第31話二十七、香坂王と忍熊王の反逆の神話

二十七、香坂王と忍熊王の反逆の神話


●応神天皇の誕生

海波に関わる政務がまだ完了されていないうちに、皇后は出産の臨月になった。

そこで出産を遅らせようと、御腹を石を持ち、御裳の腰に付けられ出産を引き延ばされた。

新羅から筑紫国に帰られた時に、御子は生まれになった。

その御子の生まれの名を付けて、宇美と言う。その御裳(みも)に付けられた石は、筑紫国の伊斗村(いとむら)にある。

また松浦県の玉島里においでになって、そこの河の辺りで食事をした時に、四月の上旬、その川の突き出たと岩の上で、御裳の糸を抜き取り、飯粒を餌として、河の鮎を釣っておられた。これに因んで、四月の上旬の時に、女たちが裳の糸を抜き、飯粒を餌として鮎を釣る事今にまで絶えない。

こうして、息長帯日売命は、筑紫から大和に帰られる時に、人の心に疑いの理由あり、棺を載せた喪船一艘を仕立てて、御子である太子をその喪船にお乗せにして、その前から「御子はもう崩御された」と噂を立てさせられた。

このようにして上京なさる時に、香坂王(かこさかみこ)と忍熊王(おしくまみこ)が噂を聞いて、待ち受けて皇后に手を入れようと思い、斗賀野(とがの)に出て行き、事の成否を祈る宇気比狩(神に祈ってする狩)をした。

そこで香坂王がクヌギの木に登って座って見ていると、大きな猪が激しい勢いで走り出て、そのクヌギの木を掘り倒し、香坂王に噛みついつき喰い殺した。

香坂王の弟の忍熊王は、兄の死が宇気比の凶であるのも関わらず、慎みを恐れずに、軍を起こし皇后を待ち受け迎え撃つ時に、忍熊王は喪船に向かってきて、その中の空船を攻めようとした。

そこで皇后は喪船から軍勢をおろし上陸をして戦った。

その時忍熊王は、難波の吉師部(大阪の岸部の事か)の祖先の、伊佐比宿祢(いさひすくね)を将軍として、太子側は、丸迹臣の祖先の、難波根子建振熊命(なにねこたけるくまみこと)を将軍とされた。太子軍が忍熊王軍を追い詰めて山城に至った。そこで建振熊命は計画を廻らして、相手側に「息長帯日売命は崩御された」と伝えさせた。

弓の弦を切り、偽りの降伏をした。

すると忍熊王の将軍はすっかり騙された、自分たちも弓の弦をはずし、武器をしまった。

そこで太子軍は頭髪に隠してあった、予備の弦を使って、再び張り直し追撃をした。忍熊軍は逢坂山まで逃げ退き、そこで反撃をした。

しかし太子軍は更に追撃をして、琵琶湖の沙々那美に出て、悉く忍熊軍を斬った。その忍熊軍は、伊佐比宿祢と共に追い詰められ、船に乗り、湖上に浮かんで歌って言うには

さあ我が将軍よ

振熊の奴の 痛手はもうたくさん

近江の海に

すっぽりはいってしまうよ

二人の御子は湖に身を投げて一緒に死んだ。●


☆応神天皇の皇継の神話・あくまでもこの辺の説話は皇系争いの正統性の記述である。

神功皇后の出産の御子から太子の表記が初めて出現する。香坂王と忍熊王は仲哀天皇とは異母兄弟で倭健の御子である。

神功皇后は筑紫から大和に戻る時にすでに、神功皇后は謀反の動きを察知していた。仲哀天皇の「御子はもう崩御された」噂を流し誘発させた。

香坂王、忍熊王はこの知らせに信じ込み、皇后を殺そうと待ち受けていた。

香坂王は斗賀野にて謀反の吉兆を狩りで占いをした。皇后を待ち伏せをして、クヌギの木に登って見ていると、猪の突進で木はなぎ倒され、噛みつかれて殺された。狩で占った凶に懲りず軍を起こし、太子軍に攻めてきた。喪船から下りって戦った。

忍熊軍は難波の吉師部(大阪に岸部の地名がある)で伊佐比宿祢を将軍として戦ったが、山城まで追いつめたが忍熊軍が押し返し、一進一退の合戦を繰り広げた。建振熊命は計略を案じ、相手側に「息長帯日売命は崩御なさった、もう戦うことはない」そうして弓の弦を切、偽りの降伏をした。

忍熊軍はすっかり騙され、自分たちもうかっり弓をはずし、武器をしまった。その時太子軍は頭髪の中に隠してあった弦を取り出して、再びその弓を張り直し追撃を開始をした。

忍熊軍は逢坂山まで退却、そこで体勢を立て直し再び戦い臨んできたが太子軍は打ち破り、琵琶湖の湖上まで追いつめて、忍熊王と将軍は身を投げて死んだ。  


●気比大神(けひおおかみ)

そこから、建内宿祢命は、その太子をお連れして、禊をしょうと、近江と若狭の国を次々に廻った時に、越前の敦賀に仮宮を造り、そこに太子を、お迎えをした。するとその地に鎮座される伊奢沙和気大神(いささわけおおかみ)が、太子の夢に現れて

「私の名を太子の名と取替えたい」と言った。

そこで太子は祝いの言葉を述べて「畏まりました、言葉の通り

換えましょう」と申し出。

その神が「明日浜辺においでください、名換えの贈り物献上致します」

と言われた。

翌朝浜にやって来た所、鼻に傷が付いた、海豚の大群がいっぱいになるほど浦に押し寄せていた。そこで使者を遣わせ、神に申させ「お召し上がりのなる魚を我に賜ったのですね」と言われた。

神の名を称えて御食大神と申し上げた。それで、今もって気比大神と言う。

その海豚の鼻の血がくさかったので、その浦を名付けて血浦という。今は都奴賀(敦賀)と言う。●


☆気比大神の神話・皇后は九州から新羅、新羅から帰国して異母兄弟の謀反と対決に難波から近江まで、更に若狭に、出産の御子は太子になっていて、建内宿祢は太子を気比神社に案内し、禊をする。その説話には少々無理があるが。

神の神託を背景に権威を次期天皇の太子に授けて、河内王朝への序幕なのか、神と対話し、名前の交換に及んで応神天皇へお布石に進んでゆく。神功皇后の系譜は、天日槍命に一説に神功皇后は新羅の出自、気比大神の名前を交換したと成れば、祖神から名前を受け継ぐ、その一つの儀礼的なものと考えられる。


●酒楽(さからく)の歌

敦賀から都に帰り上がっておいでになる時に、母君の息長帯日売は、祝いの待ち酒を醸して太子にさし上げた。その母君が歌いになって言われるには、

この御酒は わたしが醸した御酒ではありません

石の姿でお立ちの 少名毗古那神が

自ら祝福し 踊り狂って祝い醸し

自ら祝福し 酒槽廻(さかふねかわ)って祝い醸し

献上してきた これがその御酒

だんだん召し上げれ さあさあ

このようにお歌いになって、神の御酒を太子にさし上げた。

そこで 建内宿祢命が太子に代わってお答え申し、歌っていった。

この御酒を 醸した人は

その太鼓を 臼の上に立てて

歌いながら 醸したからか

舞ながら 醸したからか

この御酒は 御酒

なんとまあ とても楽しいことよ さあさあ

これが酒楽の歌である。


酒を司る長 常世にいらしゃる

すべて教えて、帯中津日子天皇(仲哀天皇)寿命は五十二歳。御陵は河内の恵賀の長江にある。

皇后は御年百歳で崩御された、佐紀の楯列の御陵に葬られた。●


☆酒楽の歌の神話・神功皇后の応神天皇の成人式のような祝い酒の祝宴、待ちに待った皇后の太子に対する期待と喜びが、酒に舞に、歌に込められて宴は華やかに繰り広げられ、酒に酔い乾杯の声が聞こえるような歌である。

良く醸造された酒への讃美、古代も現代の祝宴には欠かせない。酒を酌み交わす心情は変わらないものである。古代社会の様子も窺われ、歌に抒情詩があふれ込められている。この祝宴は「酒楽の歌」として、宮中の儀式行事「大嘗祭」に類似した儀式かも知れない。

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