2.早く脱いだら?

 旅館には時間が緩く流れて、呼吸をゆっくりにさせる独特の雰囲気がある。内と外とでは大気の組成が違って、それに適応しているような感覚。

 フロントは和洋折衷の落ち着いた造りだった。創建当時の造りを残しているんだとしたら、これが大正浪漫ってやつなのかな。

 陣屋には複数の日帰りプランが用意されていて、私とえるが選んだのはワンドリンクつきの日帰り入浴プラン。予約不要の税別2400円。もっとグレードを上げればレストランや個室での食事つきの要予約プランもあるけど、私の財布が大ダメージを受けてしまう。


 貴重品を預けて、早速露天風呂に向かう。屋内風呂もあるんだけど、今はちょうど改装工事中みたいで、11月の初頭までは露天風呂しか利用できないらしい。


「仲居さん、iPad使ってたね。IT化だ」

「経営改善の一環で、あれで従業員間でデータの共有をして業務を効率化したんだって。他にも週2日の定休日を作ったり、ブライダル事業に進出したり」

「おー、ホワイト企業」

「知らないけど、仕事に余裕を作ったほうがいいのは当然よね」


 そんな話をしながら歩いている廊下には、鎌倉や戦国の武具が展示されている。陣屋の代々の当主が少しずつ収集してきたものなんだとか。

 もともとこの場所は鎌倉時代には源頼朝の側近が陣地を構えていた場所だそうで、そのことも相まってちょっとした歴史博物館の様相。

 武将が陣を構えていたから陣屋なんだねえ。


「ここ、囲碁や将棋の公式戦にもよく使われるのよ」

「ああ、だからたくさん写真が飾ってあるんだ」


 近頃は将棋ブームだからタイトル戦のニュースなんかもよく耳にするし、有名なホテルや老舗旅館がその会場になっているのも知っていたけど、ここもそうだったんだ。

 そういえば、フロントの近くに棋士の揮毫きごうや将棋の関連書籍が集められた一角もあったような……。


「っていうか、新聞社以外で初めて公式戦が行われたのがこの陣屋なの。さっき通りがかった階段の先にある貴賓室で対局するのよ」

「へぇー。どおりでずいぶん古い写真もあるわけだ……」


 将棋が好きなのかと思って訊いてみたら、えるはボードゲーム全般を家族と遊ぶことが多かったらしい。私はボードゲームといったら、スゴロクかオセロくらいしかやったことがないかもしれない。文化の差だ。


「外に陣太鼓があったじゃない」

「あったっけ? 異世界感に夢中で覚えてないや……」

「あったのよ。あれは将棋がらみの事件がきっかけで設置されたの」

「事件って?」

「昔、タイトル戦のために陣屋に来た棋士が玄関のベルを押したのに誰も出てこなくて、それで怒ってよその旅館に行っちゃったことがあったの。それ以来、陣屋は陣太鼓で客を迎えるようにしているそうよ」

「えー、なんかかわいそう……。送迎とかなかったの?」

「普通は棋戦を主催する新聞社が同行者を出すんだけど、陣屋は駅近だから出してもらえなかったんだって」

「そんな理由ある?」

「あったのよ。それで対局中止になったり出場停止処分になったりしたんだけど、時の名人の裁定で対局は不戦敗、処分は解除、陣屋とも和解して……最後はまあ、丸く収まったと言っていいかしら」

「そっかあ。……んふふ、なんかいいなあ」

「なにが?」

「だってえるがこんなに話してくれるのって珍しいんだもん」

「……あらそ。喜んでもらえたならなによりだわ」


 えるは優雅なふりをしてはにかんだ。それを見て私の口はよけいにだらしなく緩むもんだから、咄嗟に口元を手で覆った。


          *


 案内に従って屋外に出ると目の前に急な石段があって、それを上ると湯の上稲荷という小さな神社がある。だけど貴重品は財布も含めて預けちゃったもんだから、ご縁(五円)がない。

 冗談はともかく、道なりに進んでいくと、細い道を上った先に木々に囲まれた小屋が見えてきた。どうやらそこが露天風呂の入り口らしい。


「わ、ここ脱衣所?」

「……みたいね」


 小屋は玄関で、その先に脱衣所が設えられているものだと思ったら、小屋そのものが脱衣所らしい。構造は随分シンプルだった。小屋は3畳程度の面積で、地面(床ではない)にはすのこが敷かれている。出入口の戸の対角あたりに露天風呂への入口があって、こっちには戸すらない。


「これさ、着替え中に人の出入りがあったら見えちゃうんじゃない?」

「そうね。じゃあさっさと脱いじゃいましょ」

「えっ」


 えるは言うやいなやパーカーを脱ぎ、靴下を脱ぎ、ショートパンツを脱ぎ……。その白い肌を晒すことに恥もなければ怯みもない。ていうか改めて思うけどウエストも脚も二の腕もほっそいなあ。いいなあ。

 世の男性は女は適度に肉があったほうがいいと考えているそうだけど、それに反して女がウエストや脚や二の腕を細くすることに命を燃やすのはしかたないことだ。だって本能なんだから。燃費や奥さんと子供を乗せて休日に遊園地に行くことを考えて、スポーツカーよりもファミリーカーを選びますか? そういうことです。違うか。これは現実逃避です。


 ていうか私、どうしよう……。ほめれば健脚、けなせば大根、どっちにしても太いから。そんな脚を今にも人魚のひれに変わって優雅に泳ぎだしそうなえるの脚と並べなきゃいけないのか。すっかり忘れてた。そういえば、ここ最近は心身の疲労から私生活も雑になりがちでおなかも二の腕もわがまま気味だ。どうしようどうしよう。

 とりあえずおなかはへこまそう。大丈夫、息しなきゃ大丈夫。最悪死ぬけどありのままのおなかを晒すよりはいい。おや? 意外に息はできるな……。あとは二の腕と脚だ。ヨガのパワーでいけるでしょ。


「つわりの妊婦みたいな顔してないで、早く脱いだら?」


 あきれ顔のえるはいつの間にか長い金髪をタオルとヘアクリップでまとめていて、私は露わになったうなじの後れ毛に目を取られた。

「先入ってて」と促して、洗面台の鏡を見る。つわりの妊婦……そんな顔してた? 息を止めてさっきの表情を再現してみる。なんだか笑えて息が漏れた。

 妙に恥じらったりするからよくないんだ。恥じらわなくてもよくないけど。とにかく、脚を見せることと入浴することとはトレードオフだ。だったら私はえると一緒にお風呂に入ることを選ぶ。そうするべきだ。よし、よし、よし。

 結局、5分くらい迷ってようやく服を脱ぐ覚悟ができた。待ってて露天風呂!

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