首になって異世界に行った話

陰野ぼんさい

第1幕 ただ異世界に転生しただけならどれほど良かっただろう

 車窓から見える日はもう高く、まぶしくはない。

 窓に薄く映るどこにでもいるモブ顔は、まだ月曜日だというのにひどく疲れ切っている。

 顔がくっつくほど乗車扉にもたれかかっている白衣の男は、他の乗客にはさぞ異様に見えることだろう。

 近くでうろうろしている男の子が笑っている。

 私立の小学校だろうか。登校には遅すぎるし、下校には早い時間だ。早引きにしては元気すぎる。

 ふと仕事先の病院で入院している男の子のかんに触る声を思い出す。

「イヤだよ、男の看護婦なんて」

 僕が耳に体温計をあてがおうとすると、よく振り払って叫んだものだった。

 俺は男の看護婦じゃない、看護師! なんて嫌なガキだ。そんなのこっちだってかわいい女の子がいいわ。

 むりやり体温計を押し付けようとすると、男の子いよいよかんしゃくを起こしてわめき散らした。

 電車が揺れ我に返る。そろそろ最寄り駅につきそうだ。

 遠巻きに見ている年配の男が、乗車扉を塞いでいる僕に迷惑顔をしている。

 次の駅で降りるのだからそんな顔しなさんな。

 この時間なら重役出勤だろうに。心の余裕がないこって。

 僕は同じ病室で入院している口うるさいおじいさんを思い出した。

 男の子の右隣のベッドの寝たきり老人が恐ろしい形相で僕をにらみつけ、嫌味たらしくお小言を言う。

「体温ひとつ測るのにいつまでかかっとるんだ」

 こいつらは僕が看護するのはさも当たり前だと思っている。ふざけるな! 今まで耐えに耐えてきたがもうダメだった。

 僕は病室を飛び出し、ナースステーションに顔も出さずに病院を後にしたのだった。

 流れゆく景色が止まり、扉が開く。

 白衣のまま僕は駅から歩き出す。

 僕だって我慢したんだ。2ヶ月前この病院に赴任したときは人の為に尽くしたいと考えていた。本当だ。声の不自由な人のために熱心に手話も勉強した。

 しかし僕の青臭い理想など現実の前では砕け散ってしまった。患者はまるで神のように振る舞い、我々看護師は奴隷のようだ。看護師は看護するのが仕事なのだからと当然と思うだろうか。

 僕はふらつく足でアパートになだれ込み、ベッドに倒れ伏すとまったく体が動かなくなった。


 トゥルルルル。

 古い電話器のような耳障りな音がなっている。さっそく同僚たちが怒って電話をかけてきたのかと思ったが、考えてみたらウチには固定電話器がない。携帯の着信音だってこんな音じゃない。

 僕は嫌々薄目を開けてみた。

 目の前に黒いの鳥が三羽かたまっている。ちょうど尿瓶ぐらいの大きさだ。一羽はトゥルルルルと高い声で鳴き、他の二羽は黙って聞いている。僕のほほにはチクチクした雑草が当たっているし、遠くまで森が続いていた。よく見れば三羽の鳥ではなくカニのような胴体に三本の鳥のクビがくっついている。

 ああこれは夢だなと思って、僕は再び目を閉じた。

 ほほを鳥についばまれる痛みで、寝ぼけていた頭が働き始める。

 これは本当に夢なのか?

 僕は見慣れた自分の部屋であることを願いながら、ゆっくりと片方のまぶたを上げた。

 木々がひしめき合っている緑一色の深い森。整備された道でなく、ただ白い玉砂利が敷き詰められた道が一本だけ心細くつながっている。鳥のクビたちが触診するようにつついていたが、僕の驚きの声で逃げていった。

「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁー!!」

 辺りを見回そうとするが首が動かない。目だけ動かして確かめると自分の体が見えない。自分の体が自分の視界から消えてしまうなどということがあるだろうか。確かめようと自分の足を触る。足はついてる。股間、腹、胸と手を上に上に動かしていく。自分の体はあるんだ。ゴーストペイン?

 ゴーストペイン。幻肢痛とも言う。体の一部を失った人が、切断されてないはずの体に痛みを感じる現象のことだ。

いや違う。ないはずの体に感覚が残っているのではなく、感覚はあるのに体が見えないのだから。幽体離脱のほうがまだ近いかもしれない。

 自分の寝ている周りを触ってみるとベッドの弾力が確かにある。ベッドの下に手をはわせていくとフローリングの冷たくツルツルした感触がした。見えている景色は森の中なのに。

 間違いないここは俺の部屋なんだ。ただそれは感触だけで、視界とは一致していない。

 この見ている景色の中に自分の体がないちぐはぐな感じ。何かに似ている。そうだVRだ。

 VRはコンピューターによって360度見渡せる仮想空間を作る技術で、医療機関でも手術補助として注目されている。一般的にはHMD(ヘッドマウントディスプレイ)というゴーグルを付ける体感型のゲームのイメージが強いだろう。

 僕は手を肩から首へと伸ばし、顔にストラップで固定されているであろうHMDを外そうとした。

 ところが手は空をつかむばかり。VRじゃないのか? HMDがない? それどころか本来顔があるべきところに何もない。自分の首から上には触ることができなかった。

 夢でもVRでもないとなると、いよいよラノベのような話だ。

 もう現実の世界になんて未練はないんだ。異世界で暮らした方がいいに決まってる。ただ異世界に転生しただけならどれほど良かっただろう。

 あまりにも常識外れな話だが、こう考えなければつじつまが合わない。

 おそらく僕は首から上だけが異世界に入り、首から下の体は現実の世界に残されたままなんだ。

 こんなことがあって良いのだろうか。いったい僕が何をしたって言うんだ。

 確かに何もかもイヤになって仕事を投げ出しはしたが、首になって異世界に投げ出されるほど罰あたりなことだろうか。

 もしこれが僕へ対する罰なのだとしても、その罰は始まったばかりなのかもしれない。

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