第8話 『死』を逸らせた男

 

 1歩、2歩……。

 

 ホームを歩く。もう、どうだっていいや。

 

「間もなく4番線に……」

 

 今度のアナウンスは生の声。もう本当にすぐ電車が入線してくるのだ。

 

 3歩……。

 

 そこで止まった。いや、止められたのだ。

 

 ぼくの真横に男が張り付いている。背丈はぼくと同じくらい。齢は少し上といった感じ。強烈な握力でぼくの左の二の腕をつかんでいる。

 

 ぼくは男をじっと見た。なんともいえない表情。怒るでもなく、諭すでもない。男の行為は分かっている。ぼくがふらふらと進んで線路に飛び込もうとするのを防いだのだ。でも、その表情にはなにも浮かんでいない。なんとなく、落ちそうになる物をちょっと支えた、というような感じだった。

 

「あの……」

 

 ぼくはなんと言っていいのか分からない。礼を言うべきなのか、それとも大きなお世話と咎めるべきなのか。それとも、どうして飛び込もうとすることが分かったのだと、単に質問するべきなのか。

 

 2人でじっと固まったままのところへ、電車が入線する。電車は減速し、そして扉が開いて数人の客が降りる。

 

「それでは、いってらっしゃい」

 

 ぼくの二の腕から手を放した男は、背中をポンと叩いた。

 

 それにつられるように、ぼくは数歩進んで電車に乗った。そしてドア際に立って男を見た。

 

 男はもう去っていた。左右に視線を走らせたが、見当たらない。そこでドアが閉まり、電車が滑るように発進した。

 

 その不思議ないっときのために、ぼくの目は機能していない。車窓が流れるが、まったく目に入らないのだ。考えるのはさっきの男のことだけ。なんだったのだろう……。

 

 ぼくの足取りは、見た目、とんでもなくおかしかったのだろうか。いや、そんなはずはない。では何故、飛び込もうとすることが分かったのだろう。あの程度ふらついた人間など、たくさんいるだろうに。

 

 でも男はぼくを止めた。その一瞬の気を見事に逸らせたことで、ぼくは死んじゃおうという気持ちを吹き飛ばせた。こうやって生き続けているのがいいことなのかどうかは分からない。でも間違いなく、あの男のおかげだった。

 

 自死は、衝動だ。その一瞬をはずせば、死のうと思わなくなり、まただらだらと生き続けていく。また煮詰まっていき、再び死へと向かっていってしまうかもしれないが、とりあえずしばらくは抑えられることだろう。

 

 ぼくはぼんやりとドア際に立ち、田名瀬のおじさんの会社がある駅に着いて電車を降りた。そして10分ほど歩き、会社の前に立った。

 

 その社屋は、『建っている』というよりは『そびえている』という風だった。ドーンと、視覚一杯に高い塀が続き、その中にクリーム色の建物があった。受付の場所を探すだけでもひと苦労のようだった。

 

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