第26話 暗条冥の過去
その晩。
多くの人が寝静まる夜更けの時間帯。
冥は学生寮、女子宿舎の裏手にある小さな広場で一人黙々と黒睡蓮を振り回していた。その姿は何かを切り裂くように鋭く、何かを振り払うかのように荒々しい。
すでに、学園が終わって、帰宅してから、冥は三時間ほどこうして一人でMAW片手に舞っていた。
鬼気迫る表情で何もない空間目がけて冥は黒睡蓮を大上段から振り下ろす。ブオンと空気を裂くような音が裏手広場一帯に響いた。
「……まだ、足りないっ!」
脳裏に蘇るのは、祢音との戦闘訓練時のこと。同い年であそこまで強い人は初めて見た。あれを見てしまうと自分の力がちっぽけに感じてしまう。こんなんじゃあいけないと、手に持つ黒睡蓮に力が入る。
轟々と激しく、何度も何度も体を酷使するように黒睡蓮を振っては引き、回しては薙ぎ払う。あまりにも稚拙で雑な特訓。ただ、自身を痛めつけているようにしか見えない。
実はほぼ毎日、冥はこの時間帯にいつものようにこんな訓練を一人でしていた。それも約二年間ほぼ毎日だ。
休みはなく、疲れて倒れるまでただただ鍛錬に励んでいた。忌々しいあの男を殺すまで、憎しみの火に薪をくべるように燃え盛らせながら、無理矢理に自分の体を酷使し続けていた。
冥が自分をこうまでして追い込むほど鍛錬に打ち込むようになったのはある事件が起きてからだ。
元々、冥は魔法師の名家でもないただの一般家庭に生を受けた。暗条家の長女として、家族に目一杯可愛がられて育った冥は、自分を愛してくれる両親や兄のことが大好きだった。
お淑やかで常に落ち着いた性格の母親。よく言えば、クール。悪く言えば、少し冷たい。怒ると怖いが、最後には絶対困った顔で許してしまう甘い人でもあった。
普段は能面のようにあまり表情を変えなかったが、温かく家族を見守っていた父親。別に感情がないわけではなく、感情表現が苦手なタイプだったのだろう。たまに口端を小さく上げて、頭を優しく撫でてくれる大きな手が冥は大好きだった。
そして、冥の自慢だった兄。母と父の血を受け継いでるからか、常に泰然自若としていて、あまり感情を表に出さなかったが、妹である冥には常に微笑みかけてくれた。
冥は特に八歳ほど歳の離れた兄によく懐いていた。お兄ちゃん子と言ってもいい。
冥にとって、兄である
どこにでもある一般家庭で、どこにでもいる普通の少女。
そんな女の子の些細な日常が崩れ去ったのは、突然のことだった。
兄である影正は魔法師になった後、警察官として地元の警察署に所属していた。魔法師犯罪対策課の実働部隊の一人で、主に悪に手を染めた魔法師や魔法を使って犯罪を犯そうとした人間などを取り締まる課である。
そこに配属されてから、影正には親友と言ってもいい一人の友人ができた。
それが、
歳は影正より二つほど年上だが、遊星は同じ課に配属された同期だった。実働部隊では影正とパートナーを組んでいて、二人はすぐに打ち解けるほど仲良くなる。
遊星は物腰柔らかなタイプのまさに大人の男性と言った雰囲気の人物。怒ることがなさそうな人柄で穏やかな性格をしていた。後に影正だけでなく、暗条家との付き合いにもなり、当時の冥も兄の親友という理由だけで簡単に彼を信用した。
それがいけなかったのだろう。
いや、もしかしたら遊星の柔らかい性格のせいもあったのかもしれない。子供だったからという理由もある。
――自分がバカで能天気だったから、お母さんにお父さん、それにお兄ちゃんは……!
考えれば考えるほど、何がいけなかったのかが降っては湧いてくる。
何も知らず、何も知ろうとせず。ただ、兄と友人という理由だけで、自分も彼に好感情を持った。
結局、遊星のすべてが実はまやかしだったと冥が知るのは、彼と知り合ってから結構な月日が経った時のこと。
冥の日常が壊れ、すべてが血に染まった二年前のあの日。
鍛錬を続けながら、冥は回想するように自分の転換日とでも言うべき日のことを思い出すのだった。
♦
その日は夕方から大雨が振っていた日で、冥は憂鬱な気分を抱いて、学校から帰宅していた。地元にある中学校に進学したばかりで、少ないが、友人もできた楽しい毎日。
新しい生活は新鮮だが、変化のない日常に退屈していたのも事実だ。
少しくらいの刺激は欲しいと傘の下、覗く雨空を見上げながら、冥は夢想していた。
見ていた願いは何だっただろうか。今となっては正確に思い出せないだろうが、その時はきっと綺麗で変わり映えのしないこの日常とは正反対のドキドキで、ハラハラとした非日常を夢見ていたのかもしれない。
そんなことを思ったのがいけなかったのか。変化を望んだから、神様は自分に試練を与えに来たのだろうか。
考えても答えが出ることはない。結果的にそれが偶然にせよ、必然にせよ、それは冥に降りかかってしまった惨事。すでに起こったことをあれこれ言っても過去は戻ってこないのだから……。
自宅についた冥は違和感を抱く。扉を開けようと鍵を差し込むも、なぜか扉はすでに開いていた。いつもは必ず鍵が掛けられているはずなのに。
その時はすこし不思議に思ったくらいだ。ただ、家の中に入って違和感は増した。
冥が最初に感じたのは、鼻にツンと刺す鉄臭い匂い。
何故か電気はすべて消えていて、いつもは母親が何かを作って待っているはずのリビングでは暗闇が広がっていた。
「お母さん……?」
少しだけ恐怖が冥の体を縛るが、何とかそっとリビングに顔を出し、母親に呼びかける。しかし、返事は返ってこない。
「お、お父さん……?」
珍しくも今日は仕事が休みだった父親。朝、学校に行くときに自分だけ休みの父親を羨ましく思い、少しだけ当たったことを思い出す。同じように返事は返ってこない。
「……誰もいないの?」
あまりの静寂さに、二人とも出かけたのかと思い、リビングに一歩を踏み込んだ冥は、ぽちゃという水を弾いたような音が足元から聞こえたことに疑念を持った。
暗くて地面は見えない。
水漏れでも発生したのだろうか?と首を捻りながら、電気をつける。
そして明るくなったリビングで、冥が見たものは、
――天井、壁、地面、扉、そこらにある調度品、すべてが真っ赤に染まった変わり果てたリビングだった。
「え……」
視界に最初に入った光景を認識するのに冥は数秒の時間を要する。自分の家のリビングは真っ白い壁に包まれた小奇麗な感じの部屋のはずだ。こんな赤に染まった危険な匂いのする部屋ではなかった。
眼前に映るのは現実なのか。
無意識に一歩後ずさる。すると、すぐ近くの壁に手が触れた。
ぬめっとした感触が手に返ってくる。
「……!?」
思わずビクッと震えた。恐る恐る手を見ると、べっとりと赤く染まった
「な、なにこれ……」
ぐちゅっとしたグロテスクで小さな塊。まるで豚肉や鶏肉を手に持った時のような感触。
赤色に染まったそれは小さな肉の切れ端だった。
冥はそれが飛び散った何かの肉片だとわかった瞬間、リビングを染める赤い惨状の正体が血だと理解した。
本当は見た瞬間にわかってはいた。匂いと色で一瞬で判断出来ていた。ただ、納得したくなかっただけ。これを血だと思ったら、自分の中の何かが弾ける気がして……。
だけど、もう見て見ぬふりはできない。完全に血だと脳に刻み込まれてしまった。
「ひっ!」
それを理解した瞬間、冥の喉の奥から小さな悲鳴が漏れる。
一体今何が起きているのかわからない。何で血がこんなに散漫しているのか。何で肉片なんてものが飛び散って、壁にこびり付いているのか。冥にはわからなかった。
恐怖心から、すぐにリビングを出ようと、入り口に後ずさるように下がる。
だが、あと半歩でリビングを出れるというところまで下がったところで、
「あれ?冥ちゃん帰ってたの?」
と、この地獄のような状況の中でどこか明るく、聞き覚えのある声が突如後ろから聞こえた。
慌てて振り返った冥の前にいたのは、兄である影正の親友、篠原遊星。
どこか嫌らしく不気味な笑みを携え、冥のことを見下ろしている。その目は、まるで新しい獲物が見つかったかのような不吉さを孕んでいた。
「し、篠原さん?……きょ、今日はお仕事じゃないんですか?」
自分でもとんだ場違いな質問をしていると分かっている。ただ、それは咄嗟の防衛本能から来たものだ。
頭のいい冥は、目の前の遊星を見た瞬間、大体のことを把握してしまった。いつもの穏やかな容貌から乖離した薄ら笑い。服や顔につけた返り血。傷らしい傷がないのに、血が出るはずもない。誰かの血なのだろう。
目の前の男が何をしているのか。この血や肉片が誰のであるのか。家にいたはずの母と父の行方はどうしたのか。
本心では薄々わかっていた。けど、信じたくなかったのだ。
だから、咄嗟とはいえ世間話のような内容の言葉が出てしまった。
「仕事?ああ、大丈夫だよ!一応ね、今日で全部終わったから!今は僕の趣味の時間の最中なんだ!よかったら、冥ちゃんも見てよ!」
初めて見るテンションが高い遊星。この状況の中でまるでピクニック気分かのように意気揚々としている彼を見て、冥は恐怖心を募らせる。
正直ついていきたくはない。だけど、遊星の目はそれを許す雰囲気ではなかった。
楽しそうに遊星はリビングの奥に向かう。状況と隔絶したその表情はますます冥を不安にさせた。しかし、動かないと何をされるかわからない。冥はびくびくとだが、一歩一歩ゆっくりと歩みを進めるように後ろをついていく。
そして辿り着いたキッチンの裏側。
嬉々とした様子の遊星の見つめる先。
冥が目線を向けると、そこにあったのは、
――頭部以外が原形をとどめていない母親と父親の肉塊と手足の無いだるま状態になった冥の兄である影正だった。
「あ、あ、あ、あああああああああああああああ!!!!!」
それを認識した瞬間、雄たけびとも悲鳴ともつかない叫びが冥の口から迸る。
想像していた現実が当たりだと否が応にも伝えてくるその光景。
言葉にならない嘆きは、怒りからか、それとも悲しみからか。
その声を聞いて、まだ意識があったのか、影正が息も絶え絶えのか細い声をあげる。
「……め、冥……!」
「お、お兄ちゃん!!お兄ちゃん!!お兄ちゃん!!」
まだ生きていることに驚いた冥は、すぐさま影正に駆け寄った。
「ね、ねぇ大丈夫!?あぁ!?そうじゃない!!きゅ、救急車っ!!そ、それに血を止めないと!!」
「に、逃げ……ろ……」
「い、いや!置いてけない!」
冥は何をすればいいのか、思考が纏まらない。掠れた様な声しかでない影正は、途切れ途切れに冥に逃亡を勧める。が、冥は頑なにも兄を助けようと必死だった。
この状況を引き起こしたであろう張本人の遊星はそんな二人の様子を見て、まるで舞台役者のように大げさな身振りで感動を露わにする。
「おお!なんと美しき兄弟愛かな!良かったですね!影正君!旅立ちを冥ちゃんに見送ってもらえて!」
微妙にずれているような発言をする遊星。しかし、必死に兄を介抱しようとしていた冥は聞こえていたが、反応を返しはしなかった。
無視された形になった遊星だが、堪えた様子もなく逆に嬉しそうに頷く。
「うんうん。いい兄妹愛だなぁ!いつも思っていたけど、本当にいい兄妹だ!だから、特別に冥ちゃんの目の前で影正君を旅立たせてあげるよ!」
芝居がかったような動作で遊星は腕を広げる。すべて耳に届いているが、ただただ影正を助けようとしている冥は遊星に構ってられなかった。
そうして遊星の体から湧きだす
「華麗なる花火を上げて、旅立ちを祝福するよ!影正君!」
その声が合図となったのか、遊星の魔法が発動した。
ボンッ!
「あ……?」
一瞬何が起きたかわからなかった。
唐突に目の前で膨らませた風船を割ったような軽い音が鳴る。ぴちゃぴちゃと何かが冥の顔や体に飛び散ってきた。
冥は恐る恐る視線を下に向ける。何もなかった。さっきまで必死に止血しようと近くにあったタオルで影正の腕から流れる血を止めていたというのに……今はその面影がない。
少し視線を上げれば、ゴトリと転がるように影正の頭部とぐちゃぐちゃの肉塊があった。
「……」
認識したくない。現実を見たくない。
こんなのは嘘だッ!と冥の心が悲鳴を上げる。
「……なんで……?」
冥は光の無い虚ろな瞳を虚空に向けながら、抑揚のない声で、疑問の言葉を発する。別に質問の意図があったわけじゃない。認めたくない現実に対する小さな呟きみたいなものだった。だが、遊星はその声が聞こえたのか返事を返す。
「なんでとは、もしかしてなんで影正君達を肉塊にしたのかってことを言っているのかな?あれは僕の愛なんだけど……あっ!自分だけ仲間外れにされると思ったのかな?大丈夫だよ!心配しないでも、冥ちゃんもちゃんと愛してあげるからね!最初はちょっと痛いけど、我慢すればすぐだから!」
先ほどから支離滅裂で、食い違うように話が合っていない遊星。
狂気がそのまま歩きだしたかのようなおぞましさを漂わせるその言葉は、しかし、完全に絶望しきっていた冥には届かなかった。
徐々に遊星の近づいてくる。その手が次に散らせるのは、冥の命。
すでに冥に抵抗の意思はない。
そして――そこで冥の意識は途切れた。
♦
鍛錬で疲れた冥は現在、地面に仰向けになるように倒れこんでいた。
自分の最後の記憶はあそこまでだった。
あの後、病室のベッドで目覚めた冥。実は、当時パトロールをしていたはずの影正と遊星の帰りが遅いことから、二人を探していた同じ課の警察官が偶然にも冥を助けることになった。
その後、冥は病室のベッドで担当の刑事からあの事件の経緯を聞くことになる。
犯人の篠原遊星は残念ながら、捕らえることはできなかった。
彼は世界的にも有名な犯罪組織である【
後々分かったことだが、長年、遊星が冥の地元の警察署に潜んでいたのはこの国で捕まった仲間の情報を探ることだったらしい。
あの日、あの時、本来の仕事を終えた遊星は、長年の拘束から解かれたことで、欲望を解放し、犯行に及んだ。その対象が仲の良かった影正であり、その家族だったということ。冥が生きていられたのは本当に運がよかったのだ。
本人としては、生きてても、死んでても、どっちでもよかったのかもしれないが……。
父と母を失い、そして兄まで失った。その喪失は冥の心にぽっかりと穴を空けた。しばらくは生きる気力を失い、何もせず、ただ死を待つような生活を続けてきた冥。
けれど、いつしか家族の喪失は自分からすべてを奪った者への憎悪に移り変わっていた。
憎めば活力が湧きだし、恨めば希望が芽生える。
気が付くと、家族の仇をうつためだけに力をつけ始め、生きるようになった。魔法師になる決意をしたのもこの時だ。
――魔法師になってあの男を絶対に殺す。
一夜にして非日常に足を踏み込んだ少女が決意した誓い。
冥の瞳に映るのは家族の仇だけ。
(私の全てを賭してでも!)
憎悪の炎を瞳に宿らせ、立ち上がった冥はまた鍛錬を再開するのだった。
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