第4話 別途、撫でる
1
遊覧船で十五分。賑わった時期もあったのだろう。いまはだいぶ閑散としている。客は他に二組。二組? 採算なんて取れてない。水族館の飛び地みたいな役割なのだ。メインの水族館で満足できればわざわざこんなところまで足を伸ばそうとは思わない。
名前は知らない。会うのはこれが最初で最後になる。名前なんかなかったかもしれない。
聞いた話だと、相当イってるらしい。脳も嗜好も。
写真は当てにならない。整形しなくても顔くらいいくらでも変わる。
太陽と潮風に徹底的に苛め抜かれた全島案内図を睨んでいたらケータイが鳴った。よかった。このクソ暑い中探し回る手間が省けた。
「いまなら間に合います。さっき乗っていた舟に戻ってください」
「はあ?」
「わたしはそこの甲板にいます」
「ちょお、そないなこと」
お乗りの方はお急ぎ下さい、を知らせる合図。
「電話は切らぬよう」
なんだって来たばかりで引き返さなければいけないのか。上陸五分。なんのために船酔いを我慢して。などと文句を言っている場合ではない。向こうが船にいるなら舟に乗るしかない。
また走った。さっきもズ阿呆な下っ端運転手がもたもたしてて出航ぎりぎりだった。乗船のたびに走っている気がする。
係員に変な顔をされたので思わず電話を耳に当てる。これを切っていればもっと走りやすかったのに。
「このまま話しましょう」
「ツラなん下りたら忘れるわ」
「わたしが、あなたに会いたくないんです。連れて帰りたくなるから」
「意味わからんな」
甲板につながる階段はひとつ。それが過不足なく見張れる位置に座る。
ガキンチョが中央の通路を駆ける。
「お前、ホンマに乗っとるんか」
「時間の無駄ですね。あなたとわたしが話せる時間は十五分だけ」
「十五分も、やのうて?」
「了解しました。わたしが甲板にいるという証拠を示します。たったいま、わんぱくそうなお子様がこちらに上がってきましたよ。服装は」
「ああもうええわ。信じたる」
「これはどうも。わたしの同類に地獄を与えたい。そうでしたね」
ガキンチョが帰ってきた。手に持っていたボールを落としてしまう。どんどん転がる。それを追いかけてまた駆ける。
「復讐ですか」
「動機なんどうでもええのと違う? さっさか方法教授したってよ」
「それは不公平ですね。わたしが与える代わりに、あなたも何か与えてくれないと。せっかく親切にしても報われないのなら不服です」
「あーすまんね。せやけどそんなん想像つくやろ」
ケータイを持つ指が滑る。身体が重い。シートが沈む。油断すると船底を突き抜けて海にぼちゃん。
電話の主は、ただ単にイってるだけではなさそうだ。
「その相手が執着しているものがあれば、それを逆手に取るというのは」
「わーけわからへんなあ」
「怒らせようとしても無駄です。わたしには快と不快しかない。つまり、快なら会話を続けるし、不快なら電話を切る。二回目ですから甘くみます。次はありません」
「その執着がわからんかったらどないするん?」
「安心してください。わたしが知ってます」
「ほお、用意ええな。なに?」
「その前に」
鳥の声。カモメかカラスかはわからない。
「あなたの動機が知りたい」
「好きやさかいに。これでええ?」
「主語は?」
「ああも、わかっとるやろ? まだ本人にもゆうてへんのに」
相手の嗤っている顔が見える。十割方幻覚だが。
ケータイを持つ手を変える。
「わたしにも好きな人がいますよ。いま同棲を計画中です」
「ほお」
「意外ですか? わたしが人を好きになることが」
「せやのうて。生きてるもん、好きになるんやな思て」
今度は本当に嗤い声がした。音声刺激ではない。嗤っているという事実が電波として流れ込んでくる。
「あなたの名前は?」
「そんなんイミないのと違う?」
「その持論、わたしの好きな人も言ってました。いいですよね。世界にたったふたりなら名前は要らない。あなたとは気が合いそうです」
「ご免やな。話戻そか」
「椅子です」
「イス? イスって座るイスか」
「他に椅子はありますか?」
「イスゆうたかて、どないするん?」
「椅子にしてあげればいいんです。椅子に執着していたのですからね」
椅子と呼ばれる少年。彼のことを思い出す。
映像がダブる。
「同じ目に遭わせろゆうこと?」
「そうではありません。眼には眼を、の復讐法は賛成できない。被害者にとってはそれをされることがつらかったかもしれませんが、加害者にとっては大したことないかもしれない。それよりは、加害者にとって最もつらいことをしてあげたほうが」
「ちょお待って。イスとして扱ういじめしとった奴がイスになるん厭なんか?」
「自分が椅子になりたくなかったから誰かを代わりに椅子にしたのですよ。いじめられっ子になりたくないからいじめる。それと大差ない。彼は椅子というものにトラウマないしコンプレクスを抱いている。とても面白いです」
椅子にする。
「具体的な方法はあなたのところの支部長が詳しい」
「俺、あの女嫌いなん」
「すでに同例がいますから。屋敷を探してみるといいですよ。まあ、探し回らずとも至るところに置いてありますが」
ほお、それで。
「家具屋敷呼ばれとるんか」
約束の十五分。岸に着いて船を下りる。自分以外は一組。わんぱくそうなお子様一家。相変わらず採算の。
おかしい。一組? あいつはこれに乗ってたんじゃ。
お乗りの方はお急ぎ下さい、の合図。
船尾にヒトが。手を振っている。わんぱくそうなお子様一家はすでにいない。とするなら。
やられた。カメラくらい。考えないわけではなかった。
甲板にはいなかったのだ。ただそれだけのこと。
顔くらい拝んでやりたかった。北京の指噛み切って逃亡したやつだから。何か参考になるかと思ったのに。
2
「ヨシツネ様はあなたをひどく気に入っておられます」サングラスは、仰々しい態度で椅子に腰掛けるなりそう言った。
椅子だ。それは椅子なのだ。外見も役割も椅子そのものならば、それは椅子と呼ばれる以外にない。椅子なんだから。概念的に、定義的に、椅子として存在して然るべき。
僕は文字通りお荷物のヨシツネを腰の辺りに引っ付けたままサングラスと距離をとる。
「どうか警戒なさらないで下さい。わたくしは奥様とは違って、武器の一切を携帯してはおりません。なんでしたらお調べになりますか」
「体内に隠してあるかもしれないじゃないですか。それを探り当てるのを遠慮したいんです」
「成程。ならば思う存分距離をとって戴くほかありませんね。ですが、あくまでこの部屋内で、御願い致します。わたくしの声が届かないと少々難儀ですから」
「声だけならケータイでいいじゃないですか。帰っていいですか。僕はすでに用済みのように思うんですが」
サングラスはテーブルの上にケータイをのせる。片方は僕の。片方は彼女直通機。
そうだった。汗まみれの僕の服はサングラスが回収してある。
つまりは、そのポケットに入っていたケータイは。
「返していただけませんか」
「キサガタ様は、音声だけの会話に特化しておられるのでしょうか」サングラスが言う。
「どういう意味でしょうか」
「そのままの意味です。言語のみの伝達手段をもって行なわれる会話に特別な才能をお持ちか、とそのような意味で御座います。如何ですか」
ヴァーバルとノンヴァーバル。その論点で来るか。答えは白旗。お手上げだ。電話ほど伝達に向かない手段はない。音声。本人確認ですら危ういというのに。
しかしながら、僕は面と向かって話しても伝わらないものは伝わらないと思う。相手方に受け取る気がなければ、電話だろうがメールだろうが、果ては書置きだろうがなんだって。
「キサガタ様がわたくしと対面して話すことに対して何らかの御不満がおありになるのですね」
「ひとつ、訊きます」
「何なりと」
彼。ヨシツネに。
「どれだけの価値があるんですか」
本人がびくんと震える。予想通り。痙攣。僕を摑んでいる力が弱まる。それでも離れない。
僕をひどく気に入っている。消去法的な相対ではなく絶対的に僕が好きらしい。
「ヨシツネ様はいずれ後継者となられるお方。奥様のお仕事の八割方を引き継いで形式上の権利を委任致します」
「形式? 実質は」
「奥様です」
「あなたは」
「申し遅れました。わたくしは奥様の秘書に御座います」
「畿内の檀那、なんですよね?」
サングラスはサングラスのブリッジに指を置く。
「今現在キサガタ様が捉えておられるわたくし、は奥様の秘書に御座います」
「じゃあ外してください。そっちのほうが話が早そうですから」
「不可能です」
「奥さまの許可とやらが必要なんですか」
「それもありますが、ヨシツネ様がいらっしゃいますので」
「彼がいると問題でも?」
「ヨシツネ様は畿内の檀那様を嫌っておられます」
「じゃあ彼を廊下に出して」
「わたくしは、ヨシツネ様の望まぬことは出来ません」
僕はヨシツネの頭を撫でる。
「ねえ、ちょっと出てってくれない?」
彼は首を振る。
「すぐ済むと思うし。終わったら一緒に帰ろう」
彼は首を振る。必死に僕にしがみ付く。
「何が厭なの? 僕は別にいなくならないよ。見ての通り逃げられないし、ほんの」
彼はとにかく首を振り続ける。僕の言葉を耳に届かせないように。無理に引き剥がそうとしたらサングラスに止められた。確かにこれ以上彼を無碍に扱うのは得策ではない。ヨシツネはいずれ後継者になるだけの価値を有しているのだから。
「さっさと話を進めましょう。なんですか?」
「ご質問をどうぞ」サングラスが言う。
「あなたのほうで話があるんじゃないですか?」
「わたくしはすでに伝えたつもりですが」
ヨシツネ様はあなたをひどく気に入っておられます。
「それが意味するところは何ですか」
「対応方法を上方修正願えませんか、ということです」
「優しくしろってこと? これでも充分優しくしてるつもりですけど」
「愛情と慈悲の心を持って接して戴きたいのです。ご存知と思いますが、ヨシツネ様は注がれた愛情が多いとは言えません。それに好き嫌いも激しく、殊に嫌いなものが好きなものを上回って」
「奥さまも嫌い。秘書のあなたも嫌い。畿内の檀那はもっと嫌い。で、唯一好いてるらしい僕に、彼の欠如部分を補充しろと。愛情と慈悲の心を持って」
「その通りで御座います」
そんなこと知っている。それが僕の仕事。世話。ヨシツネだってウジタネだって、サングラスの想定する愛情とやらに欠けている。両親。環境。カネにものを言わせられるのだから遠慮せずにものを言わせればいい。なんでも好きなものを与える。それがたまたま僕だっただけのこと。白羽の矢。厄介な。
「どうゆう経緯で僕に眼をつけたんでしょうか」
「ヨシツネ様にお訊きになって下さい」サングラスが言う。
「訊けったって彼、ちっとも喋んないんですよ。無理矢理口を割らせてもあなた方に反感を買うだけです。教えてくれませんか」
「憶えが、御座いませんか」
「ございませんね」
サングラスは少々お待ちを、とお辞儀して退室。その隙に僕はケータイを取り返す。壊されてないか確認。大丈夫。そのまま逃げることも出来ないだろうか。
椅子。ドアの裏。
ヨシツネが顔を上げる。泣きそうな顔で。
「逃げてもいいと思う?」
彼は首を振る。
「僕のこと心配してくれてんの? ありがと」
洋館から逃げるにしても木綿豆腐に乗らなければならない。あれの操作法を僕は知らない。どっちにしろ僕にはお荷物がある。ヨシツネ。彼を抱えて逃げ切る自信がない。捨ててもいいが、彼を抱えたままでしか逃げられないような気がする。
彼はおそらく、その方法を知っている。なんせ次期後継者だ。
「僕はきみとどこかで会ってるの? バイト先にずぶ濡れで訪ねてきた以前に」
彼は遠慮がちに頷く。
次の質問をぶつける前に、サングラスが帰ってきた。特に手ぶらだが、上着のポケットという線もある。
「陣内様はつい今しがたお帰りになられました」サングラスが言う。
「無事なんですか」
「命がある、という状態を無事、と呼ぶのならば」
「穴が開いてない、てゆう定義も加えたらどうですか」
「勿論」
僕は安堵する。安堵。なぜ。
銃声は威嚇だったのだ。それか彼女の趣味か。
「思い出されましたか」サングラスが言う。
「生憎何も」
「ではこちらをご覧下さい」
やはり上着のポケットだった。サングラスはテーブルに封筒をのせて滑らせる。僕の手元で停止。あのときはバラの香りがしたが、今度は線香。紫芋のときより強烈な。封筒に付与されたにおいが線香というわけではなく、封筒の保管場所が殊のほか線香と近接していたのだろう。バラならばいざ知らず。
「中は何ですか」
「ご覧になればお解かりになられるかと」
これで写真が出てきたらまったくもって繰り返しだ。僕は息を吐く。不自然ではない形式段落が欲しかった。見たい。見たくない。触り心地は写真。やはり写真なのだ。写真。何が写っているのだろう。何が。枚数はさほど。乃楽シュウ。きみなのか。もしきみだったら僕は耐えられる自信がない。きみが写っていることに我慢がならないのではない。きみが仕組んだことが我慢ならない。死んでもなお僕を怨んでいることが。
人間は誰も写っていなかった。風景。建物。僕はそれに見覚えがあるような気がする。
校舎。プール。
「思い出されましたね」サングラスが言う。
僕は、ヨシツネの長すぎる前髪をかき上げて顔をもう一度よく確認する。サングラスが僕の一挙一動を見張っている。
あの日は夏だった。学ランは衣替え。髪の毛だってもっと短かった。
身長。縮んで。
黙っててくれたんだね。僕が黙ってろって言ったから。
写真を封筒に戻してサングラスに返す。袋小路。思い出したからなんだというのだ。平常。いままでだってそうしてきた。知られている。知られていない。その狭間で沈黙を保ってきた。延長。永遠の延長。気に病むことはない。きみにとどめを刺したのは僕ではないのだ。きみはきみ自身で最期の。
「あるべき場所に死体がなければ死んだとは言えませんからね。だけどどうしてケータイだけ置いてったんですか。そのせいで僕は」
「故意に手掛かりを残したことで本筋は見事に捻じ曲げられたのです」サングラスが言う。
「そうでしょうか。単に僕に対する疑いが濃厚になっただけのように」
「通話履歴により、キサガタ様に対する疑いが濃厚になったことは確かですが、あくまで濃厚、というだけです。加えて、極めて濃厚な人物が濃厚でないと判断されるに至れば、自ずとキサガタ様は無罪となり」
「限りなく真っ黒な無罪、だとしてもですか」
「限りなく真っ白な有罪、よりは気が楽かと」
「あなたは以前僕に、ご協力戴けるのならば不穏な輩は取り去ることが可能です、て言いましたよね。それはまだ有効ですか」
「ええ、キサガタ様のご意向次第で永劫に」
僕は椅子にかかっているレース布を外す。椅子。
ヨシツネが僕の陰に隠れる。
不穏な輩。それはあのインテリでも二メートルでもない。
きみが悪い気味が悪い。椅子ならば椅子なりに椅子らしいことをすればいい。
死んだ。死んだ、たぶん親友であったきみはすでにいない。少なくとも僕と同じ世界にはいない。
「これを取り去ってくれませんか」
3
お元気ですか。ぼくは、ほどほどに元気です。
あれだけお世話になっていながら別れの挨拶もなしに、本当にごめんなさい。あなたなら理由をおわかりいただけると身勝手な思い込みをしていました。風の便りでそのことを聞き、居ても立ってもいられず、届く当てもない手紙を。
もし、これが届いていたのなら、お返事をいただけないでしょうか。重ね重ねわがままを言ってすみません。検閲に黒く塗りつぶされていると思いますので想像力を働かせてください。あなたならきっと気づくはずです。
奥さまと関わったのち、命を永らえさせるには二つの方法があります。
奴隷と、中間管理職。そのどちらかです。
あなたのことですからおそらく後者を選ばれたのだろうと推測しておりますが、違いますか。違っていたならここから先を読む必要はありません。この無意味な紙は、煮るなり焼くなり好きにしてください。それでは。
中間管理職に就任されたあなたへ
僕は新しい家でほどほどの毎日を送っています。僕が言うのもおこがましいのですが、世の中には僕より遙かに世界に馴染めない人間がごろごろしています。僕は引っ越してすぐにその人物に出会えました。おかげでようやく確信できたのです。僕があの地を離れた理由。単に追い出されたくせによく言いますよね。
好きになってしまいました。その方のそばに居られるのなら何でもしようと、なんでもできると、そう思っています。しかしその方はとても頭がいいので、僕が想いを伝えようかしまいかまごまごするより前に僕を押し倒しました。その方のことが好きならば好意を受け入れるべきです。こんなにうれしいことはありません。僕はあの方と同じ想いだったのですから。
しかし、僕にはそれができません。あなたならご存知でしょう。そうです。その才能がなかったから、僕は見捨てられたのです。売り払われて、違う方法で金を稼がなければいけなくなったのです。結論を言いましょう。僕は、役に立たなかった。
あの方が僕の想いを利用して、一時の、或いは使い勝手がよければ飽きるまで僕を性欲の捌け口にしようと考えていたのはすぐにわかりました。わかっていたのです。あの方は僕のような下らないつまらない可愛くもない、と最後のは自虐ですが、とにかく僕にはあの方の恋人になる資格はないのです。残念です。泣きたくなりました。
泣いてはいません。こんなことくらいで泣いてはいけないのです。僕には、これを凌駕する遙かに哀しい未来を受け入れなければならなくなったのですから。もう想像がついておられるでしょう。それともすでにお聞きのことでしょうか。
おそらくこの前の行に墨が塗られているでしょう。それを見越してここには何も書きませんでした。安心してください。ただの空欄です。
最後に僕の新しい名前を記しておきます。もしどこかで見かけることがありましたらその時は遠慮なく無視してください。おそらく僕の隣にはあの方がいらっしゃいます。あの方にこれ以上感づかれたくないのです。特に
やはり塗りつぶされていると思い、前の行は空欄です。別に知らなくたっていいですよね。僕の名前なんか。
どうか末永くお幸せに。僕にできるのはこのくらいです。微力なり。
4
絶好の葬式日和だった。晴れていたのか雨だったのか曇りだったのか、天気なんか関係ない。僕の気分が、絶好の葬式日和、だっただけ。
奥さまと、奥さま専属秘書或いは
それはいつものことか。アレルギ的に大嫌いな二人の出現によって、僕にしがみ付く正当な権利を得たようにも。
奥さまチャート寵愛度ナンバワンの
なんにせよ、これで僕の椅子は僕の前から消えた。完全に徹底的に。さようなら僕の椅子。可愛い可愛い
本当は奥さまの洋館に火を放って欲しかった。
家具屋敷。畿内の檀那はそう呼んでいた。
「その名前はあまり口に為さらぬよう。わたくしは奥さまの秘書に御座います」サングラスもとい秘書が言う。
「あなたの正体を知ってるのは奥さまだけですね」
「キサガタ様もウジタネ様も。そして」
巽恒がびくっと震える。だからあれほど南国マンションで留守番しろと勧めたのに。
僕は安心させるために背中を撫でる。コスプレ的学ランの。
奥さまは緊急長電話。僕と畿内の檀那は緩慢長話。
「これから僕はどうなるんでしょう」
「何らかの御不満が燻っていらっしゃる」秘書が言う。
「てっきり口封じに遭うと思ってたから。大学はやめたほうがいいんですか」
「やめたいのならやめればよろしいのではないでしょうか」
「大学に行こうが行かまいが構わないが面倒は引き続き見ろと」
畿内の檀那が笑う。またあの、口の端だけ上げて笑うあの。
膝のあたりが冷たいな、と思ったら。溜息も出ない。いまの表情に吃驚したのだ。そうに決まってる。
巽恒が、飲んでいたジュースをこぼした。何もよりにもよって僕のズボンにこぼさなくたって。
「あーあー、どうしてくれるのさ」
小声で謝る。すんませんすんません。繰り返し繰り返し。
巽恒の尻拭いとばかりに畿内の檀那がタオルを貸してくれた。替えのズボンを用意させる、と頼もしい対応。洗面所で脱いだら下着まで染みていた。すごく惨めだ。鏡に映った僕もそう言ってる。
物音。
巽恒は反省のために一人にしてきたから追ってきてはいないと思うが。個室のほうから。用を足すだけならこんな音はしない。個室なんだから一人で入ればいいものを。二人で入ることにおける利点。
ドアが開いたけど知らないふりをしてズボンの染みを拭う。
水音。
「どんもはっじめまして」
直接見るのは厭だったので鏡に眼を遣る。
知らない顔。知らない声だから、顔だって知らない。
彼は僕の名前を呼ぶ。便器に座ってるほうは気を失っていた。全裸で。
「閉めたらどうですか」
「終わりましたんで。待たせとったらえろうすんませんねえ」
「僕に何か」
彼はまったく着衣が乱れてなかった。脱いでない? 脱がずに目下気絶している少年を失神させるほどの快楽を与えたのだろうか。
厭な予感がする。僕の進むべき次のステージはまさか。
「待ってたのはあなたのほうじゃ」
「部下と弟子、どっちがええ?」
違いがわからない。安易な返事はしたくないけど何か言わないと。
なんだろう、彼は。僕を後ろから見ているだけなのに。距離だって数メートルは。
鏡。厭な視線。
喉がぬらぬらする。お腹が減ってるときにちょっとだけものを食べたときみたいな酸い。
恐る恐るドアが開いて巽恒が顔を見せる。なぜこのタイミングで。間が悪すぎる。替えのズボンを持ってきてくれたのはうれしいが、もう少し早く。
「おんやぁ。ちょんど迎えに行かせよて」彼が言う。
絶対に抱きつかれると思った。畿内の檀那と一緒のときよろしく、奥さまを前にしたときと同等の反応で半べそかいて。
睨む。というよりは嘲り。つかつかと歩いていって個室のドアを。
閉める。
「気ぃに障るツラであかんかったねえ。見苦しいもん陳列したまんま」
「消え」
「初仕事やろ。せーだい激励会したるさかいに、なあ」
僕はズボンを履きなおすのも忘れて巽恒を眺めるしかなかった。
喋った?
すんませんおおきに以外で。しかも語調が。
見る。鏡じゃなくて。
「しばらくな、お別れゆう話。俺んこと忘れんといて」
個室内の彼がいろいろ何か注釈を付け加えてくれたらしかったが、意味が取れない。初仕事。激励会。お別れ。そんなことどうでも。
「どうゆうこと?」
「心当たりあらへん?」巽恒が言う。
「だからなんの?」
個室内がうるさい。毒ガスでも流し込むかいっそ。
「好きなん」巽恒が言う。
「それがなに?」
「好きやから。俺は、キサが欲しゅうて」
一緒にいたくて。こんな手の込んだ。
「知ってるよそんなこと。僕がきいてるのはなんで」
巽恒がまともに喋れるのかってことで。やっぱり演技。それはこの際いい。僕を手に入れるために手元に置いておくために一緒にいるために。薄々感づいてたけどそうなんだけどいまこのタイミングで。
「喋らなあかん立場やさかいに」巽恒が言う。
「立場? 今日付けで何か人事異動でもあったわけ?」
檀那様。
秘書が呼びにくる。畿内の檀那じゃなかった。グラサンしてたから。
「お時間です」
「なにが始まるんですか」
「別段付き添われなくても構わないのですが、あちら様のご意向で。万一のときはご紹介することになるかもしれませんが」
ちらり。秘書は個室のドアを。
返事が聞こえた。なんだ。なんの。
「跡継いだってこと?」
巽恒は特に何も発せずに秘書についていった。訂正しないってことは。
ぎいい。個室のドアが開いた。
全裸だったはずの少年が服を着て。そそくさと立ち去る。赤い頬。
「あなたは偉いほうから何番目ですか」
彼は僕がズボンを履きかえるのを待ってくっくと嗤う。空気中の二酸化炭素だけを集中的に莫迦にしたような嗤い方だった。人差し指、中指、薬指の順で立てる。少なくとも彼の上に三人は権力者がいるということだろうか。
奥さま、畿内の、じゃなかった秘書。それとついさっき襲名した檀那さま。巽恒、は誰か他の。そうか。
「檀那サマってのはあかんなあ。畿内のとカブってもうて」彼が呟く。
初仕事。
「新しいヨシツネ様ですね」
「さーなあでやろ。檀那サマのと違う?」
サダと名乗った彼は、僕を純日本風家屋へ連れて行った。山奥にこんな無駄な建物を作る理由は唯一つ。檀那さまの住居。
標高のせいなのか雪が。錦鯉の泳ぐ池を臨めるここで待て、といわれてだいぶ経つが一向に。出された茶はとっくに冷めてしまった。寒い。僕を凍死させるつもりなのだろうか。
部下と弟子。どちらもあまりいい響きはしない。上司と師匠。だったら、いやそれも魅力的な二択とはいえない。お世話係の続役では駄目なのか。出世なのか降格なのか。せめてそのくらい情報があっても。
「まーた待たせてもーたね」
道理で遅いわけだ。サダは風呂に入っていたらしい。そうゆうにおいがする。ほとんど外同然の場所でぶるぶる震えながら待ってた僕は。
「風呂ならどんぞごじゆーに。きょーからここに住んでもらうさかい。せやけどいまよりあとんほうがええよ」
「汗掻くからですか」
「あーそっち? 観るだけゆうんもあるけどな」
封筒。サダが投げる。もう少し丁寧に渡せばいいのに。写真ではないと思いたい。もうあのパターンは懲り懲りだ。
宛名は僕。差出人の欄が墨か何かで塗りつぶされている。
「この黒いのは」
「野暮ちんへのせーさい」
中身はなおひどい。便箋なんかほぼ真っ黒でまともに読めた単語はたった二つ。
奴隷。
中間管理職。
送り主はなんとなく思い当たったけど、なぜこの手紙を寄越したのか。
「もってもてやなあ。ラブレタやん。返事書いたってよ」
柏原氏胤。
「生きてるんですか」
「よーしやて聞いてへんか。がっぽがっぽ稼いでもろーて故郷に錦飾らせんと」
庭が騒がしい。ガタイのいい黒尽くめに羽交い絞めにされて、少年。さっきトイレの個室で見たのとは別人。さっきのは高く見積もって中学生だったが、今回は低く見積もって中学生。
口にタオルを巻かれているのでむーむー喚く。
「そっこでよー観とってな」
そういい捨てて、サダは雪に足をつける。裸足。暴れる少年の前に屈んでほんの数秒。少年の動きが止まる。
なにを。わからない。僕が見ている限りでは何もしてない。触れるか触れないかのすれすれの距離で、サダが少年の鼻先に口を。
動く。何かを呟いたようだったが聞こえない。
あんなに抵抗していたのに。サダの後について縁側に。べたべたのタオルを外されると唾液がだらりと垂れた。
観ていてあまり楽しいものではない。眼を逸らしたらタオルが飛んできた。運よく僕には中らなかったが畳が汚れる。
「部下やったら俺んゆーとーり動いてお手伝い。弟子やったらとりあえずきょーのとこは見学。どないする?」
奴隷は少年。中間管理職はサダ。氏胤は僕になにを伝えたかったのだろう。言論統制されたあの黒墨ではなにも。ラブレタであるはずがない。元巽恒といい氏胤といいどうして僕にそんな過大な期待を。
少年はいつの間にか全裸だった。サダは何もしてない。声だけ。調教。氏胤が役に立たないという烙印を押されたのはサダのせいな気がしてならない。指の一本も触れずに。何度も何度も絶頂を迎えさせられて、気絶。個室の少年と同じ。
「これでイかへんやつは俺が直々に相手したるよ。だいぶ荒っぽなるけどな」サダが言う。
「どんなことするんですか」
「試してほしいん?」
「僕じゃなければ」
檀那さま。どうも痒くて呼び慣れないので実際には呼んでない。僕以外は調教済みの少年だけなので不便はない。サダは入れ違いでどこかに行ってしまった。またな、とゆわれたが特に会いたくも。似たような屋敷が他にもあるのだろう。サダの住居はここではなさそうだ。
やっぱりいままでのは僕を欺くためのコスプレだったようで。
和服。妙に似合っていてなんだかおかしい。仄かに線香くさかった。
抱きつかれなければ気づかないくらい微かな。
「サダに、なんや妙ちきなことされてへんか」
「別に平気だよ。おかげで気づいたんだけど、こうゆうの嫌いじゃないかも」
「そか」
昼過ぎに客が来るらしい。
客? こんなところに来るような人物の素性は高が知れている。金持ち、かつ少年嗜好の。
「追い返すだけやさかいに。隠れとってくれへん?」
「なんで?」
ガタイのいい黒尽くめが呼びに。ここで待っといてな頼むから。檀那さまはなにを恐れてるんだろう。僕がその客とやらに会うのがまずいのだろうか。僕の知り合い。まさか。
こっそり庭をのぞく。入り口の石柱。
あれ、学ラン?
その横にのっぺりとした男が。檀那さまはそこにいるからその学ランは。
そうか。初仕事から帰還。
「他のやつを出してほしい」
「せやから、そいつがあかんかったらもうおらへんで」
黒尽くめがお引取りを、と。力に訴えられないのはその男が巽恒さまの腕を拘束しているから。
人質か。こいつを帰してほしくば。
巽恒はあまりよくなかったのだろうか。檀那さまの遺伝子が受け継がれているのならまあ、わからなくもないか。嗜虐性の高いやつなら泣き喚いて嫌がらないとつまらないだろうし、そうでなくとも可愛げがない。クーリングオフは七日まで。なんとかぎりぎり。
「誰かはいるんだろう。選ばせてくれ」
「ええから帰り」
「上がらせてほしい」
僕のポケットが震える。部屋で静かにしていてください、とのこと。
どうしても僕をあいつに会わせたくないらしい。仕方ない。大事な巽恒さまの命には代えられないか。
部屋といっても檀那さまの部屋の隣。襖開けられたら一発でバレる。話は聞かせたいのかもしれない。
聞き耳を立てる。
「ツネのなにがあかんかったん?」
ツネって。そもそも自分の名前じゃん。
僕は笑いを堪える。駄目だ駄目だ。笑っちゃいけない。
「慣れてない」
「はあ? そうゆうのがええて聞いたからこっちは」
「小さすぎる」
身長だろうかそれとも年齢。もしくは穴の。拡張すればいいのに。
「ほお、慣れとって小さすぎないのがええと」
「いるんだろ。わかってる」
畳を擦る音。
まずい。やっぱりバレてるじゃないか。隠れるところ。あるわけない。押入れ。布団が詰まって。
どうしよう。ポケットが震えてる。
「ちょおなに勝手に。困るわそっち」
「出してくれないなら私が探す。さっき見えたんだ。ちょうどいいくらいの子が」
いまのうちに他の部屋へ。わかってるよそんなこと。
でもそこの襖開けたら音で。静かに開けるテクなんて持ってない。
「ええ加減に」
「いないならいいだろう。本当にいないのなら」
絶体絶命。しかしすでに姿を見られているのなら。要は客の元へ行かなければいい。僕を愛してる檀那さまとしては他の男に差し出すのが厭だというだけで。サダと一週間一緒にいたので要らない知識は溜まった。
「ああもう、わーった。そないに見たいなら」
お気をつけ下さい。
なにを?
いない。ようやく巽恒が見れると思ってたのに。
床の間を背に檀那さま。
それに向かい合う形で、男。僕を見るなり股間を大きくした。
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