10.波長が合う、ってことなのかねえ - ホテル
ホテルに戻ると、エルフィンストーンさんは浴衣に着替えてすぐに床に就いてしまった。なんでもいつも11時頃には寝ているそうで、夜型の私とは大違いだ。
寝付けなくて、私は布団を被ったまま物思いにふける。
隣のベッドではエルフィンストーンさんが綺麗な寝息をたてて眠っている。同じ空間で眠るのは2度目だけれど、眠っている姿を目にするのは初めてだった。
なんだか変な感じ。彼女と私とは、ほんの数週間前まで縁もゆかりもない間柄だった。たとえば偶然街中ですれ違ったとしても、私はそのたぐいまれな容貌に目を惹きつけられたに違いないけれど、彼女は見向きもしなかったはずだ。
それがなんの因果か出会ってしまったのは、忘れもしないあの飲み会の日のこと。
*
まだ明確に冬だった。夜の空気は棘のように肌を突き刺した。
その日、高円寺の居酒屋の個室に集まったのは、私とエルフィンストーンさんを含めた男女20名ほど。この映画研究会同士の親睦会は、互いの会長が旧知の仲だというのが理由で催されたもので、自由参加ながら出席率は上々。人の和を保つための必要経費だ。
私が映研に所属したのは特別映画が好きだからというわけではなくて、大学デビューの一環だった。映画ならときどき観るからそれなりに馴染めるだろうし、映画を自主制作するような本格的なサークルでもないからゆるくやっていけるだろう。そんな打算があった。
実際、映研はゆるく活動していて、たまに講義室を借りて映画の上映会をして感想会と称した飲み会をするようなサークルだった。
私は仲のいい同窓生に代返を頼み頼まれしたり、優しい先輩から過去問を貰ったりするような薔薇色のキャンパスライフを送……ったわけでもない。
高校時代の友達とは文化圏の違う人々、別の空気を吸っていたような人種ばかりが集まるサークルで馴染むにはそれなりの技術が必要だったのだ。
たとえば愛想笑いや頷き、それから嘘。そういう不慣れな武器を駆使しなければ私みたいな人間は溶け込めなかったし、駆使しても溶け込みきれずに少し浮いていた。
「あのう、先輩。それはなにを飲んでるんですか?」
席を交換して隣に座った先輩に、私はそんな質問をした。単純な疑問が2割、あとは場に馴染もうという必死さ。
先輩がそれを見透かしたかはわからないけれど、グラスを差し出して見せて「カルーアミルクだよ」と教えてくれた。
「飲んでみる?」
「あ、はい」
それはきっと冗談だったけれど、そのときの私には気づく余裕なんてなかった。先輩の勧めを無碍にするわけにはいかない。私は即座にグラスを受け取って、カフェオレを思わせる見た目の“カルーアミルク”なる飲み物をぐいと飲んだ。
カッと頭が熱くなり、ガンと衝撃を感じて、ぐらりと視界が揺れる。体の示した反応に脳が置いていかれる。あ、これ、やば。気付いたときにはもう遅かった。私の記憶はここでいったん途切れた。
どこまで眠っていて、どこから目が覚めていたのか、朦朧とした意識の中ではその境界すらあいまいだった。ただ、かろうじて記憶に残っているのは、高円寺の駅前でエルフィンストーンさんにいろいろなことをぶちまけてしまったこと。人づきあいがしんどいとか、こんなはずじゃなかったとか、遠くに行きたいとか。ずいぶんと情けなくて恥ずかしいことを言ったはずだ。
エルフィンストーンさんがそれをどんなふうに聞いていたかはわからない。きっと真面目でも親身でもなかっただろうけれど、彼女はその夜、吉祥寺の私の部屋に泊まったらしい。
カーペットの上で目を覚ました私は、テーブルの上に残されたメモを見つけた。
メモに書き記されていたのは昨晩あったことのあらましと、シャワーとバスタオルとドライヤーを借りたこと、朝食として食パン1枚とスライスチーズ2枚を食べたこと、新品の歯ブラシを開けたこと、カギはドアポストに入れておいたこと。
ひとつひとつ確認してみたけれど、バスタオルは洗濯機の中に放り込まれていたし、チーズの残数は覚えていないけれどパンの数は減っていた。洗面台には新品の歯ブラシがあり、ドアポストには確かにカギが入っていた。
つまり、昨晩エルフィンストーンさんは私を連れてこの部屋にやってきて、私を床に放置してシャワーを浴びたりしたあと眠って、翌朝早くにパンとチーズを食べて帰ったらしい。
ひとの家のものを容赦なく消費していくなあ……と思ったけれど、カルーアミルクを1杯飲んでベロベロになった馬鹿なやつの世話をしたんだから迷惑料としては安いほうかもしれない。
メモには追伸があった。伊豆旅行を約束したことと、LINEのID。
見なかったことにしていれば、私とエルフィンストーンさんの関係はきっとここで途切れていたことだろう。
*
LINEで何度か連絡をとったけれど、顔を合わせたのは今日が2回目。
そんな浅い関係なら気を遣ってずいぶん心を疲労させてしまいそうなものだけれど、私は彼女と過ごす時間に疲れてはいなかった。むしろ、嬉しく感じているくらいで。
隣のベッドに再び目を向ける。人形みたい、なんて月並みなたとえだ。けれど、いまなら人形にそうするみたいに、触れてみてもなんの反応もないような気がした。
手を布団から出して、すぐにひっこめた。
「波長が合う、ってことなのかねえ」
彼女と私は、到底似ているようには思えないけれど。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます