二十四話 表裏

 ヨハンは、サフィニアを……いや、サイネリアを、大事にしていた。

 ――少なくとも、マローネの目にはずっとそう映っていた。


 二人は仲が良く、サイネリアはヨハンを誰よりも信頼していて、ヨハンはサイネリアをよく支えていた。


 そもそも、最初にマローネが好敵手と認識した相手なのだ。サイネリアの信頼も親愛も、彼は充分に集めていたし、同じだけのものを返していたように思えた。


 そんなヨハンが、内通者だという。

 もしも、それが事実ならば……。


(これが、貴方の言う、裏の顔だとでも言うつもりですか、ヨハン殿……!)


 使い分ける、表と裏の顔。


 マローネ達に見せていた、人好きのする笑みが印象的な、兄貴分という顔。その裏側にある顔が“内通者”だなんて悲しすぎる。

 これでは、みんなが傷つくだけだとマローネは唇を噛む。

 けれど、答え合わせの時間は、目前に迫っていた。

 

「お帰り、お二人さん」


 屋敷付近まで来ると、ふとヨハンが姿を見せた。まるで、待っていたかのように。

 彼は、いつものように気さくな笑みを浮かべ、片手を軽く上げて、出迎えるような仕草を見せる。


「まったく、どこへ行くとも言わず姿を消すから、心配しましたよ。ばーちゃんなんて、大慌てで……。年寄りに心配かけるのは止めて下さいね」

「あぁ、すまないな」


 “サフィニア姫”ではない主を見ても一切動揺せず、ヨハンは軽口を叩いて見せた。サイネリアもただ、謝罪する。

 素直な態度に、ヨハンは仕方ないなという風に苦笑を浮かべる――まるで、いつも通りだ。


「まぁ、マローネちゃんが一緒だろうからって言ったら、安心してましたけど」

「そうだろうな、メアリはマローネを気に入っている」


 サイネリアの言葉に、ヨハンは笑顔のまま頷いた。


「そうそう。と言うより、あの屋敷の人間は、みんなマローネちゃんのことがお気に入りですよ。……貴方を含めてね、サイネリア様」


 そして、初めて公では死んだことにされている弟王子の……かつての親友の名前を呼んだ。

 自身に呼びかけられたサイネリアは、わずかに目を細める。その視線は、ヨハンの片手……いびつで稚拙な腕輪に注がれている。視線の先にある物に気付いたのは、おそらくマローネだけだっただろう。


 やがてサイネリアは、苦笑交じりに返事を吐き出した。


「気に入りは、お前だって同じだろう」

「はは、そりゃもちろん」


 ヨハンは大きく頷く。


「なんかちびっこくて、一生懸命走り回ってて、可愛いんですよね。妹がいたら、こんな感じだろうなって思ってたんですよ。……――だから、残念だなぁ……」


 ふと、声の調子が変わった。

 幼なじみの変化を感じ取ったサイネリアもまた、ぐっと眉を寄せると目を伏せた。


「残念、か。……俺も、残念だよ、ヨハン」

「…………」


 ためらいを振り切るように顔を上げると、サイネリアはヨハンを問いただす。


「王妃に、俺の情報を流していたのはお前だろう。……今までずっと。お前は、王妃が用意した俺の監視役だった。そうだろう? 俺がサイネリアである事だけは、伏せていたようだが……」

「あぁ、そうだよ」


 迷う素振りすら無く悪びれのない肯定が返ってきて、マローネはたまらず声を上げた。


「ヨハン殿、どうしてですか……! 貴方はサイネリア様の幼なじみで、ずっとそばにいたのに……! どうして、サイネリア様を裏切るんですか!」


 サイネリアに、もっとも近しい人間と言うことは、おそらくサフィニアにとっても、もっとも近しい存在だったに違いない。

 マローネの特別である二人から、全幅の信頼を寄せられていたはずなのに、それを裏切った事への後悔も、羞恥もない。


 今のヨハンには、何も無い。


「どうして、か。そんな事をわざわざ問いかけてくるなんて……君は、本当いい子だよね、マローネちゃん。人の善だけを見て、それを信じて、肯定してくれる。君といると、きっと大多数の人間は、自分を良い人間だと思い込めるだろうね。自分は許されたんだと、錯覚できるだろう。……そこにいる、サイネリアみたいにさっ……!」


 ヨハンが、突然大声で叫んだ。

 笑顔が常だった平素の彼、その面影は微塵もない、負の感情がぐちゃぐちゃに入り混ざったような形相だ。


「……これが、ヨハン殿の裏側、ですか?」

「――あぁ……。言った事、ちゃんと覚えてたんだ?」

「貴方の裏側は分かりました。でも、どうしてこんな事をしたのかは分かりません」

「簡単だよ。君が現れたからだ」


 マローネは、言葉を失う。

 ヨハンが一転して見せた笑顔が、あまりにも場の雰囲気に不釣り合いだったからだ。

 一瞬前の激高が嘘のようだ。答えをくれた口調は、世間話の延長のように気安い。


「隠れ姫に騎士が出来たって知った途端、王妃様がへそを曲げたんだ。……ソニア様の面影が色濃い“隠れ姫”を、あの方は元からたいそう嫌っていてね、陛下にも会わせない徹底ぶりだった。そんな、気に入らない相手が……これでもかってくらい冷遇してきた相手が、よもや騎士を持つなんて、と意地悪根性丸出しだった」


 でも、最初はちょっと脅かしてやれって気持ちだったと思うよと、ヨハンは続けた。


「だって、殺すように焚きつけたのは、俺だからね」

「…………あんな、穴だらけな方法で、か? ふざけるなよ、僕には殺す気なんてさらさらないように見えたぞ」


 エスティが訝しむと、ヨハンはマローネ達といたエスティとジェフリーに初めて気が付いたとばかりに視線を向けた。


「あぁ、どうも。いたんだ? ……穴だらけだって、そりゃあそうさ。実際死なれたら困る。素人を紛れ込ませるのが、ちょうどいい感じだったんだよ」

「理解できないわね。貴方は、サイネリア様をどうしたかったのよ」


 しびれを切らしたジェフリーの問いかけには、答えは無かった。ヨハンはそれっきり騎士二人を無視し、サイネリアとマローネに視線を戻す。


「君が現れなかったら、きっと何も変わらなかったよ、マローネちゃん。君が、切っ掛けになった」

「…………言いがかりはやめろ、ヨハン。マローネには、なんの責任もない」

「ハッ! わかってないなぁ、サイ様は。今、そうやって言い返してきたのが、なによりの証明だろうが」


 するり、とヨハンは腰の剣を抜く。


「マローネちゃんは、俺が折角作り上げた《隠れ姫サフィニア》を、サイネリアに戻してしまったんだよ」

「――は?」


 虚を突かれたような声を上げたサイネリアを見て、「ほら、また」と肩を揺らして笑った。


「お前を、ただの男にしちまった。そして、俺のサフィ様を、どんどん消していった」

「……ヨハン、お前は……」

「王になれない、あの時お前はそう言ったな。だったら、お前が出来る事はサフィ様を存在させ続ける事だけだ。……それなのに、お前はそれすら放棄しようとした」


 ヨハンの目が、ぎらりと凶暴な光を宿したかと思うと、吠えるような声が響き渡る。


「サフィ様に守られて、サフィ様の名前に隠れて、散々逃げ続けたくせに、彼女を消して、サイネリアに戻ろうとしたんだ! それならっ、対価を払え! サイネリア!!」 


 斬りかかるヨハンを、マローネが押しとどめた。


「どけ! お前に用はない!」

「お断りします!」

「あれだけサフィニア様サフィニア様って言っておいて、いざ死んでいると分かると、あっさり鞍替えして、生きている人間に尻尾を振る! そうやって、誰もが彼女を過去にするんだ! 消してしまうんだ! そんなこと、俺が許すものか!」

「……っ! 貴方は、さっきから何を言っているんですか!」


 力で押してくるヨハンに対し、マローネは一瞬だけ受け止める力を抜く。わずかに体勢を崩したヨハンを蹴り飛ばした。

 しかし、一度地面に転がったヨハンが再び起き上がった時、まっさきに視界に捕らえたのは、マローネではなかった。


「彼女は、永遠でなくてはいけない」


 サイネリアだけを射すくめるように見つめたヨハンは、呪いのような言葉を吐き捨てる。


「――《隠れ姫》として、サフィ様は今まで存在し続けた。けれど、サイ様が全てを放棄すれば、彼女はもうどこにもいなくなってしまう」

「…………」

「サイ様、俺は言ったよな? 全部任せてくれって、俺が何とかしてやるって、あの時ちゃんと言ったよな? なぁ? それなのに、どうして与えられた役割を放棄する? どうして、自分が選んだ事を投げ捨てる?」


 ヨハンは、地に片膝をついたままサイネリアだけを見ている。サイネリアに、二人にしかわからない疑問を投げつけ、答えを求めている。


「ヨハン……」


 かつて答えから逃げた王子は、その視線と疑問を、真っ正面から受け止めた。

 自分で見つけた、一つの答えを、引き絞るような声で口にする。


「……ヨハン、俺達は、間違えたんだ」

「……はぁ……?」

「臆病だった俺が、選択を間違えた。俺は逃げるべきじゃなかった、あの時、お前と一緒に立ち向かうべきだったんだ。――サフィを言い訳に、逃げるべきではなかったんだ。すまない」

「……なんだ、それ……」


 ぽつりと、ヨハンが呟いた。呆然とした表情で、かすれた声を吐き出す。


「…………どうして、今言うんだ?」


 どうして、今更そんな事を言うんだ?


 形にならない声が、サイネリアを責めているようだ。

 けれど、“今”のサイネリアは逃げ出さなかった。


「すまない。…………俺は、サフィを逃げ道にした。そして、お前に甘えて、逃げる理由にした。でも、こんなことは違う。俺が、いくらサフィが生きているように振る舞ったとしても、そんなものは嘘偽りだ」


 一言、一言。考えるように紡がれるサイネリアの言葉に、ヨハンは緩く首を左右に振る。


「俺の演じる隠れ姫は、サフィじゃない」

「……黙れ」


 顔に浮かぶのは、焦りのような何か。


「俺にとっての、都合の良い隠れ蓑だ」

「…………黙れよ……」


 ――いや、怯えだと、マローネは気が付いた。


「……ヨハン、サフィはもう、どこにもいないんだ」


 ヨハンは、サイネリア自身から《サフィニア》を否定される事を恐れている。

 見開かれた双眸が、答えだった。


「――黙れって言ってるだろぉっ!」


 恐怖心と焦燥感にせき立てられたヨハンは大きく腕を振り上げる。

 しかし、感情のまま投げつけられた剣は、サイネリアに届く前にマローネによって弾き飛ばされた。

 剣が転がる音がと響く中、サイネリアはヨハンに告げた。


「サフィのことは、もう眠らせてやろう。遅くなったけど、眠らせてやろう? 俺やお前が、覚えていれば、サフィの存在は消えたりしない」

「…………」

「頼む、ヨハン。俺と……、このサイネリアと一緒に、立ち向かってくれ」


 その言葉に、ヨハンは目を見開いた。唇が震えて、目に涙が溢れる。泣き笑いの形に歪んだ表情のまま、ヨハンは言った。


「その言葉……――もっと、早くに聞きたかったよ」


 立ち上がった彼は、素早く転がっていた剣を掴むと――。


「ヨハン!?」

「ヨハン殿!」


 自身の胸に、突き立てた。

 そして、駆け寄ったサイネリアに、笑ってみせる。


「……駄目なんだよ、サイ様。思い出は、どんどん薄れていく。それじゃ、駄目なんだ……。…………だから、お前がこれから先、サイネリア様として、生きていくなら……、逃げないで、くれ……。お、王に――」


 伸ばされた手……、薄紅の腕輪がはめられたその手を、サイネリアはしっかりと握った。


「……あぁ、王になる」

「…………そっ、かぁ……。よかった……――よかったなぁ、サフィ……これで、もう――」


 ふと、力が抜けたような笑みを浮かべ、ヨハンは目を閉じた。


「…………だから、俺に、力を貸して欲しい」


 それが分からなかった筈がないのに、サイネリアはヨハンに語りかける。


「…………俺と一緒に……どうか、立ち向かってくれ」


 聞いているのか、とヨハンの体を揺するサイネリアは、見ていられない。

 マローネとエスティはたまりかねて一歩踏み出した。しかし、エスティはジェフリーに止められる。


「……なんだ」

「今は、そっとしておいてあげましょう?」

「…………あいつは、いいのか?」

「えぇ。マロちゃんは、殿下の騎士だもの」


 マローネは、黙ってサイネリアの傍に立つ。

 隠れる事を止めて、サイネリアとして……――王子として生きると言うことは容易ではない、そう示された気がした。


 けれど、目を背けてはいけない。

 ヨハンが以前言ったように、人には裏と表がある。


 表裏は、なにも良い面と悪い面だけではない。裏側には、隠しておきたい、弱い部分も含まれるはず。

 今こうして、友を亡くして泣いているサイネリアに、慰めの言葉をかけることは簡単だ。

 けれど、きっとサイネリアは、触れられたくないと思っているはず。

 それならば、自分が出来る事は、悲しむ彼の傍にいる事だけだ。


 彼が立ち上がるときに、支えられるように。


「…………マローネ」


 ややあって、サイネリアに涙声で呼ばれた。


「…………見て下さい、コイツ、……笑ってる」

「……本当ですね……」


 サイネリアの腕の中、ヨハンはまるで幸せな夢でも見ているかのような笑みを浮かべていた。

 事実、彼は最後の最後で、安堵を得られたのだろう。


「こんな笑顔……、初めて見ました……っ――」


 言葉を詰まらせたサイネリアの肩に、マローネは今度こそ……そっと手を置いた。ぴくりと肩を揺らしたサイネリアだったが、振り払う事はしなかった。

 ただ、マローネの手に自身の手を重ねると、ぎゅっと痛いくらいの強さで握り返してくる。

 


 ――ヨハンは今、ようやく最愛の姫を、自身の中で永遠にする事が出来た。

 それはある種の幸福であり……残された者達にとっては、取り返しのつかない悲劇だった。

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