#2 衛星都市で異世界転移 - 鶴巻温泉突発日帰り入浴の話
1.鶴巻温泉いきたい
ここ数日は、大学デビューのために覚えた化粧の上に、愛想笑いって名前のスクリーンセーバーを表示して、赤べこみたいに頷く日々を過ごしていた。誰となにをしても孤独で満たされない気分。
絵を描いて、アニメを観て、ちょっとだけ癒された気になる。空腹をベビーチーズとお茶で埋めるようなわびしさ。
親友といない私は、この茫漠とした都会じゃいつもそんなふうだ。
身体中の骨という骨が全部古木と入れ替わってしまったような感覚で、歩くのもおっくうなくらいで帰るなり鞄をほうってベッドに突っ伏したある日のこと。
目を覚まして、午後10時で、このまま朝まで寝てやろうかときっとひどい顔で思ったけれど、スマホにはLINEの通知が来ていた。
えるからだ。
それに気づいたとたん、脳はすっかり目を覚まして、身体は勝手に起きあがって正座でLINEを起動した。
鶴巻温泉いきたい
鶴巻温泉(つるまきおんせん)は
byウィキペディア。とっさにググっていた。恥ずかしながら、私は東京近郊の温泉地といえば箱根か湯河原くらいで、あとは草津や伊豆まで足を伸ばさないといけないものだと思っていた。秦野は小田急沿線、伊勢原や厚木の近くで、箱根や湯河原よりも近い。新宿から1時間足らずだ。
泊まり?
日帰り 温泉はいるだけ
お金あるなら泊まりでもいいけど
ないね……
私とえるとの間で、「いきたい」と言ったら「いこうよ」と同義。日帰りや1泊2日程度なら、簡単に予定と予算のすり合わせをしただけで今週末に出かけちゃう、なんてのもよくある話だ。
つまりは、今週末に鶴巻温泉に行くことが決定した。
*
下北沢駅で小田急線の快速急行に乗り換えると、えるはLINEで言っていたとおりの車両に乗っていた。その小柄な体躯に不釣り合いな無骨な銀色のヘッドホンをして、手元のスマートフォンに目を落としている。人混みと中吊り広告を公害と呼んで憚らない彼女は、あらゆるざわめきを退けるために、電車内ではいつもこんな感じだ。
なに聴いてるの?
えるの隣は空いていなかったから、私は正面に立ってLINEを送信した。笑みが押さえられなかったのはしかたない。
えるはちらとこちらを見て、すぐに画面に視線を戻す。私のスマホに通知が来た。
なのらいぷ
どの曲?
花いろのオープニングとか?
リアルワールド
シャッフル再生してるだけ
あー
なんかの主題歌だったよね 確か
人類は衰退しました
そうそれ!
目の前にいるのに、声ではなく手元の薄い板を介して会話するこの距離感。私たちは電車に乗るときは大抵こうだ。なんじゃそら、って思われるかもしれない。ひどくいびつに映るかも。でも私は好きだった。
電車が
自宅の窓から通りを挟んだ向かいの幼馴染の家の窓まで糸電話を伝わせて、幼馴染とお互いの部屋にいながら糸電話で話すという、とあるアニメのシチュエーションをふと思い出した。そうだ、この無駄さ、迂遠さは糸電話に似ている。ついつい「んふへ」と笑い声が漏れた。それを聞いて「キモい」とえるはつぶやいた。それが今日はじめて交わした声だった。
*
言葉を交わしたり、黙っていたりして、1時間ほど経ったころ、電車は鶴巻温泉駅に到着した。
降り立ったホームの外側に見えるのは、箱根や城崎みたいな情緒あふれる温泉街じゃなくて、「駅前」としか名付けようのないくらいありふれた駅前の光景。平日には毎朝真新しいマンションからスーツ姿の人が流れ出て、通勤電車に詰め込まれて新宿や横浜まで運ばれていく。そんなベッドタウン然とした風景だった。
駅を出たロータリーに、「鶴巻温泉にようこそ!」と掲げられていて、そこでようやくここが温泉地なんだってわかる。
私は温泉地といえばそこは日常世界から切り取られた異世界のようなものだという幻想を抱いていて、こんな日常の中に異世界が混ぜ込まれているなんて思いもしなかった。カレーにパイナップルが入ってるみたい。
今日のお出かけはえるの発案だから、案内もえる。連れられるままに駅から10分ほど歩いた。ここにしかない特別な物語を想像しにくいごく平凡な住宅街の中に、ちらほらと旅館の案内があらわれたあたりで、今日の目的地、元湯・陣屋にたどり着いた。
陣屋は大正の頃に三井財閥の別荘としてはじまり、100年以上の歴史を持つ老舗旅館だという。駐車場を抜けて1万坪を誇る日本庭園に1歩足を踏み入れると、そこより外にあるものが全部真っ暗な空間の中に崩れ去って、ここが世界のすべてのような気がした。
庭園の空気を全身に味わってみたくて、ぐるりと周囲を見渡した。すると入ってすぐの右手側に佇む
それを見ていることに気づいたえるが言った。
「ここのオーナーが宮崎駿の親戚らしいのよ。駿は幼少期をここで過ごしたの」
「へえー。ここの風景がジブリの世界の礎なんだね」
ここにいれば、もしかしたらトトロやコダマを見られるかもしれない。ネコバスに乗ってどこまでも行けるかもしれない。そんな夢想をしながら、私たちは静謐な森を歩いた。
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