獣の珠のひとつも入手できなかったようです」
「ふん、使えぬ男だ……。野心のみが肥大して、実力が伴わぬ。所詮、200年前の勇者の意志を告ぐだけの器ではなかったということか……」
「はっ、当人は英雄の再来であると信じきっているようですが、あまりに事を拙速に運びすぎましたな。いまやヴァルシパル王国の諸侯の心は完全に離反しております。もはや策を弄じずとも、ラートドナに任せておけばよろしいかと。あとは力押しでヴァルシパルを屈服させることができるかと存じます」
「それはいつになる……? ガイアザのブルー・サンシャインを攻略するのにも、かなりの時間を要したな。ヴァルシパルを屈服させるのはいつだ……今月か、来月か、それとも一年後か?」
「は、申し訳なきことながら、月日を明言することは――」
「できぬであろう。できるはずもない。ワシはほんの僅かな刻すらも惜しいのだ。猪武者のラートドナの力任せのみの戦法では、長丁場になるは必定。このままでは、大陸全土を支配下に収める前に、ワシの寿命が尽きてしまうわ」
クレイターは内心、舌打ちを禁じえぬ。
この、ひたすら自分の寿命のみを気にかける老人が魔王であることは、彼に多大なる心理的負担を強いてきた。歴代の『魔王』は、邪神ハーデラの封印が弱まったとき、200年単位で自動的に選抜される。
選抜手段はシンプルである。魔族のなかでもっとも強大な魔力を有した人物が魔王を襲名する。それだけである。ある特異な例を除いて。
つまり、選抜された人物が老人であろうが、重い病に侵されていようが関係ないのだ。そのような事情は一切考慮されない。
純粋なまでに、魔力のみが選抜基準なのだ。
そしてクレイターにとって最大の不幸は、このやたら小細工が好きな老人が、いまの魔族のなかで最大の魔力を保持していたことであったろう。
それでも彼は、ひたすら私情を押し殺し、忠実に魔王の手足であろうとした。
しかし……。今回ばかりは……。
クレイターの表情がひときわ硬くなった。
彼の胸中の葛藤などまるで意に介さず、魔王は言う。
「それで、あの男の位置はつきとめたのか?」
「……は、つきとめました。逃亡のすえ、ヴァルシパル王国へ向かったことまでは把握しておりましたが、詳細な位置は掴めませんでした。なかなか行方がわからぬはず。どうやら一介の
「ふふふ、なるほどの。このワシの手から逃れられると考えるのが甘いのだ。で、誰を追っ手に差し向けた?」
「魔王様の指示どおり、ウルルを差し向けてございます」
「ふふふ、ならば結構。それはさぞや見ものであろう。ウルルが現れた瞬間、あの男はどのような顔をするであろうな。絶望に青ざめたあの男の顔を見れぬのが、残念至極というものじゃ」
この老害め。クレイターは目の前の老人の採る手段が、ことごとく気に食わない。権力に固執する男の行動というものは、どうしてこう醜悪に映るのであろうか。
それでもクレイターは貌に一切の感情を浮かべることなく、唾棄すべき計画を嬉々として語る老人に、うやうやしく頭を下げた。この私の葛藤など、ウルルに与えられた任務の過酷さに比べれば、はるかにましというものだ。
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街道のど真ん中に、魔族の少女が立っていた。
凱魔将ウルルは、口許に笑みをたたえてダーたちと対峙している。しかしダーには、その笑顔がまるで陶器で出来たつくりものめいて見えた。
ダーたちは今しがた魔物の群れを撃退したばかりである。戦力的にかなり疲弊しており、対するウルルはその力を一切行使していない。まともにやりあえば、大苦戦はまぬがれまい。
にも関わらず、彼女の表情に余裕が無い。
もっといえば、以前であったときの饒舌さ、快活さが陰をひそめているといっていい。ダーは探るようにウルルに言葉を投げかける。
「ウルルといったか。ご無沙汰じゃったの。そういえば忘れておったわい。ワシらの位置は、おぬしらには筒抜けであったのう」
「そうだよ。ずっとナハンデルに篭っていれば、出会わずに済んだのに」
「はて、おかしなことを言うのう。この雑木林での計画的な襲撃。偶発的な出来事ではありえぬ。ワシらの抹殺を図るために仕組んだことではないのか」
「違うよ。私の目的はあなた達じゃない。本当の偶然」
「どういうことじゃ。ワシらを狙ったのでなければ、誰を狙ったのじゃ」
「――決まってますね。この異世界勇者ミキモトの存在を脅威に思って、必殺の罠を張り巡らせていたのでしょう! 残念ながら、その計画は灰燼に帰してしまいましたね」
「いや、あなたの位置情報はわからないし。居たのって感じ」
「くうっ、屈辱ですね!」
ミキモトが大げさによろける間も、ウルルの表情は硬いままだ。その大きな瞳は誰かを探しているように、キョトキョトと落ち着きがない。
「――探しているのは、僕だろう、ウルル」
人影はゆっくりとこちらへ歩を進め、ウルルと対峙した。
あの魔族の少年であった。ウルルは少年のまっすぐな瞳から目をそらすように、中空を見つめている。額からは汗がにじみ出ており、その動揺ぶりは傍から見ても顕著であった。
「よりによって、君が追っ手に選ばれるとはね。ウルル」
ウルルはぐっと言葉につまった。そして彼女は、ダーたちが予想もしていない行動に出た。いきなりその場で片膝をつくと、深く頭を下げたのだ。
「申し訳ありません、イルン様――」
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