#4 楽しいは無限大 - はじめての伊東ふたり旅の話
1.あつらへの 天気なりけり 花曇り - スーパービュー踊り子
気がつけば春分を過ぎて、日もずいぶん長くなった。布団から出るのが億劫な寒い日がまだまだ続くけれど、たまに差し込む温かい陽光がもう花開く季節だよと桜をせっつく。それを尻目に私はスギ花粉に悪戦苦闘だ。そんな3月の終わり。
これは、私、
*
新宿駅の6番線を探し求めてさまよった末、発車のベルを聞いたのはホームへ向かうエスカレーターの上。駆け込み乗車しようとして、ドアの前で乗務員さんに止められた。車内での検札がない代わりに、乗車時に検札するらしい。
私が乗るとすぐにドアが閉まって、滑るようにゆったりと発車した。
乗車したのは最後尾の10号車で、私の座席がある2号車までは結構な距離だ。荷台に荷物を上げる旅行者や
もっと早くに来ていれば余裕をもって乗車できたのに……と思いはするものの、駅をさまよう時間が増えるだけかもしれない。
この特急は1号車と2号車がグリーン車になっている。3号車から2号車に通じる扉は重々しく、普通車の乗客の通行は遠慮するように注意書きがされていた。グリーン車の快適性を確保するためみたいだ。
今日の私にはこの扉を開く権利がある。ふふ、人生初グリーン車だよ。駆け込み乗車になったのが本当に惜しいな。
グリーン車にあてがわれている車両は2階建てになっていた。1階は個室で、座席が連なっているのは2階。シートは普通車のそれよりも明らかに上質で、海側1列山側2列という配置はそれだけ広いということ。贅沢さについ笑みが漏れてしまう。
しかし、ニヤついてる場合でもない。今日はひとりで旅行に行くわけじゃないんだから。
私の座席は6Aで、そのひとつ手前には人が座っている。けれどもそれは後ろから見てもわからなかった。なぜなら座席が大きいから、ではなく、座っている人が小さいから。
「来ないかと思ったのに」
眠たげな声とまなざしの彼女は、私に向けてそんな言葉を投げかけた。
ふたつ結びにまとめて垂らした金糸の髪に、まばゆいばかりの白磁の肌。旅行という目的ゆえか、カジュアルで活動的なファッションに身を包んでいる。壁に掛けられたクリームホワイトのコートと赤いベレー帽、隅に置かれたアンティーク調の小さなキャリーバッグも合わせて、よくできた1枚のイラストみたいだった。あまりによすぎる容貌は目を潰すから直視に堪えない。
小柄だけど放つ雰囲気は子供っぽさとは縁遠い。歳を当てろとい言われると悩んでしまうかもしれないけれど、なんと彼女は私と同じ大学生。
名前をエルフィンストーン
神さまが酔っ払って決めた運命としか思えない(実際に酔っていたのは私だ)けれど、私は彼女と1泊2日の旅をする。
「ごめんなさい、迷ってた。新宿はほんと迷宮だよ」
「完全にひとり旅する気分でいたんだけどね」
本気なのかそれとも皮肉か、その言葉にチクリと胸を刺されながら謝罪を重ねようとして、くしゃみがそれを差し止めた。ああ、もう、花粉め! エルフィンストーンさんは、はっと息を吐くみたいに笑った。
恥ずかしさに顔を赤らめながら座席を回転させて、向き合う形で座った。1列シートだから横並びには座れない。
列車は渋谷駅に差し掛かっていた。ターミナル駅を通り過ぎていく奇妙な優越感が胸をくすぐる。普段乗っている中央線や井の頭線と比べると、水の中を泳いでいるかのように静かだ。いま渡った桜の咲く川は目黒川だろうか。
グリーン車にはウエルカムドリンクがあるみたいで、アテンダントさんが紙ナプキンとメニューを持ってきた。私はコーヒー、エルフィンストーンさんは紅茶を注文した。
女子ふたり、向き合って会話もなし。そんな状況をアテンダントさんはどう思ったことだろう。
人と一緒にいるとき、会話がなくても平気なふりをして誰かが話し始めるのを待っていたけれど、エルフィンストーンさんは本当に会話がなくても平気な人種みたいだ。そういう人と一緒になると思いのほかつらい。
アンニュイな表情で車窓を眺める姿に倣って、私も外を見る。まだ、武蔵小杉を発車したばかり。都会の風景が灰色なのは、比喩ではなく曇り空の仕業。次の横浜を出ると、熱海まで停まらないらしい。伊豆に着く頃には、この車窓はどんなふうに変わっているだろう。
「あいにくの空だね。ちょっと残念」
天気の話題なんて話の接ぎ穂としては無難すぎて面白くもないけれど、これがいまの私の限界だった。
「あつらへの 天気なりけり
少し間をあけて、エルフィンストーンさんはそう言った。
「芭蕉の弟子が詠んだ句なんだって」
「はなぐもり……」
なんだっけ。春の季語だった気がするけど。
「桜の時季の薄曇り。いいじゃない。雲が花の命を長らえる
そう言われると、寂しい灰色だった景色が途端にやわらかな雅さを帯びて見える。ただ単に単純なのかもしれないけれど、私はそれを
「桜を見るのが楽しみになった。なんていうか、詩的だね」
「素敵でしょ?」
エルフィンストーンさんは薄く笑う。
正直に言うと、場の勢いに任せて決めたこの旅は不安だった。一度顔を合わせただけのひとと仲良く1泊2日なんて考えるだけで胃が痛くなる。けれど、その笑顔ひとつで、この旅が素敵になる予感が、私はしたのだった。
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