第3話 仔猫は中坊

      1


 捜すべき場所はすべて捜した。

 マンション。上から下まで隅から隅まで。プールも温泉も。

 管理者は彼女の配下だからつうのかあで協力してくれた。

 公園。近隣施設。ショッピングセンタ。

 海岸。

 鍵がかかっていたはずだから僕の部屋は除外される。

 八階建て。これを下りた? 

 彼女には真っ先に連絡を入れた。

 しかし反応は限りなく期待通り。

「そんなんほったらかし。ウチはかまへんえ」

「もう少し捜してみますが、できればそちらのほうでも」

「いてのうてもだんないゆうとりますやろ。ねちこいどすえ。ほんにしょーもないこと考えはりますなあ。あらしまへん」

 僕がヨシツネに名字を尋ねたことをどうして。

 愚問。彼女に知らないことはない。

「ないんですか? つけるご予定は?」

「あのボンかいらしないもん。そらそーと、きんのカシはんどやった?」

 彼女はウジタネをカシはんと呼ぶ。柏原カシハラのカシ。

 気になるなら自分で訊けばいい。と思うがそれが僕の仕事なのだ。彼らの世話。奥様たる彼女に報告する義務がある。

 僕はよさそうなところを切り貼りしてありもしない報告書を作る。比喩としてそれを読み上げる。

 問題なし。

 彼女は満足して電話を切った。

 当初の目的が何も果たされていない。本当にどうでもいいのだ。

 お手上げ。あとは帰ってくるのをひたすら待つしか。気の長い僕はなんら苦にならないが、どこぞで野垂れ死んでいたら寝覚めが悪い。

 悪夢。反復夢。

 僕はタクシーに乗る。大学の最寄駅から徒歩八分の距離。

 またここに戻ってくる羽目になるとは。

 新規入居者がいるだろうに。迷惑千万。

 黒い塊、もといヨシツネはドアの前で蹲っている。

 南国マンションに移り住む前の1Kアパート。

 僕の居た部屋。

「どうやってここまで来たの?」

 彼は顔を上げない。膝を抱えて丸まっている。

 僕は壁に寄りかかる。

 ネイムプレイトは空っぽ。

 道すがら見たのだが洗濯物はなかった。物干しも。空き部屋だろうか。部屋干しだったら当てにならないが。

「名字訊いたのが気に障ったなら謝るよ。ごめんね」

 無反応。

「こうゆうことされると困るんだ。僕の気を引きたくてやってるならやめてくれない?」

 無反応。

 僕は彼を小突く。

「あのね、愛情欠乏症みたいなことされても」

 掠れた声。すんません、と。

 顔はまだ上げない。

 宅配便の車。下のフロア。配達員は僕らのことなんか気づいてない。呼び出し音。荷物受け取り。代引き。

 僕は彼の頭の位置まで屈む。

「おにーさんに僕を取られると思った?」

 こくり。彼は頷く。

「取られるも何もないよ。僕はウジタネのものでも、況してやきみのものでもないんだから。あっちに引っ越してからちっとも構ってあげてなかったからこうゆうことしたの? 僕に見つけて欲しくて」

 躊躇い。

 彼は頷く。

「戻りたかったの? 自分だけを看てくれてたってゆう思い出に。確かにここにいたとき僕はきみだけ世話してたからね。でもね、もうそうゆうわけにいかないんだ。僕の仕事はきみたちの世話。きみじゃない。きみたち。平等にったって無理だよ。偏りってのはどうしても出てくる。それが厭なら奥さまとやらに交渉すれば? 出来るんなら、の話だけど」

 僕は彼の頭を撫でる。

 冷たい。この分だと身体はもっと冷えている。

 あの夜を思い出す。

 あの日も彼はずっとここで待っていた。僕が入室を許可するまで。

 あの時はマフラがあった。赤い。

 今日は何もない。

 黒い。

「そんなに僕が好きなの?」

 彼は吃驚したらしく、びくんと震える。同時に顔も上げてしまった。

 蒼白い肌。

 血の気のない色。

「好きなんじゃないの? 違うならいいけど」

 彼は不自然に瞬きしてそっぽうを向く。

 僕は手を差し出す。

「ほら、帰るよ」

 階段まで来て僕は足を止める。

 靴音。高さはおそらく二百センチ。

 僕は彼を隠しながら階段を下りる。平静を装って。

 しかしそれはうまく行かない。ヨシツネがよろけた。その勢いで僕にしがみ付くものだから、僕も足を踏み外す。

 落ちる。と思って眼を瞑ったが特に異状は感じなかった。

 それもそのはず。

 二メートルが僕らを支えていた。軽々と。

「あ、りがとうございます」

「いや」二メートルが言う。

 ヨシツネは消えそうな声で僕に謝る。すんません、と。

 二メートルにも頭を下げた。

 なんという大莫迦。顔を見せては。

 二メートルはヨシツネの顔なんか見ていなかった。僕は心の底から安堵する。

 二階。

 彼にとって、見上げるほどの高さはない。

「空き部屋じゃないのか」二メートルが言う。

「みたいですね。失礼します」

 僕はヨシツネを引っ張って、待たせていたタクシーに飛び乗る。

 二メートルの視線。何のつもりだ。

 なぜ二メートルがあんなところに。

 いや、僕の元いたアパートは彼らに知られていた。バラの封筒の写真。ずっと張っていたとでも? 

 しかし、僕が駆けつけたときにはいなかった。

 とすると、僕がヨシツネと話している間にあそこへ。

 なんにせよ、二度とあそこに行くべきではない。それだけははっきりしている。

 南国マンションに戻ったら彼女がいた。エントランスの奥まったところにあるソファ。僕らはフロントの人、もといサングラスの一派に強制的に連れていかれた。

 ヨシツネはいっそう強く僕にしがみ付く。寒いからではなさそうだ。異常な震えが伝わる。

「いったん出直していいですか?」

「伝言ゲームのどーり、知ってはりますやろか。人様が増えるたんび情報が腐るゆうて。ウチは構しませんえ。すかたんもあほくさいんも、割かしおもろいわあ」

 洋館におけるサングラスと僕の会話に不備があって、そのことを暗に示しているのかと思ったがそうではなかった。

 彼女は電話中。

 僕は無言で彼を宥めて向かいのソファへ。しゃくりあげていないだけマシか。

 彼女の脇に控えていたサングラスがお茶を運んでくる。

 僕のではない。ヨシツネの。

「ほんませわしないお人どすなあ。えろう親しうなりたいゆう話、考えときますさかいに」彼女はケータイをサングラスに渡して僕に視線を移す。「おかえりさんどす」

「勝手に出歩いて申し訳ありません。それと彼の顔を」

「そんなん気にせんといて。せーぎかんゆうんは要りまへん。めりけんはんやあらへんもんね。ひーろーはんかてよーいわんわ。なんや訊きたいことありますやろか」

「誰とお電話を?」

「ウチのおつれ」

「ケーサツですね? それも結構権力のある」

「かなんなあ。あんたはんにはほんま」

 ヨシツネは最後まで彼女を見なかった。

 僕のコートは一部分だけ皺になっている。彼がしがみ付いていた跡。

「そんなに嫌い?」

 彼は僕から離れる。

 コートの皺を撫でて直そうとする。アイロンのつもりらしい。

「まーいいや。きみが無事に帰ってきただけでよかったとしよう」

 これでインテリは絶対に僕に手が出せないとして、二メートルはどうだろう。おそらくインテリの一味だと思うが、同じにおいがしなかった。あのとき僕を徹底的に絞り上げようとした非常識の塊共と共通点が見出せない。

 アパート。一体何の目的があって。

 僕に会うため?

 だったらあの時何か言えばいい。僕を支えたときに確保なり拘束なりできた。

 ヨシツネという格好の人質だっていた。彼を囮にすればなんだって出来た。成功するかどうかはさておき、僕の動きを止めることが出来た。それこそ中枢から。

 二メートルはそもそもヨシツネに関心はなかった。同居人がどうだとか一人暮らしがどうだとか追及したのはインテリだけ。

 二メートルが見ていたものは僕のいた部屋であり、僕だ。

 あれは空き部屋じゃないのか。

 空き部屋だ。そんなこと僕に訊かずとも。

 ヨシツネを寝かしつけたあと、僕はもう一度出掛ける。

 彼女は知っている。

 二メートルが何者なのか。インテリがなんとしてでも僕を吊るし上げようとしている理由も。

 だがそれを僕のほうから開示してもらう権利も方法もない。

 だとしたら、僕が自分で探るしかない。足を使って。頭を使って。

 タクシーには帰ってもらうことにした。いつ終わるのかわからなかったし、僕は誰かを待たせることが好きでない。例えそれが袖すり合わすも他生の縁的な赤の他人だろうと。

 アパートの向かいは九時五時の事務所。駐車場も然り。

 だが締め切らないのでたまに勝手に駐めるわけのわからない輩が出る。

 巨大な影。

 僕は挨拶する。こんばんは。

「罠にかかってるぞ」二メートルが言う。

 僕はインテリの車がないか見渡す。覆面パト。

 遠くでパトカのサイレンが聞こえる。気がするだけかもしれない。

 ケーサツアレルギ再発。

「安心していい。うるさいのは置いてきた」二メートルが言う。

「あなたは誰なんですか?」

「少なくとも、探偵じゃない」


      2


 自称探偵以外の何者か、の二メートルに連れられて向かった先は裏通りのホテル。ラブホテルだろうと思う。

 巨大なベッド。簡易バス。

 ラブホに来たのが初めてなので、この規模が広いのか狭いのかわかり兼ねる。

 僕がコートを脱いでいるのをよそに、二メートルはチャンネルを変えておもむろにゲームを始める。持ち込みRPG。

「好きなんですか?」

「あいつがいると出来ない」二メートルが言う。

「なんでですか?」

「横でいろいろ言う」

 まさかそれだけのためにここに来たわけではあるまい。

 おそらくはインテリを撒くため。ただのホテルならば見つかる可能性が高い。その裏をかいたのだと思われる。

 だが、彼はちっともそんな素振りを見せず、熱心に攻略に勤しむ。あまりに手持ち無沙汰だったため僕はシャワーを浴びてしまった。

 タオルが世紀末的にごわごわしている。

 髪を乾かして戻っても、相変わらず彼はゲーム中だった。

 ボス戦。苦戦している。

 横でいろいろ言われるのが厭だ、という申し出がなければアドバイスしていた。お世辞にも戦略家とはいえない。ごり押しとこのソフトは馴染まないのだ。

「僕を待ってたんじゃないんですか?」

 ゲームオーバ。

 僕もゲームも。彼はコンティニュをしない。

「セーブは?」

「ボスの前に」二メートルが言う。

「じゃあいいですけど」

 彼はやっとコートを脱いだ。

 無地のTシャツ。

 指の先から手首まで包帯が巻いてある。しかも両方。

「ジンジャエールですけど」

「食った」二メートルが言う。

「どうでした?」

「まあまあ」

「そうですか」

「あすこ辞めたのか」

「はあ」

 彼は右手の包帯を解いて指先。

 僕はメガネを外す。サイドテーブルに置く。

 ケータイの電源は切ってある。

 重み。

 ゲームのオープニング。伸びのある女性ヴォーカルが耳に心地よい。

 メガネがないので彼の身体がよく見えない。

「あの人とヤらないんですか?」

 睨まれた。殺されそうな眼力で。

「違うんですか?」

「そう見えるのか?」二メートルが言う。

「受け取り方次第ですけど」

 違うのか?

「ないんですか?」

「さあな。俺を追っかけてるせいで幾度となく女に振られてるらしいが」

「やっぱそうなんじゃないですか」

「違うだろ」

 エンドレス。

 オープニングの歌詞を憶えてしまった。空耳的に。

「探偵じゃないならなんなんですか」

「探偵じゃないならなんだっていい」二メートルが言う。食い気味に。

「探偵が厭なんですか」

「厭だ」

 さすがに同時にシャワーを浴びることはできなかった。高さと面積の問題で。どっちが先でどっちが後だったが憶えていない。

 彼はゲームの続き。

 僕はうとうと。通常戦闘とボス戦のBGMが遠くで混じる。

 僕が起きたとき、彼は床で眠ってた。添い寝も試みたらしいが、サイズが合わず已む無くだそうで。

 悪いことをした。

 あまり快適な宿泊施設とはいえない。休憩も然り。南国マンションと比較するとあらゆる住居が取り壊し前夜的ボロ小屋に等しい。

 ケータイに着信があった。電源が入っていようがいまいが同じ。

 ヨシツネだ。

 夜中に眼が醒めて、僕がいないことに気づいたのだろう。これでしゃくり声でも入っていたら急いで帰らないでもないが、留守番メッセージはすべて無言。

「これからどうするんですか」

「どうしたい?」二メートルが言う。

 疑問をそのまま鸚鵡返しされるとは思っていなかった。

 朝食、と提案したら適当に買って来い、とコンビニを指される。

 道の向こう。横断歩道。

「食べないんですか?」

「朝は要らない」二メートルが言う。

「じゃあいいです」

 二メートルが財布を取り出そうとするので僕は首を振った。

「遠慮するな」

「そうじゃありません。用があるなら早く終わらせてくれませんか? 僕だって暇じゃないんです」

「あいつのお守りか」

 ようやく本題。

 そもそもこれを訊くためだったろうに。一晩寝かして得になる質問とも思えない。

「だったらなんですか?」

富寿野フジノカグヤとやらに会いたい」

 何を言っているのだ。

 どうして名前を。

 いや、これは対外的な偽名だから二メートルが耳にしたことがあったってなんらおかしくない。

 しかし、狙いが不明。

 二メートルは、彼女に会っていったいどうしようと。

「誰ですかそれ」

「奥さま、のほうがいいか」二メートルが言う。

 僕は動じてならない。わかっているそんなこと。

 だが、二メートルの眼力に気圧されて動けなくなる。

 せめて瞬きを。

 駄目だ。このタイミングでやったらわざとにしか。

「留守か」二メートルが言う。

「僕には何のことなのか」

「柏原ウジタネは」

 僕は足を止めてしまう。

 信号はちょうど赤だが。

 どうすればいいのだろう。どうすれば奇異に映らない。

 乗用車。タクシー。

 二メートルは何を知っている? 

 バス。

 何をしようとしている?

「とぼけなくていい。俺は奥さまとやらの組織を乱すつもりはない」

 僕は何も言えない。

 何も言えないことがすなわち認めたことになる。何か言っても認めたことになる。

 僕が彼女のところで高収入のバイトをしていることを。

 青。

 蒼。

「連れてけ」二メートルが言う。

「ほんなら乗らはって」ライチから彼女が降りてくる。

 ライチだ。ライチにしか見えない。

 着物。桜から藤へのグラデイション。

 サングラスが深々とお辞儀して名刺を差し出すが、二メートルはバケツリレーよろしく僕に押し付けた。

 名前らしき文字列。

 何と読むのかわからない。ルビが振ってあったとしても読めない。偽名かもしれない。所属も役職もない。

 僕が驚いたことはサングラスに名刺があったこと。没個性すぎるため敢えて名前的記号を配布されているのかもしれない。

 助け舟。

 いや、僕は四六時中監視されている。南国マンションに引っ越させられた時点で徹底的な監視下に置かれたと捉える。

 泳がされていたのだ。

 二メートルが本心を表すまで。

 ライチから木綿豆腐。

 とすると、僕はまたあの線香で家具の洋館に。

 想像してはいけない。行き過ぎた想像力は僕を破滅させることが出来る。


      3


 屋上まで上がるのだけで呼吸困難になりそうだった。

 老化。

 いやいや単に廊下を通っただけだろう。

 いじめ首謀者的少年は、フェンスに寄りかかってあさっての方向を見つめている。地面に落ちた椅子には興味がないらしい。

 自分の私物なのに。

 壊れた道具は要らない。そうゆうことか。

 物に執着しているわけではないが、一度手に入れたものはなかなか手放すことができない。失くし物なんかした日には、悔しくて悔しくてやってられない。

 頭の十割を占領される。そのことしか考えられない。

 どこに行ってしまったのだろう。

 探しに行きたいが、どこにあるのかまったくわからない。落としたのか、盗まれたのか、或いは。

 本やCDだって、二度と読まない聞かないとしても売り払えない。

 新品の電池を入れても止まっている目覚まし時計も、骨が折れて不恰好になった折り畳み傘も、芯の出ないシャープペンも、消しゴムの欠けた片割れも。

 椅子と呼ばれた少年は動かない。

 動けない。彼は椅子だから。

 死んでいるとか生きているとか、そうゆうメータで測れない。

 使えるか、使えないか。

 それが相応しい。

 持ち主だった彼が使えないと判断したら、それは使えないのだ。

「拾ってもいいよ。もうぼくのものじゃないし」彼が言う。

「所有権放棄、ゆうことか」

「難しい言い方するとそうかも。オジサンにあげる。欲しかったんでしょ」

 腹が立つ。わけではない。

 むしゃくしゃする。わけでもない。

 しかし、顔には出てしまう。

 眼前の少年が笑っている。愉しい可笑しい。

 なにがおかしい? 

 なにが。おかしいのはおまえだ。

「好きだったの?」彼が言う。

「それ、ゆわなあかんかな」

「そうじゃないよ。もしそうだったらごめんねってこと。でもぼくのものを勝手に盗んだのはオジサンだよね。そうゆうの、ひきょーじゃない?」

「まあ、せやな」

 どうする。

 殺す。突き落とす。

 その二つの選択肢しか浮かばない。

 そんなことしている間にやることがある。下。

 階段を駆け下りて、地面。

 抱き起こす。

 これを真っ先にすべきだった。

 手遅れ? 

 いやまだ間に合う。カネさえ払えば、なにもかもは蘇る。

 連絡して運ばせる。あまりに手際が悪いから怒鳴ってしまった。心が乱れていることがあの女に伝わってしまう。

 弱点が知られてしまう。弱みを。

 しかし、そうしなければ助からない。

 いい。構わない。彼を助けるためなら、あの女の言いなりになって、あらゆる非道徳的な事柄に手を染めて、本当の後継者が成長するまで、場繋ぎ的後継者にだってなれる。なる。

 車がいなくなってから、屋上を見上げる。

 少年はまだ笑っている。

 彼にしてみれば椅子を壊しただけかもしれない。

 だが、俺から見れば、人殺し。

 屋上から突き落とした。放り投げた、が正しいかもしれない。

 椅子と呼ばれる少年はとても軽かった。ほとんど何も食べていない。椅子はものを食べない。ただそれだけの理由で、彼はものを口にしなかった。

 意志があるじゃないか。意志が。

 その意志で、彼が椅子になっていたのだから。

 ああゆうのは、フツーの方法で復讐しても駄目だ。ケーサツに捕まろうが、裁判で戻ってくる。

 未成年なうえに、精神的におかしい。

 よくて病院。

 それでは駄目だ。

 頭を使え。頭がおかしい奴に地獄を与える方法を。


      4


 彼女と二メートルはあらかじめ打ち合わせをしていたかのように上のフロアへ。実際にしていた可能性だってある。

 扉の人間。

 手すりの人間。

 シャンデリアの人間。

 気分が悪い。気持ちが悪い。

 何かに摑まらないと身体ごとばらばらになってしまう。

 左右どちらに進もうが逃れられない。

 人間。

 だったもの。

 物。

 になれないもの。

 人間は物なのだろうか。死んだら物かもしれない。

 しかし、生きているなら。

「お顔の色が優れませんが」サングラスにまで心配される始末。

 僕は力を振り絞って手を挙げて平気だということを伝える。

 僕も同席しなければいけないのだろうか。

 これは二メートルと彼女の問題では。責任転嫁。

 僕が気取られなければ二メートルはこんな所に来なかった。

 訪問客。黒船。

 遣り取りを傍らで聞かせることによって逃げ道をさらに狭める。狭い。針すらも通らない。糸だって意図。

 ソファ。

 になれない人間。

 テーブル。

 になれない人間。

 彼女の向かいに二メートル。

 サングラスは扉の外に消えた。僕は。

「お名前聞きましょ」

「陣内だ。あんたが富寿野カグヤか」

「そうどす。どんぞよろしゅうお頼ん申します」

「キナイのダンナとかゆうのは」

「お留守や思いますえ」

 彼女が隣に座れ、という視線を僕に寄越す。

 二メートルは真っ直ぐ彼女を見つめる。

 僕は見るべき座標を見失う。ソファの裏に何かいるのだ。

 人間。

 物。

 ソファ自体にも何かが潜んでいるのだ。

 人間。

 物。

 僕が座ったら潰れて中身が出てしまう。

 綿。

 腸。

「キサはん、そへんなところで立ってへんで、うちらにきて座りやす」

「いつ帰る?」二メートルが言う。

「さあ、ウチにはとーんと。忙しないお人やさかいに」

 彼女がソファをぽんぽんと叩く。

 呻き声。たぶん幻聴。

 圧力に慣れようとする意志。遺志だ。

 僕は座れない。

 首も振れない。

「キサはん? ウチのお隣」

「北京で」

 ベイジン。

 空気を切る風。

 拳銃。片手は二メートルに。

 片手は僕を手招き。

 僕はどうしてもそのソファに腰掛けたくない。後ずさりも出来ない。

 マットも壁も人間。

 二メートルが多数決的にやる気のない生徒よろしく両手を挙げる。

 凶器注視。

 狂気中止。

 彼女はうふふう、と笑って僕の手を引っ張る。銃口を二メートルに向けたまま。

「北京で」

 ペキン。

「どないしはったんでしゃろ」

 僕はよろけてソファの背に触れてしまう。

 柔らかい。生温かい。

 これがソファとは思えない。

 僕の記憶の中のソファはもっと硬く冷たく。床のように。

「上海を知ってるか」

「お話ぽんぽん変えへんといてな。北京は」

 ペキン。

「よろしおすの?」

「キナイのダンナとやらは北京で」

 ペキン。

「何をしてる?」

「お部屋をご用意致しましょうか」いつの間にかサングラスが僕の真後ろにいた。

 僕は首を振る。結構、という意味ではない。

 拒否と拒絶。

 僕はこの家具をソファとは認めない。認めたくない。

 テーブルにカップ。

 サングラスが運んできたらしい。僕の分もある。今日に限って。

「いけずなお人やありまへんか。ウチに会いたいゆうてはったさかいに」

「それを下ろしてくれないか」二メートルが言う。

「いややわぁ、ウチこないなぶっそーなもん。気ぃつかへんかったわ。堪忍なぁ」

 本気よりもっともらしい演技。彼女は銃を袖に仕舞う。

 ベイジンと聞くと条件反射で銃を突きつけてしまうプログラムが埋め込まれているのだ。犬のように。鼠の如く。

 ペキンなら平気なのに。

 二メートルが両手を膝の上に戻す。ミイラの包帯。

「あんたの知り合いにエイヘンという姓がいないか」

「どうどす?」

 サングラスは上着のポケットから皮の手帳を取り出してページを繰る。「記録に御座いません」

「ナガカタでもいい」

「そのような方もおられません」

「陣内はんのお連れやろか。ええお人どすのん?」

 紅茶。ハーブ。

 二メートルは人捜しのために彼女に会いたかったとでも。

 角砂糖。

 誰なのだろう。

 ミルク。

 僕もその名前を知らない。

 彼女が知らないのならおそらく誰も。二メートルだけ。

 ソーサ。

「ならいい。邪魔した」二メートルが言う。

「なんやウチ、てっきりゆくえふめー捜してはるんや思うて」

 二メートルが上げかけた腰を停止させる。

 サングラスが一歩引いて、代わりに彼女が一歩出る。

「しょーがおへんなぁ。ほんまにえげつのうてかなしいわ。陣内はん、あんたぁ、上海ボンとえろう親しう」

 銃口。

 二メートルは相変わらず動じていない。

 しかし、今度は両手を挙げずに周囲をきょろきょろと見回す。両手を挙げることを忘れているわけではなさそうだ。

 優先順位。

 二メートルは何を。

「ウチのこと見てくれまへんのやろか」

「しゃんはいぼん?」二メートルが言う。

「野暮なお人やわぁ。上海はあんたはんが先どす。こーぼくのお連れにゆわはってよ。ウチのに手ぇ出さはったらあきまへん、て」

「行方不明になるとここに収容されるのか」

「あんたもウチのお気に入りになりたいんどすか?」

 僕の肩に何か。

 サングラスの手。退席しろ、という意味かと思ったら違った。

 僕は放心していたらしい。

 ソファも彼女も跳ね除けて、床に。

 喉が渇きすぎて奥で張り付いているのがわかる。

 メガネを触った手がやけにべたべたで。汗だ。首も背中も。

 今度こそ別室に連行される。

 文句は言えまい。僕はあの場の雰囲気に中てられたのだ。そう思うしかない。

 ソファとかテーブルとか、一瞬だけ封印する。

 緩い蓋を閉める。

 何かお手伝いを、というサングラスのお節介を断ってシャワーを浴びる。

 浴室には人の気配はない。

 物があるだけ。

 僕はどっちの味方なのだろう。という思考を破棄する。

 彼女だ。

 彼女しかいない。僕が縋るべきは彼女の領域。

 迷ってなんか。揺らいでなんか。

 一晩一緒に過ごしたくらいで。

 キナイのダンナ。留守。

 忙しないお人。

 北京。べいじんぺきん。

 そこで何を。

 上海。

 エイヘン。記録にない。

 ナガカタ。おられません。

 上海ボン。親しう。

 僕に尋ねる権利はない。

 知りたいとも思わない。知ったところで危険度が増す。

 中枢に近づいてしまう。末端でいたいのに。

 行方不明イコールお気に入り。迷走神経。

 汗まみれの僕の服は脱いだ場所から忽然と姿を消していた。

 サングラスの仕業。

 見覚えのない服が置き去りにされている。

 サングラスの仕業。

 トイレに行こうと思ってドアを開けたらヨシツネがいた。

 床に座って膝を抱えて。

「なにしてんの?」

 彼は僕が外に連れ出さない限り南国マンションで日向ぼっこしているはず。

 自力で来た。あり得ない。

 僕を追いかけて。笑えない冗談だ。

 無視して用を足そうとすると彼は僕の脚にしがみ付く。

「邪魔なんだけど」

 彼は首を振る。離れるどころかさらに強く。

 彼女と二メートルの遣り取りが頭から離れない。

 脱衣場でヨシツネを押し倒す。彼の思い通りになっているようで癪だが。

 サングラスは呼びに来ない。

 二メートルは話が済んだだろうか。

 銃声はまだ。彼女は。

「どうやってここに来たの?」

 例によって無言。

「誰かに送ってもらったんだよね。誰?」

 無言。

「言わないと二度と構ってあげないよ」

 彼は怯えた表情になって僕のメガネを指差す。

 サングラス。なるほど。

 山と海。洋館と南国マンションの距離はさほど問題にならない。

 サングラスは専門事務。

 ヨシツネ様の命令は奥様たる彼女の命令の次に絶対なのだ。

 僕は髪を整えるために洗面台の前に立つ。鏡のあるべき場所に鏡がない。

 壁に人間が埋め込まれて。

 上半身。僕が髪を手櫛で梳かすと向こうも。

 人間ではない。

 これは鏡。

 鏡の役割は映りこんだ人間の真似をすること。

 ヨシツネが身体を起こす。様子は鏡に映らない。

 横眼で見えたのだ。

 排水溝。

 歯のようなものが。口だ。流れた水がそこに吸い込まれる。

 洗面台の下は収納スペース。

 観音開きの扉。開けたら。

 開ければ。

 僕は浴室に戻る。

 排水溝。浴槽も洗い場も。

 溶けかけたぼろぼろの歯に髪の毛が引っ掛かっている。

 僕の髪の毛。僕が髪を洗ったときに抜けた。

 物だ。

 確かに僕は物だと思った。

 ここに人間がいないとも思った。しかしこのような意味ではなかった。

 確かに、

 ここには、いなかったのだ。

 いない。

 吐きそうだ。

 何も食べていないけど。

 そういえば、朝食は二メートルが採らないと言って。

 銃声。

 だと思う。僕にはわからない。

 排水溝と鏡。

 扉と壁。

 ヨシツネが定まらぬ焦点で僕を見上げる。

 銃声。

 廊下に出たら已んだ。

 待ち構えていたサングラスが僕を案内する。ヨシツネもついてくる。

 この前、この洋館に来たときに入った部屋。

 応接室。

 テーブルと椅子。僕が座っていたほうの椅子。

 レースの布を取り外す。僕はあの時これを見るべきだったのか、いまこれを見てよかったのか、よくわからない。

 ヨシツネが僕にしがみ付く。

 怖い。恐ろしい。

 それは僕だけの感情。

 サングラスが上着のポケットから何かを取り出す。

 僕はそれに見覚えがある。

 二メートルが手にとって、右から左に僕に押し付けた紙。

 名刺。

 新たな名刺ではない。それは確かに僕がついさっき手に取ったもの。汗まみれになった僕のズボンのポケットにくしゃくしゃにして押し込まれていたもの。

 いまようやく読むことが出来る。

 振り仮名とか、既存の言葉とかではなく、許可された。

 僕は布を元に戻す。

 椅子に戻す。

 人間だったもの。僕のたぶん親友。

 死んだ、たぶん親友。

 乃楽ナラシュウ。

 そして、名刺に眼を移す。

 サングラスがサングラスを外す。

 ヨシツネがよりいっそう強く僕にしがみ付く。

 僕以外の人間の存在を感じないために。

 眩暈がする。

 朝食を採っていないからだ。糖分と栄養と。

 摂取。

「あなたが」

 畿内キナイの檀那。

 サングラスはサングラスを掛けて笑う。口の端だけを上げて。

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