103 ダーク・クリスタル・パレス

 深い霧が、まるで重いカーテンのように光を遮っていた。

 この薄霞む霧のむこうに、漆黒に塗り固められた奇怪な建築物が佇立している。もしここに何も知らぬ旅人があらわれ、その建物を目の当たりにしたならば、恐怖にその顔を引きつらせたであろう。

 太陽の光も吸い込んでしまいそうな高い壁が四方を遮断し、唯一屹立する門は、あたかも冥府魔道への入り口のような禍々しい雰囲気をまとっている。

 これが魔王軍の居城、ダーク・クリスタル・パレスである。



 そこは漆黒しか存在を許されない部屋だった。

 天井も壁も机もあらゆるものが漆黒であり、ただそこに座り、分厚い書物のページを静かにめくっている男のみがその束縛から自由であった。その眉間には絶えず深い皺が刻まれており、男がなにかに思い悩んでいるのは明白であった。

ふいに、部屋の扉がノックされた。2度、3度。


「――入れ。何用か」


 ひとりの魔族が鞠躬如きっきゅうじょとして入室してきた。そして告げる。


「はい、そろそろお時間でございます。クレイター様」


「フム、もうそんな時間か。わかった」


 クレイターと呼ばれた長身痩躯の男は、ゆっくりと椅子から立ち上がった。

 青い掌で、銀髪の短髪を無造作にかきあげ、回廊へと向かう。

 漆黒の回廊に靴音をひびかせながら、彼は大きな両開きの扉を開いた。

 そこもまた、漆黒である。

 黒い円卓の中央には、大きめの燭台が光をはなち、部屋にささやかなぬくもりを与えている。光の反射する円卓には、すでに3人の人物が腰を降ろしていた。

 ひとりは凱魔将、ラートーニ。

 ひとりは凱魔将、ウルル。

 そしてもうひとりは、もと4勇者のひとりであった、ケンジ・ヤマダであった。その膝元に置かれているのは、かつて琥珀色に輝く聖なる武器だった勇者の杖である。現在は黒く染まった闇の杖となり、その面影はまるでない。


 クレイターはもう一度髪をかきあげると、冷たい双眸でヤマダをにらんだ。

 ヤマダはその視線に気付かぬのか、はたまた気付かぬふりをしているのか、ラートーニと甘い言葉のやりとりをかわしている。フン、とクレイターは鼻息荒く、席のひとつに腰をおろした。

 

「まだ、ラートドナから吉報はもたらされぬか」


 彼は黒く磨き上げられた円卓に視線を落としたまま、ひとりごちるようにつぶやいた。

 その声に反応したのは、無邪気に笑みを浮かべているウルルである。


「そーだね。こないだ転移して様子を覗いてきたけど、時間の問題といった感じだったね」


「時間の問題は、もう聞き飽いた」


 うんざりしたような苦い顔で、クレイターはウルルを見やった。ウルルは私に言われてもね、といった調子で、軽く肩をすくめた。

 

「ごめんなさいねえ、力攻めしか能のない愚弟のせいで」


 そう口にしたのはラートーニである。一応謝罪はしてるものの、さほど申し訳なさそうな口調ではなかった。


「おぬしを責めているつもりはない。姉は姉、弟は弟だ。ラートドナの責任はラートドナに帰する」


「たかだか城ひとつ落とすのに、どれだけ時間がかかっているんだよってね。でも、それも仕方ないじゃないかなあ。相手は難攻不落で知られた名城ブルー・サンシャインだし。あそこは強い結界が張られていて、転移魔法が使えないんだよね。正直言って真正面からの侵攻は愚策。兵糧攻めしか手がない状況だよ」


 不利な状況の説明にもかかわらず、上機嫌で饒舌さを披露するウルル。

 だが正論だけに、クレイターとしては舌打ちを禁じえない。

 彼はふと視線を転じた。空席なのは円卓の一席のみではない。

 この広闊な大広間の奥には、不可思議な暗黒の輝きに彩られた玉座が鎮座している。その一段高い玉座は空席であり、本来そこにあるべき偉大なる主は、ここにいない。


「ところでさ、僕はまだ魔王様のお姿を拝見したことがないんだが、いつお目通りがかなうんだい」


「にわかに国王軍へと寝返っただけの男が、簡単に我らが主にお目通りが適うと思うてか」


 ヤマダの言葉を叩き切るようにクレイターが言った。

 しかしその言に、くすくすと笑いを浮かべるのはラートーニである。現在の魔王の詳しい情報を与えたくない彼の焦燥を、見透かしたかのような笑み。

 クレイターは不愉快そうな視線を彼女に向けると、


「ラートーニ、言いたいことがあるならハッキリ言ったらどうだ」


「それはあなたが一番よくわかってるんじゃないのお? 私たちの置かれた状況だって、周囲が思っているほど良いものじゃないってことに」


 ヤマダは不思議そうに首をかしげた。


「それってどういう意味だい?」


「魔王様と一言でいってもねえ、ずっと同じ人物なわけないのよお。だって200年に1度、ハーデラ神の力が増大するとき、魔王様は誕生する。つまり、代替わりするってわけえ」


「えっ、とすると、今の魔王は赤ん坊ってことかい?」


 くすくすとラートーニは魔性の笑みを浮かべると、つん、とひとさし指の先でヤマダの鼻先を押した。


「違うわよお。誕生するっていっても、文字通り新たに生まれてくるわけじゃないの。ハーデラ様がそのお力を取り戻した瞬間、もっとも強大な魔力を有した魔族の誰かが、新たな魔王様になるの。そうでないと、魔王軍を率いることなんて不可能だわ」


「とすると、今の魔王様は、君らのもと同僚ってことになるわけか?」


「そうとも限らないわねえ。もと部下かもしれないし、兵ですらない在野の1魔族にすぎないかもしれないわ。判断基準はあくまで『最も魔力が強い者』。それがハーデラ神がお決めになったルール。私たちは、そのルールに従わざるを得ないわ」


「ふうん、いろいろと複雑なんだね。魔族も」


「ラートーニ、ちとしゃべりすぎではないか」


 たしなめるようにクレイターが鋭い視線を放つ。

 ラートーニはどこふく風で、部屋の隅に控えている侍従に葡萄酒を持ってくるように命じる。侍従が部屋を出て行くと、彼女は楽しげな口調で、


「そうイライラした顔をするもんじゃないわあ。そろそろ事態が動き出すって、ウルルも言っていたじゃない。そうなると、そろそろあたしたちの出番よお」


「まだ信じられないな。確かなのかい、ウルル?」


「あら、私の調査結果を疑うの? ヤマダ」


「いや、疑うわけではないけどさ……」


「なら余計な疑問をさしはさまない。国王軍が6万の大軍を率いてナハンデル討伐へと出発した。これは歴とした事実だからね」


「うーん、ヴァルシパルは魔王軍を背後に抱えたまま、自国内で戦争をおっぱじめようというのかい。僕の愛読書の戦記ものでも、そこまでの愚将はなかなか登場しないよ」


「それが現実として展開しつつあるから、おもしろいところなんじゃないの。もっとも、おもしろいのは私たちだけなんですけどねえ」


 やがて侍従が葡萄酒をささげて入室してきた。

 ラートーニは酒坪をかたむけ、四つの酒杯を満たした。

 それを各自の手元へと配ると、彼女は陽気に酒杯を掲げた。

 

「――私たち魔王軍の栄光に、乾杯」


 そして一気に葡萄酒を飲み干した。ヤマダとウルルもそれに倣った。

 ただひとり、陰気に外を眺めやっているのはクレイターである。

 深い霧に覆われて、ひとつだけ開かれた窓は、まるで外界の景色を届けてはくれない。だが、彼の透徹した眼は、すべてを超えて、遠きヴァルシパル王国の地を眺めているようであった。


「さて、賽は投げられた。果たして我らの賭けがうまくいくかどうか――」


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