双花斎宮料理帖

三川みり/角川ビーンズ文庫

第1話 一帖 春三年 咲かぬ都の蕾 その1

 父はおうの地へ旅立つと、は数日前に聞かされていた。そしてその日、「いよいよ父君が出発するゆえ、お見送りに参られよ」と呼ばれ、庭に出た。

 そこにだん父が利用するぎつしやはなく、あるのは二頭の馬だけ。旅装の家来も、わずか三人。

ずいぶんさびしげなご出立)

 遠い海辺の地へ向かうにしては、あまりにわびしい旅たくだ。十一歳の少年にも、それがわかった。父が須王の地へ行くとは知らされていたが、その理由も、いつ帰ってくるのかも、だれも教えてはくれなかった。しかも父はこの時まで、真佐智の前に姿を現さなかった。

 春まだ浅き。桜はつぼみのままで、空気にもひんやりした冬の冷たさが残る。びんかんに季節の移ろいを知る小鳥のさえずりだけが、しん殿でんの屋根の上からしきりに聞こえてくる。

 乳母うばに背を押され、真佐智は馬のかたわらに立つ父へと近づいた。

「よい子にして、待っておいでね」

 宮中で、常にしようさんの対象であったふうな人らしく、父はおだやかなしようで告げた。

 真佐智はなおうなずく。

「はい。よい子にしています。父君は、いつおもどりですか?」

 じやに問うと、父は真佐智の頭をでた。

「わからない。一年かもしれぬし、十年……百年かもしれぬ。かどのお許しがいただけるまで」

 真佐智は、おどろき目を見開く。背後の乳母が、まんできなくなったようにすすり泣きはじめた。

 馬の傍らにひかえる父の兄弟きようだいも、目をせ痛みをこらえるような顔をする。

(百年? 御門の、お許し? 父君は、……須王へ行かれるというのは、まさか……ざい?)

 父は「ではね」と言って馬にまたがり、づなあやつってこちらに背を向け、馬を進める。その後を、乳兄弟が操る馬と、徒歩の家来三人が続く。

 馬が門を出ようとしたところで、ぼうぜんとしていた真佐智は正気づき、声をあげた。

「いや……! 待って! 父君、待って! なぜ!? わたしも、連れて行って!」

 父を追ってけ出す真佐智を、背後から乳母が「なりませぬ」となみだごえで制止し、める。真佐智は乳母の手からのがれようともがきながら、「いやだ、いやだ」とていこうした。

「父君! 父君! 置いていかないで、父君!」

 さけんだ。父は馬上から何度もり返ったが、馬の歩みを止めはしない。

「父君!」

 父がいなくなるかなしさと心細さと同時に、なぜいつしよに連れて行ってくれないのか、なぜこんな直前まで何も教えてくれなかったのかといううらめしさがき出す。それら全部が一緒くたになり、涙になり、「なぜ」「どうして」と心の中で問い続ける。

 真佐智は乳母のうでの中で泣きくずれ、乳母は細っこい彼の体をかきいだきながら「わたしが、若君のおそばにおります」と、涙声でり返していた。

 それは新たな御門がそくし、元号が改まったえんれい元年春のこと。

 せいたまわり臣下へ下っていたせんていの第四皇子、いちじようひがしのぶちかは都ずいいちの歌人。しかし異母兄であるきんじよういかりを買い、須王へちつきよを命じられた。原因はおおやけにされなかったが、さる女性をめぐっておそれおおくも御門と対立したとのうわさが、宮中ではまことしやかにささやかれた。

 宣親の一子、真佐智は都に一人残され、父の帰りをひたすらに待った。

 しかし御門の怒りが収まる気配がないままに、月日は流れ───三年。

 今年も宣親不在の春が巡り、真佐智も同様の日々を過ごすのだろう。周囲の者も本人もそう思っていたが、この年、運命が動いた。

 真佐智は都をはなれ、くにまもりのおおかみを祭るさいぐうがある、の地へとおもむくことになる。

 一年後空位になる予定の、美味宮うましのみやとなるために。



 ◆◆◆



 さいおうが住まうさいぐうりようの寝殿には、樹林を思わせるさわやかなこうかれていた。

 息をすると、胸の奥から体の中へすがすがしいものが通りける。それは香のせいばかりではなく、の向こうに座る、こくにおいて最高位の聖職者───斎王の存在がこの場の気をせいじようにし、引きめているのだと真佐智は感じた。

(あれが、斎宮様)

 御簾の前。南のひさしにひれ伏した真佐智は、御簾しに自分を見つめているはずの斎王の気配にあつとうされ、指先までぴんとばしてかたくなっていた。

 世界の東の大陸は、こんこくと呼ばれるだいていこくに支配されていた。さらにその東の海上に、崑国に寄りうようにあるのが小さな島国、和国である。

 和国は崑国をそうしゆ国とあおいでいたが、当然ながら言葉も文化も異なり、しんぽうする神も独自のもの。和国には八百やおよろずと数えられる、多くの神々が存在する。その中で最も尊く強い力を持つのが国護大神。和国の統治者である御門は国護大神を千年も昔から信奉し、あつく敬い祭るために、特別なかむみやである斎宮を造り、国の平安をいのる。

 斎宮に、御門の代理として仕える女性が斎王だ。斎王のことは斎宮と呼び習わす。

 現在の斎王は、真佐智の父・一条東宣親のまいである皇女、ゆかりである。

 真佐智にとっては叔母おばにあたるが、血のつながりの親しさは感じられない。そこにいるのは、国護大神の最も近くに仕える者。人の世とは別の、一段高い場所に座っているように思えた。

 指をつくゆかいたみがかれたなめらかさや、白木の柱の美しさ。真新しく、竹のかおりが強い御簾の目の細やかさ。斎王の周囲には、古びたものが一つもない。

 神々は古びることがないというとこわかの思想が、斎王の住居にも行き届いている。ではないが、常に気を配り整えられているきんちようかんがみなぎっていた。

「一条東宣親の子、真佐智です。崑国へお輿こしれする予定の当代美味宮に代わり、一年後に美味宮となるようにとの、御門の命により参りました」

 口上を述べると、しばしのちんもくの後、やや低めの落ち着いた斎王の声が命じた。

おもてをあげよ」

 真佐智は顔をあげた。こちらから暗い御簾の向こうは見えないが、光の当たる彼の姿は斎王には見えているはずであった。「ほぉ」と、斎王がめずらしそうな声を出す。

「御門のごはいりよも、なかなかですねぇ。なんともえの良い子を選んでくださったみたいで」

 廂のはしに控えていた若い男がくだけた調子で、御簾越しに斎王へ声をかけた。

 ふん、と斎王が鼻で笑う。

「確かに。姿だからなおのこと、むすめのようね」

 すいはつに、白地のわらわ水干を身につけた真佐智は十四歳。そろそろ元服すべきねんれいで、つうであれば稚児姿にもかんが出てくるのだが、彼に限ってはそれがない。体つきがきやしやがらなこともあるが、目鼻立ちが整いすぎているせいで、男くささがない。ことに目が大きく、くっきりとしたふたまぶたなので、そこが一層少女のようなのだ。

 斎王の気配にしゆくしてはいたが、むっとした。真佐智の容姿はたびたび、少女のようだと評されるが、それは子どもっぽいと言われているのと同じ気がして、うれしいことではない。

「女の子では、ありません」

 思わず口に出したあと、しまったと思った。容姿についてあれこれ言われると、ついむきになるくせがある。しかしこれは、口答えしたととられかねない。

(望みを果たすまでは、従順に素直に、振るうべきなのに)

 いつしゆん流れた沈黙にひやっとしたが、すぐに御簾の向こうから笑い声があがった。

「そのようなこと知っているわ。しかし女呼ばわりしたことで、おまえのほこりが傷ついたのなら、わたしが悪い。ただおまえの顔が、可愛かわいいのは事実」

 笑いを収めた斎王が、いつたん言葉を切った。こちらに注意深く視線を注いでいるのを感じる。今ようやくまともに真佐智と向き合い、観察を始めたようだった。

「なるほど。言いたいことを言える口があるのは、好ましい。それは気にしない。ただしかし、おまえが心に抱く決意だけは───そん

 真佐智はびくっとして、御簾の向こうを見つめた。

(不遜? まさか斎宮様は、何もかも見通されているのか?)

 少し、こわい気もした。不遜と呼ばれてしかるべき心当たりが、真佐智にはある。

ふゆつぐ。そこの美味宮候補、おまえに任せる。一年後、美味宮として務められるように仕込め」

 斎王が命じる声に、控えていた若い男が「承知いたしました」と頭を下げた。

 きぬれの音がし、斎王が座を立ったのがわかった。真佐智が再びひれ伏すと、冬嗣と呼ばれた彼が座を立ち、すっと寄ってきた。

「顔をあげていいぞ。長旅の後、すぐに斎宮様へのお目通りはつかれただろう?」

 ほがらかな声にうながされ顔をあげると、明るいひとみが正面にある。

しようぐうを務めている正親おおぎまち冬嗣だ。君の世話役を任じられた。と、いうことで。よろしくな。仲良くやろう」

「ありがとうございます。小宮司」

 しゃちほこばって頭を下げると、彼、冬嗣は茶目っ気たっぷりに、おどけたがおを見せる。

「俺のことは冬嗣と呼べばいいさ。ここは宮中じゃない。神と斎宮様の前以外では、気楽にしていいぞ。まあ、とりあえず。君がこれから生活する場所へ案内する。ついておいで」

「はい、冬嗣様」

「うん。『様』もいらないな。ただ、冬嗣でいいぞ。俺も君のことは、真佐智と呼ぶ」

 人を本名で呼ぶのは通常は無礼とされ、ことに上位や目上の人に対しては絶対に許されない。許されるのはあるじが従者を呼ぶときくらいだが、それでも、できるならばける。都ではしよみんにまでその気風がしんとうしているのだが、どうやらここではちがうらしい。

 さすがに上位の人に本名で呼びかけることはないだろうが、それ以外は許されるということ。

「はい……冬嗣」

 家人でもない目上の人を呼び捨てるのに慣れず、ぎこちなく答えた。冬嗣は、それでいいよと言うように、にっと笑う。「おいで」と言って歩き出す彼に、真佐智はついて行く。

 わた殿どのまで来たとき、ついと視線を遠くへ向けると、青々と連なる山がくっきりと見えた。山の近さに、ここが都ではないのだと実感する。

(ここでわたしは───美味宮にならなければ)

 それが決まったのは、わずか十日前だった。

 父、一条東宣親がかどいかりを買い須王へ流され、早三年。この春で四年目に入る。

 この春も御門のお許しが下りる気配はなく、父が須王から送ってくるふみれた。ここ一年半は一度も文が届かず、父が今何をして何を思っているのかは、わからない。

 しかしそれを、さびしいとかはくじようだとか、気にしているゆうはなかった。日々の生活が、立ちゆかなくなっていたからだ。

 当初は、父からいくばくか金も送られてきていたが、それは一年もたないうちになくなった。

 道具類を売り食いつないでいたが、それらも底をつきかけていた。

 家人は一人減り、二人減りして、残ったのは乳母うばのみ。

 後見人を得て元服し、後見のくちきで宮中に職を得なければ、早晩食べるものさえなくなるのは目に見えていた。

 貴族の男子は早ければ十一、二歳、おそくとも十五、六歳で元服する。

 真佐智は十四歳。元服するのに丁度良いとしごろ。しかし元服のしきをする予定はなかったし、後見になってくれる人のあてもなかった。宣親への御門のお怒りがとけていないために、だれもが御門にえんりよし、その子の真佐智を敬遠するのは当然だった。

 乳母と二人、どうやって生きていけば良いのか───。

 雑草のしげほうだいの庭をながめながら、あせなやんでいたある日、とつぜん、祭主から呼び出された。祭主はくにまもりのおおかみを祭る斎宮において、別格の斎王を除いた中では、最も位の高い神職。そのようなけんある人物に呼び出される理由がわからず、おどろきつつも対面した。

 祭主は真佐智に対面すると、あいさつもそこそこに、

美味宮うましのみやになっては、もらえまいか。これは御門もご承知のことだ」

 と、告げた。

 美味宮とは、さいおうに仕え、神と斎王のを料理する役目を負う聖職。美味宮と呼ばれる宮に住み、日々のみそぎと御食の調理が務めだ。

 この勤めは十年前まで、百年もの間空位だった。十年前に、せんていの九番目の皇女がその勤めについたが、その人が一年後、崑国後宮へ入ることになったため、また空位になるという。

 さいぐうりようからは、美味宮をぐべき候補の者を、伊那の地へ送って欲しいとようせいがあったらしい。真佐智に、その候補となれということだ。そして一年後、美味宮になれ、と。

(御門は、父君の子であるわたしがざわりなんだ。だから都から、遠ざけたくて)

 そうとしか思えなかった。「御門もご承知」という祭主の言葉から、「おまえは、父のように逆らうのか? それとも従うのか?」と、御門から直接かれているような気がした。

 ただそのとき真佐智は、とつに計算を働かせたのだ。

 もしやこれは幸運かもしれない、と。

 一年後美味宮になるとすれば、そのときは必ず元服する。その際の後見人は、真佐智のすいせんにんである祭主となるのが常。

 祭主は、斎宮の中で最上位官である。しかも伊那の地にじようちゆうすることのない、中央官。その人を後見人として元服できるのは、大きなりよくだ。

 立派な後見人を得て元服し、数年間、美味宮として務める。その務めぶりで祭主の覚えがめでたくなれば、美味宮を退き、宮中の末席にでも職を得ることは可能だろう。

(父君の罪で閉じられていた未来が、思わぬところから開ける)

 その場で「だく」と答え、すぐに財産を処分し、乳母にそれらをあたえて都をはなれた。

 数日かけて、今日やっと斎宮寮にとうちやくした。

 要するに真佐智は、しようがいを伊那の地で過ごす決意をして来たのではないのだ。美味宮になるのは、元服して官職を得るための、いわば足がかり。

 乳母はゆずられた財産を持っておいしきへ身を寄せると言っていたが、いつか真佐智が元服して屋敷を構えたあかつきには、必ず呼びもどしてくれと泣いた。乳母は産んだ子をすぐにくした後に、真佐智の乳母となった人だ。そのため真佐智を、我が子のようにいつくしんでくれた。真佐智は「必ず呼び戻すから、待っていて」となぐさめ、約束した。

 真佐智の母は彼のお産で命を落としたために、彼も乳母のことは、母代わりにしたっていた。

 家人たちが次々去っても、最後まで真佐智とともにいてくれた乳母の真心に、むくいたい。いずれ中央で官職を得て屋敷を構え、乳母を呼び戻し、そこで静かに暮らす。そして父のざいかろんじられ続けて失った自らの誇りを、官職を得て出世することで取り戻したいのだ。

(けれどそれを、斎宮様にかれたのか?)

 不安なのは、斎王が真佐智に向かって放った「不遜」の一言。斎王はもしや、「美味宮という聖職を、出世の手づるにするのか」と、真佐智を責めたのではないか。

 ただ、不遜は百も承知だ。

 口元を引きめ、視線をあげる。不遜のそしりをあえて受けようと思うのは、ひたすら不安とともに父の帰りを待っていたときと比べれば、希望があるだけ心が明るいから。それを斎王にかされ、不遜と言われたのだとしても、構わない。

 冬嗣に連れられて、斎王の住まう屋敷を出た。

 国護大神を祭る斎宮は、深い森におおわれたかむみやである。その神宮に仕える斎王や神職たちは、だんは神宮から離れた場所で生活する。それが斎宮寮だ。

 真佐智が今いるのが、その斎宮寮。

 斎宮寮の周囲は連なる山に囲まれている。土地は多少のふくがありながらも、ほぼへいたん田圃たんぼと森が広がっていた。わたかぎ田舎いなかの風景の中に、とつじよとして斎宮寮は出現する。

 白木の柱と檜皮ひわだの屋根を持つ建物群が整然と並び、それらが白いたべいで囲われている。白板塀の左右を見てもそのはしが見えない。奥行きとなると、何処どこまで続いているかわからない。

 都ほどきよだいではないにしても、都のひと区画をそのまま巨大な手で持ち上げ、長閑のどかな田舎の平野に投げこんだようなものだ。

 斎王の住まうしん殿でんがある御座おましどころは、内院と呼ばれる斎宮寮の北の端。そこを出ると南側に神職がめる中院。さらに南へ向かうと外院がある。外院には斎宮じゆうと呼ばれる、斎宮を運営する人々が働く建物群が並んでいた。

 この斎宮寮に暮らす者は五百人ほどと聞く。冬嗣について中院から、外院へと歩いていると、幾人もの人とすれ違う。

「ところで、真佐智。君、くりやに立ったことはあるか? 料理をしたことは?」

 先を行く冬嗣が背中しに訊いてきた。真佐智は自分の歩みがおくれがちなことに気がつき、あわてて彼と並ぶ。彼は背が高い。神職に似つかわしくなく、かたうでたくましいのがきぬの上からでもわかる。しかし表情はにゆうで目には陽気なかがやきがあるから、親しみやすい。

「どちらも、ありません」

「まあ、貴族のていなら当然だな」

「当然ということは、やはり美味宮が御食を準備するというのは建前で、実際に御食を料理するのは別の者なんですね?」

 美味宮の務めについては、祭主から聞かされた。しかし真佐智のような、料理の心得がかいの者が命じられる役目となれば、美味宮は、ただのおかざりなのだろうと推測していた。誰かが作った御食を、神や斎王の前に上げ下げするだけの役目ではないか、と。

 冬嗣が苦笑いする。

「おいおい。貴族の子弟なら料理ができなくて当然とは言ったが、そのままで良いとは言ってないぞ。君はこの一年で、神と斎宮様に食していただくにあたいする御食を作れるようになるため、しゆぎようするんだ。現在の美味宮も、ここにいらしたときはまだ七つだったが、修業された」

「本当に、わたしが作るんですか?」

 目を丸くすると、冬嗣は悪戯いたずらぞうのように、にやっとした。

「そう。君が美味宮となったときには、料理ができないと困るわけだ。そこで最低半年は修業のため、かしつかさに勤めてもらう。基本的なことを学んでから、美味宮に教えをうべきだ。美味宮は崑国にわたられる準備で、常の務めのほかにも、崑国の風習やこんも学ばれているんだ。ぼうだから、基本まで君に仕込めない」

 崑国に渡るという美味宮は、斎王のまい。崑国のようなだいていこくの後宮へ送られるのだから、さぞかし洗練された、すぐれた美女なのだろう。

 ただいくら美女だろうが、美味宮が誰もが認める重職であれば、崑国へ送られはしない。

(要するに美味宮は、その程度のお務めということ)

 美味宮という務めに対して都人がいだく印象は、「あってもなくても困らないお役目」だ。

 真佐智の口元に、ひそかにみがかぶ。

 だからこそ、利用できるとんだのだ。何かのはずみで簡単に退くことが可能な務めであれば、出世の足がかりにうってつけだ。

「君もいきなり炊部司に入るのは、不安だろう。そこでやさしい俺は気をきかせて、友だちを用意した」

「友だちですか?」

 問い返した声に、かすかにちようしようめいたひびきがにじむ。

 真佐智には兄妹きようだい兄弟きようだいもいなかったし、この三年はだれからもけられていたので、年の近い者と話す機会すらなかった。友と言われて思い浮かぶのは、父が歌人として人々のせんぼうを集めていたころ、屋敷を訪ねて来た父の友人たちの姿だけ。つり殿どので友と語らう父が、笑いくずれて友の肩に手をかけていた親しげな様子を、うらやましいと思って見つめていた。

 しかし父が須王に流されると、友人とやらはれいたんだった。そのことに最初は、いちいち傷ついたが、すぐに慣れた。

 利用価値があるうちだけ、おたがい友人と言っていられる。そんなものだと、さとった。

 利用されるなら、こちらも相手を利用すれば良いだけ。そうすれば傷つかなくてすむし、うまく目的を達成できる。それが世の中なのだろう。

「ありがとうございます。楽しみです」

 笑顔を作った。互いを利用するならば、まず相手に、真佐智は利用価値があると思わせないといけない。そのためには親しみやすさが必要。どうせ、用意された友だちとやらも、最初はこうやって作り笑顔で、上辺の親しさを演じてくるはず。

 一年間修業が必要ならその間は、周囲とのいさかいを避けたんたんと過ごすのが得策。そのために笑顔は、最も有効な方便だ。

 冬嗣は、真佐智の笑顔を見て不思議そうな顔をしたが、すぐになつとくしたようにうなずく。

「うん、そうだねぇ。楽しみにしておいで」

 板塀で区切られた十二司が並ぶ通路をっ切り、さいぐうりようの東の区画にさしかかっていた。

 炊部司であろうと思われる白板塀の出入り口に、直垂ひたたれ姿の少年がいた。彼はうでみして板塀の門柱に寄りかかり、見るともなしに空を見上げている。その少年の姿を見つけると、冬嗣は「おっ。言いつけを守ったな」とうれしそうにつぶやき、続けて真佐智の耳にささやく。

「彼が、その友だちだ」

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